三月三日について。
「富樫」
そう名前を呼べば、すぐに
「なんじゃい桃」
と返事をくれる。
いつでも、どんな時でも、当たり前のように。
ただそれだけの事が、いつでも幸せをくれるんだ。
「富樫」
いつものように、桃は富樫の名を呼んだ。意味があって呼ぶ事もあるが、大抵は「なんじゃい桃」という富樫の声を聞きたいが為に、桃は富樫の名を呼ぶのだ。
だが、今日に限って富樫からの返事はなかった。ぼんやりと、眠そうな間の抜けた顔で中空を眺めている。
「富樫!」
桃は焦れて、今度は少々強めに富樫の名を呼ばう。その声に、富樫はびくりと身を竦ませて、ようやく桃のほうを見た。
「お、あ、桃」
いつもよりも大分精彩を欠いたその声に、桃は僅かに苛立ちを覚える。
「さっきから呼んでたんだぜ」
「そ、そりゃすまんかったな」
詰るようにそう言えば、富樫は叱られた犬のような顔をして桃に詫びた。そして自分の耳に指を突っ込んで、なにやらごそごそと弄りだした。
「なんか聞こえ辛くってよ…悪かったな」
そうしてしばらく耳を弄っていた富樫だが、今度は首を傾けて、即頭部をとんとんと叩きだす。その仕種に、桃はある事に気付いて富樫に尋ねてみる。
「なぁ富樫、お前最近いつ耳掃除した?」
「んぁ??あー…そうだなぁ…えぇと…」
煮え切らない富樫の返答に、桃は呆れて苦笑した。すぐに思い出せないという事は、一週間やそこらではきかないのだろう。
「全く…しょうがない奴だ、な!」
「うぉあッ?!」
言うなり、桃は富樫の体を自分の膝の上に引き倒した。慌てて起き上がろうとする富樫だったが、桃はそれを許さずがっちりと押さえ込む。
「あんまり溜め込むと、病気になるぞ」
富樫を押さえ込んだまま、桃はどこからか耳掻きを取り出して微笑んだ。聖母マリアもかくやというような笑顔であったが、その笑顔の裏に色々なものが詰
まっているという事を、富樫は今までの経験で十二分に、分かりすぎるほど分かっていた。
「も、桃!そんくれぇテメェでやっから…!」
「遠慮するなよ。大丈夫。俺上手だから」
「そういう問題じゃ…ヒィッ!」
言うが早いか、桃は耳掻きの先端を差し入れた。突然ひやりとした物を耳の中に感じ、富樫は一瞬身を硬くする。桃はそのままゆっくりと、探るように耳掻き
を動かした。こちょこちょと動く耳掻きの感触に、堪らず富樫は身を捩る。
「うひっ、ちょ、桃、くすぐってぇ…って!」
「こら、動くと上手く出来ないだろ」
「ンな事言われても…っひゃ、あ!」
「じっとしてろって。じゃないと…ヘンな所に突き刺しちまうぜ?」
往生際悪く、いつまでも身動ぎを止めない富樫に、桃は少々脅しつけるようにそう言ってやる。途端、ぴたりと動きを止める富樫。まるで小さな子供のようだ
と、桃はさも嬉しそうに笑った。
「じっとしてろよ」
再度そう言い聞かせて、桃は耳掻きを再開する。壊れ物を扱うように、慎重に、丁寧に。
最初こそガチガチに緊張していた富樫だったが、丁寧な桃の手つきに安心したのか、いつしか体の力を抜いていた。
「…終わったぜ」
そう囁いて、耳にフッと息を吹きかけてやれば、途端びくりと体が跳ねる。よほど心地が良かったのか、むっくりと体を起こした富樫の顔は、寝惚けたように
ぼんやりとしていた。
「どうだ?すっきりしたろう」
「あー…おぉ、うん」
ぼんやりしたまま、富樫は指で軽く耳の穴を弄る。先ほどまで、綿でも詰まっているかのようにくぐもって聞こえていた音が、今ではとても鮮明に聞こえるよ
うになっていた。
「俺の声も、よく聞こえるだろう?」
「…おう、よっく聞こえるぜ」
桃がそう問えば、富樫はにっかと笑ってそう答える。ありがとな、と照れながら礼を言う富樫に、桃はフフフと笑って見せる。
「富樫」
「なんじゃい桃」
いつものやりとり。他愛のない事が、これほどまでに嬉しい。
桃はつい、と富樫の耳許に唇を寄せる。
そして、一言ひそりと囁く。
『 』
ひそりと囁かれたその言葉に、富樫は途端に顔を真っ赤に染める。その反応に、桃は笑って富樫をぎゅっと抱き締めた。
3月3日。耳の日である
そしてなにより、
桃の節句、である。
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