湯豆腐くらくら
そろそろ晩飯でもと思っていたら、アパートのドアをどんどんと叩かれた。虎丸の住む自分よりもだいぶん年嵩のアパートに呼び鈴、今でいうインターなんちゃらというものはついていない。
用心を知らない大胆さと大雑把さで虎丸はドアを大きく外へ向けて開いた。どうせ物取りなんざ来やしねぇやと金融会社駆け出しの若虎、鼻をクンクン鳴らしながら顔を出せば、学帽こそかぶってはいないものの見飽きるほどに見慣れた傷面がビニル袋ぶら下げながら立っていた。
「よう」
富樫は笑って空いた右手をちょっと上げて見せた。笑うと顔の皮膚が傷に引っ張られて、辛そうにも見える。
アパートの廊下にある蛍光灯は並んだ四つのうち虎丸の部屋の上にある一つは青とオレンジのパチパチをはじき出していて、その顔を点滅させた。
「どうしたんじゃ富樫」
富樫はビニル袋をがさがさ言わせながら顔の高さまで持ち上げ、飲もうぜとだけ言った。
ストーブを出したというのに肝心カナメの灯油が無くて舌打ちをした、ひどく乾燥した寒い夜の日のこと。
折りたたみ式のもらい物でなく拾い物のテーブルの上にビールやチューハイの缶がずらずらと並ぶ。二人で飲み干すにしてはあきらかに多いその缶の数。
首をひねりながら声をかけ尋ねても富樫はぼうっとしている。
「富樫、お前他に誰か誘ったんか?」
「いんや、おまえと俺だけ」
虎丸はそうかと答えて、その缶の並木から一つを選び取った。女子供が好みそうな安っぽい不自然な黄色のカクテル缶。富樫は迷いもせずに一番手近な青い飲み物を選び取る。
つまみは何か無いかとビニル袋の穴の開いた底をさぐってみても、何もない。缶をめったに詰め込まれて形をゆがませたビニル袋の底には水滴がたまるばかり。
「つまみはねぇんか」
「ねぇ」
富樫はすっかり暮れ沈んだ窓の外を見たまままだぼうっとしている。せっかくつけてやったテレビも素通りして、何ぞ面白いものがあるわけでもない窓の外をながめてぼうっとしていた。
「ちぇっ、気がきかねぇやつじゃ」
「悪かったな」
悪かったときた。富樫の手にあるカクテル缶のプルタブは起こされていて、一口ばかりは飲んだらしい富樫の唇あたりからは悪甘いたるたるとした匂いがする。
こりゃあ重症だぜ、虎丸はちゅっと舌打ちをして自分の分の缶を握る手に力を入れた。
四畳半のボロアパート、トイレはかろうじてくっついていたが、風呂はない。近所の戦闘のばぁちゃんを拝み倒して出世払いとしてもらった。人徳だと虎丸は言う。
その四畳半の一畳に富樫は体育座りにおさまって、一口飲んだきりのカクテル缶を握ってぼうっとしている。虎丸は膝で畳をさりさりと音を立ててにじって近寄り、顔を覗き込んだ。
塞いでいる。何か内内からどんよりあふれそうなのを堤防で塞いでいるようだ、虎丸はまっすぐ顔を近づけると富樫のささくれ唇を自分の唇でムイと噛んでみた。オレンジであることを不必要に主張しすぎて、逆に嘘くさい甘い匂いが虎丸の唇にも乗る。
「おわ!」
「ヘッヘヘ、なーにウジャウジャやっとんじゃ、え?」
さっさと重たいままの缶を富樫の手から取り上げて、折りたたみテーブルに戻す。取り上げられた缶を追いかけてくる富樫の手の太い手首、ギュウと力を込めて握ってやる。虎丸の親指にちょうど脈があたり、とことことゆっくり駆けっていてそれに虎丸は腹を立てた。余裕じゃのう、エエ?繋がった眉が持ち上がって、少しばかり虎らしい表情を作る。
「馬鹿おまえ返せや、おい、コラ」
「やかましいぜ富樫」
虎丸はそのまま低い声で一喝し、そのまま膝でもって富樫の腹を押して畳へゆっくりと押し付けた。あくまでゆっくりとだ、けれど虎のように。
