呼ぶ声の、

オオカミと七匹の子ヤギのヤギは本当に馬鹿だと常々思う。
三人居れば文殊の知恵と言う、その倍+1居てどうしてドアを開けるのか。
だが富樫に関して言えば、何人居たって富樫なのだ。
今日も今日とて、富樫は富樫。




「富樫」
そう部屋のドアを叩く音と、呼ばう声。時計なんて贅沢なものの置いてあるような男根寮ではないが、およそ日付を跨いだ辺りだと富樫は目星を付けた。
「俺だ」
「おう」
桃だ。そんなこと確認しなくともわかる。
何か用かもしれないとベッドから下りて、床をきしませながらドアに接近しそのままドアを大きく手前に開いた。
驚いたような顔の桃が月の光に照らされている。これはよっぽどのことかもしれないと富樫、声を潜めるのを思わず忘れて、
「ど、どうしたんでぇ桃」
と大声を出してしまった。桃はとっさに手の平で富樫の口をむずと鼻ごと覆った。ふがお、と間抜けな音を立てて赤くなったり青くなったり忙しい富樫をそのまま押して桃は部屋に入る。足で素早くドアを閉めた。これでいかに隙間だらけの寮だといっても大声を上げたりプロレスでもおっ始めない限り教官が駆けつけてくることはないだろう。
ドアが閉まったのを確認し、桃は手を離した。富樫が床に崩れた、桃も付き合ってしゃがむ。手を離された途端にブバァッと音を立てて空気を吸い、むせて顔を真っ赤にさせる富樫の背中を桃はさすってやる。
「い、いきなり何すんじゃ…!」
「フッフフ、悪い」
「口とハナ手で塞いだら死ぬだろうが!!」
いきり立つ富樫。受け流す桃。桃のほうが何枚も上手である。
「じゃあ口だけ口で塞げばよかったんだな」
間が有った。突発事項に対して理解に時間がかかる男であった。
「そ、そりゃ接吻じゃねぇか」
「そうさ、そうしよう」
言うなり桃は富樫の顎を掴んだ。さすがにウンとカンの男富樫、すぐに顎をのけぞらせて頭を引く。
が、反撃もそこまで。富樫は勢いを付けすぎて後頭部をしたたかに壁に激突させた。ものすごい音がしたので、壁越しに隣からうるせぇぞ富樫ィと毎度のことながら罵声が届く。
それに詫びる余裕はない。頭を抱えてのたうっている真っ最中である。代わりに桃が拳でもって小さく壁をノックし、スマンと一声詫びた。
「桃か?」
隣からは田沢の声。桃がそうだと言うと田沢は言った。
「富樫に伝えといてくれや、あんまり毎晩毎晩マスかく時声出すなってな」
「伝えとくよ」
桃の返事を受けてから数秒、隣からはイビキが聞こえてきた。

見渡してみるとつくづく狭い部屋である。
六畳一間とよく言うが、二号に進級して与えられたのは四畳の一間。だがそれでも一号の頃の四畳を最大三人で使っていた頃を思えば待遇が良くなったと言える。
富樫の部屋は一番隅の部屋で、窓がその分一つだけ多かった。その窓から秋月は見えない。もう夜更けだということでその窓枠から月は過ぎ去ってしまっていた。けれどその月からの光は細いながらも差している。部屋や近隣に灯りが一つもないため、それは影を作るほど明るい。

「ッチ、いでぇじゃねぇか…」
ようやく一波過ぎ越したらしい痛みにのたうっていた富樫は起き上がった。目に涙が滲んでいる。
「慌てるからだ。…そんなに嫌だったか?」
「嫌も何もねぇや。いきなり過ぎんだテメェはいつも」
「いきなりじゃなきゃいいのか?」

即座に切り返してくる小憎らしい男前に、

「そういうことを笑って聞くテメェは嫌ェだ」

へん、と富樫は腐って背中を向けた。顔が向いた先には窓、この角度からだと丸い秋月が白く見えた。

「富樫、」
桃は呼ばう。甘えた声である。
犬っころじゃねぇや、そう呼ばれたくれぇで振り向けっかよ。富樫は殊更肩をいからせた。

「富樫、」
桃は呼ばう。間違いなく笑っている。
スマンって一言言いさえすりゃあ振り向けんだよ馬鹿。富樫はそわそわと尻を動かした。

「照れるなよ」
「ば、バァロォ!!」
桃はからかった。富樫は振り向いて怒鳴った。幸い田沢の眠りは深かったらしい、今度は咎められはしなかった。
なんちゅうことをさらっと言うんじゃこいつは、富樫は急に肩に疲れを覚えてため息をついた。