生えてもいない牙をむき出して、凶暴に見えるようににやっと笑ってわざわざと低い声を作る。
「虎丸さまが甘えさせちゃるわい、文句抜かすと明日がヒデェぜ」
ついに畳についた富樫の背中、それを追って虎丸も富樫の体に倒れこむ。
ありがとうもやめろも、それからすまねぇも何も富樫は言わない。だから虎丸はせいぜい黙って大きな手のひらで丁寧に満遍なくさすってやった。
「貯金してたんじゃ」
富樫は一度ケンケンと咳をしてから、横に転がる虎丸にではなくあお向けのまま天井に向けてしゃべり始めた。
「ほーん」
「だいたい俺ァ塾長ンところに住み込んで四六時中つきっきりだからな、ちっとばかしの給料使うヒマもねぇ」
「そんなら寄付すっか、俺に」
「馬鹿」
富樫の拳骨が苦笑まじりに飛んできて、同じく仰向けに寝転んでいた虎丸の厚い裸の胸板の上にごっとんとぶつかる。やる気のない拳骨はそのまま胸板に居座って、虎丸の心音を感じた。
ああもう大丈夫じゃ、虎丸はやさしい獣の目をして笑う。虎というにはあまりに慈しみのある目で富樫を横目。
「で、たまった金で墓を作った」
おう、虎丸は至極平然として受け流した。続きをせかすことも、茶化すこともせずにおうと相槌を打つ。
手を少し無理に伸ばして、テーブルの上に置いた富樫のカクテル缶を掴む。危うく落としそうになったのは缶の周りに水滴がびっしりと浮いていたからで、それだけ部屋が二人分の体温でもってあたためられたということがわかる。
「兄ちゃ、兄貴の墓じゃ。ずーっと骨壷を田舎に置いてあったのを入れてやってよ」
「ああ」
「もう墓に居るんだと思ったらよう、ホッとしたんだかなんだかわかんねえや」
虎丸は黙って頭だけを起こし、ぬるくなったカクテル缶を一口すする。炭酸が抜けてぬるくなったそれは舌が悪くなりそうなほど甘いし匂いもきつい。
一口飲んで、隣の富樫へ差し出してやる。富樫の拳骨が虎丸の胸板の上からどいてその缶を持っていく。
不器用な富樫、胸板に酒を零しながらごくごくとカクテルを喉を上下させて飲んだ。甘い匂いが広がる。
「にしても、俺ァなんでてめぇんトコに来たんだか」
「甘えに来たんじゃろ」
虎丸は富樫が苦笑いを顔全体に浮かべる前に言った。富樫の顔がこわばる。
「お前が俺ントコに来るのは、甘えたい時じゃろうが」
むっとしたように唇を尖らせる富樫、その尖がったところをめがけて虎丸はまた顔を近づけ、目的を唇にと見せかけて胸にこぼれた酒を舐めた。
やめろと今度は腕でもって押し返された。
「何言ってんだ、おいコラ調子乗ってんじゃねぇ」
「わぁったよ、ケッ」
虎丸はケッとふざけた表情で毒づく。
そういう奴じゃ、ずーっと。塾生だった時から。
虎丸は深追いをせずに、上半身をむっくりと起こして腹が減ったとぼやいた。わざとではないのだがタイミングよく腹を鳴らす。
「飯食ってなかったのか」
「食ってねぇ、誰かが来たからな」
「チッ、じゃあ何か作らねぇとなんにもねぇってことかよ」
「そんなに言うなら最初っからつまみくらい買ってくりゃ良かったろ」
虎丸はあーあとわざとらしく伸びをしながら、パンツも吐かずに立ち上がった。さすがにだるさや筋肉のこわばりを感じてはいるが、悪甘い匂いと一緒に窓を細く開けて吹き飛ばす。とたんに余韻も温度も出て行ってしまい、残る最後はまだまだ残るカクテル缶のみ。ほうっておいたままの虎丸の缶と富樫の缶あわせてテーブルの端にのせる。
富樫はパンツ一丁で体をぎしぎし言わせながら首を回して、ひとつあくびをした。さっきまでのぼうっとした雰囲気はどっかに行って、そこに居るのはただ腹を空かせたいつもの傷面である。
虎丸は安心して冷蔵庫を開いた。オンボロの中古冷蔵庫はぶうんぶうんとやかましく唸りながらも中身を冷やしている。
「あ、なーんもねぇ」
「あ?マジかよ…」
見事に何にもなかった。
ビニルに一塊の冷えてこちこちの飯を見つけただけである。
「飯しかねぇ、醤油かけて食うか」
「ふざけんな」
富樫はヘソをまげてぶうぶう文句を言いながら、それでも残った酒を冷蔵庫に収めていく。女房ぶりが塾長のところで磨かれてきたなと言ってやると、富樫は酷く嫌そうに黙った。
と、コンロにおいたままの鍋を思い出す。
「お、今朝の湯豆腐が残っとった」
「朝から湯豆腐かよ、いい身分じゃねぇか」
「富樫飯貸せ、それから茶碗二つ」
猛虎流を見せちゃるわい、ニャアと笑う虎丸の笑みは虎というよりはよほど猫だった。
鍋の中では一応情けに入れた薄っぺらな出汁昆布がべろべろ出汁を出しつくしてふやけている。豆腐だって角をしっかり保っているものは一つとしてない、ぐずぐず砕けて、汁が薄くにごっていた。火にかけてくらくらと煮え立たせる。
「湯豆腐じゃ飯のオカズにならんだろ…」
「ま、見とけって富樫」
茶碗に均等というより少々虎丸びいきに温めた飯をよそい分け、上から湯豆腐を汁ごとざぶざぶとかけまわす。
醤油をぐるぐるさして、
「ほれ」
と箸を差し出した。
「猛虎流、湯豆腐かけ飯じゃ」
富樫はまんまじゃねぇか馬鹿虎ァ、そういつも通りに笑って、箸を上下させると醤油の茶色を茶碗全体に行き渡らせてからそれを食った。
虎丸もアチアチと舌を鳴らしながら食った。
男二人、全裸とパンツ一丁で何を。二人顔を見合わせて笑って、それから食った。
帰りがけ、服をしっかりと身につけた富樫を虎丸は玄関の柱にもたれかかりながら見送った。
虎丸はまだ全裸である。
「おい、見られたらどうすんじゃ、誤解されるだろ」
富樫はあたりを見渡してから嫌そうに咎めた。
「早くしまえやそのみっともねぇモン」
みっともねぇと言われたらさすがに虎丸だって憤慨する。わざわざペシペシと尻を叩いて、腰を突き出す。
「オウ聞き捨てならねぇな、これのどっこがソマツだってんだよ」
「いいから!!ったく、てめぇは変わらねぇな」
虎丸はふいに真面目な顔になって、
「ああ、変わらねぇよ。俺は」
そう、言った。
虎丸の言葉は続く。
「だからアマちゃんのお前のことくらい軽いモンじゃ」
「………」
「それからな富樫、次は酒買ってこなくっていいぜ?まだ大分…たしか後六本くらいあったろ」
「あ、ああ」
戸惑う富樫、その富樫の目を虎丸の目はそらさずに射抜く。
虎丸は裸一貫、誰より獣の姿の似合う男は胸を大きく張ってはっきりと言った。
「一人一本ずつとして、後三回は甘え料先払いしてもらってあっからな」
ニッカと笑い一言、さびしくなったらまたこいや。
また、いつだって。
富樫は一言、バァカと笑って、いとしい行き過ぎた親友の肩を叩いて背中を向けた。終電は乗り過ごした、が、タクシーは拾えると足早に去っていく。
泊まったらいけないような気がして、泊めたらいけないような気がして。
互いに思いやりながらその夜はぽっきりと別れた。虎丸はつい出番のなかった万年床にもぐりこむ。何を切羽詰っていたのか、あと少しずれれば布団があったのに。まったくケダモノじみてるぜと笑う。笑いはすぐにシィッと消えた。
二人が男塾を卒業して、まだたったの一年も経っていないある冬の晩のことである。
Copyright (c) 2007 1010 All rights reserved.