「ところでよう、何か用があったんじゃねぇのか」
富樫は桃にとうとう向き直った。二人板床に胡坐をかいて座っている。
そういえば先ほどの桃は大層驚いた顔をしていたのを思い出す。富樫は仕切りなおしの意味も込めて尋ねた。
桃はきょとんと目を丸くしていたが、
「いや、それほどでもないんだ」
と引っかかる物言いをする。
「さっきテメェ変な顔してたじゃねぇか」
「ああ、あれは…いきなりドアを開けると思ってなかったからな」
今度は富樫がきょとんと目を丸くする番である。桃のきょとん顔は可愛げがあるが、富樫のきょとん顔はどうにも間が抜けている。
だがその間の抜けた顔をいいと言う男もいるのだから世の中はうまいこと出来ているのだ。
「開けちゃ悪いか」
「いやその、恥じらいとか、危機管理について考えてみたんだけどな」
「なんじゃい」
桃はううんと目を伏せるとかしかしと頭を掻いた。跳ねた髪の毛がくるくると揺れる。夜ということもあってハチマキの締め付けを逃れた髪の毛たちは自由だった。
「なに、夜這いに来てみたら思った以上に熱烈大歓迎されて、ちょっと戸惑っただけさ」
富樫は無言でくさい枕をベッドから取ると、すました顔の桃の顔目掛けてブンと風を切るスピードでもって投げつけた。
勿論当たらない、それどころか枕をキャッチされて、
「一つの枕でもいいのかって?構うものか」
どこをどうねじ曲げたのかわからない理論を展開されてしまった。
桃の笑顔、雲間の秋月よりゃなんぼかハッキリ清清しいぜ、富樫は場違いなことを思い浮かべる。どんな顔をしたって桃は素敵に美的なのだ。
「ば、ば、」
だがそんな悠長な感情を楽しんでいる暇はない。枕を抱いたままの桃は片膝を床について立ち上がる動作を見せている。
馬鹿野郎と怒鳴ろうにも舌がもつれ、今にも泡をブクブクふきそうだ。
もともと口で相手をどうこうできる男ではない。

富樫も片膝を突いた。敵前逃亡は死刑、そんなこと知ったことじゃあない、それに桃は敵じゃないのだと無理矢理納得して立ち上がる。


「嫌か」
「な、なにがじゃ」
桃も立ち上がっている。一歩また一歩と富樫は窓際へ追い詰められていった。窓枠に富樫の後ろ手が触れた。
逃げ場はない。
「期待したんだが、間違いだったか」
「だ、だからなにがじゃって言ってんだよ」
意図的に『何が』を抜かしたしゃべり方を桃は時々好む。それにきょとんとする富樫の顔を見るのも好きだし、気づいた時に怒ったり恥ずかしがったり悲しんだりする富樫の顔を見るのも桃は好きだった。
そして今、桃の目の前にある富樫の顔は青い。月の光の分をさっぴいても十分に青い、怯えるようなことをするつもりはないが、もう少し怯えさせてみたいという矛盾を桃は楽しんだ。
「今日はついにいいのかと思って」
「な、な、な、」
何がァ、と富樫は聞けない。聞いたらおっそろしい、ハレンチな答えがさらっと返ってきそうなので聞けない。
桃はもう楽しくて可愛くて仕方がない、ああ富樫富樫、ものすごく今想像しちまってるんだろうな。どんな想像したんだ?フッフフ、まさかその想像で俺が下になってやしないだろうな、何がとは言わないけど。
桃は更に一歩追い詰めた。富樫の上半身は窓枠に乗り上げそうになっている。
しんみりと桃は言葉を続けた。
「長かったな、……ここまで」
「ば、馬鹿野郎そんな切ない顔する奴があっかよ!」




桃は笑顔の質を変えた。ふわふわとおぼろ豆腐のようなやわく口当たりのいい笑顔が、抜き身の刀の鋭さギラつきの笑顔へ変わった。

「富樫」
「う」
「富樫、」
「ううう」
「富樫、こっちを向け富樫」
「うううううう」

何度も呼ばううち、富樫はついに観念したのか体の力を抜いた。町娘がお代官様の前で帯を解く気持ち、と誰かが表現していたがまさにそういう決意である。見た目には随分とむさくるしい隔たりがあったがとにかく富樫は決意をした。
「わ、わかったよ」
「富樫!」
桃は顔をその夜の誰より明るくした。感極まって腕を伸ばす、が、

「何ていうかと思ったかよぉああああああああああああ―――!!!」

富樫はなんと、そのまま足を跳ね上げるようにして背中から窓の外へと落ちて行った。声は長長と尾を引いている。富樫の部屋は三階であった。
どずん、と鈍い音が桃の耳にも届く。目の前からすり抜けるようにして消えて行った富樫に呆然としていた。

まさか、そんなに嫌だったなんて。
一瞬桃の顔にかげりが潜む。が、空に照る月を見て再び明るさを取り戻した。
ふ。
フッフフ。さすがにそう簡単にはいかないか。面白いじゃないか。
まぁいいさ、秋はこれからなんだ。
夜は毎日長いのさ。
桃はひとしきり笑った後、富樫を追って部屋を飛び出した。











翌朝の診断によれば富樫のケガは打ち身と切傷。そしてなにより足の捻挫。熱を持って腫れ上がる足に富樫はベッドから動けない。
ああ畜生、俺ってなんでこんなについてないんじゃ。
夜を迎えた富樫はぶつぶつと文句を言った。



「富樫、」


夜更けに届いた声。富樫を呼ばう声に目を覚ました。
まさか。富樫は身体をもたげようとして失敗する。



「富樫、」


呼ばう声はもう一度する。喉がひりついてしまって富樫は返事ができない。



「富樫、」

呼ばう声と同時に、手がドアを押し開けていたのが見えた。
富樫は絶叫した。
モクジ
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