うぶすなさまのみしるしに
毒緑の豆灯りに頬を照らされてぽつりと立っていた。右手には一つ赤赤リンゴ飴。
左手がすうすうしている、左手をグーパーしてみた。
開いた左手を怪訝そうに見つめる、老け顔の少年である。少年は誰かと揃いの紺色の浴衣を着ていた、それは昔にこしらえたものらしく裾や袖が短く、そして縫い目が大きかった。
少年は日焼けした顔を上げて、来た道を振り返った。が、どちらから来たものやらすっかりわからなくなってしまっている。
夏も終わり、秋初めの祭りの夜である。ごった返す人々は、皆少し肌寒さを感じながら浴衣の中に風を泳がせながら縁日の夜店の隙間を歩いていく。
少年が立つ豆灯りの夜店は金魚すくい、水槽はブルーハワイを溶かしたように真っ青で、赤い金魚達が隙間なくうごめく。
照らす緑が、水面を汚い混ぜ色に乱した。水槽の横の地面に自由へと飛び出した金魚がエラを裏返し果てている。もう動かない。
いつも参拝客のいない閑散とした神社の細い参道を埋め尽くす夜店。
色とりどりの電飾は波となって溢れ、少年を飲み込んだ。
少年はぐっと奥歯をかみ締めると、ヒーローの面をかぶった。
足元には一口もかじられないままのリンゴ飴が地面に落ちて、砂に汚れながらも緑の電球の光を跳ね返している。
蟻がたかるだろうそのリンゴ飴を、少年は面の奥から見つめ続けていた。
祭りに行こうとの桃の誘いに、富樫は一も二も無く頷いた。生来祭り好きの日本男児、塾長の晩酌に付き合わされて拳骨を食らうよりよほどいいと腰を浮かせる。
「こんなことなら、折見て浴衣でも仕立ててもらうんだったな」
「そうだな、来年までには揃えようか」
「俺ァそんなつるっつるの上品な浴衣はごめんだぜ、肌が窒息しちまう」
「フッフフ、これはこれで気持ちがいいもんなんだがな」
ぼやく富樫は普段のスーツを脱いで、開襟シャツに黒のスラックス姿。桃はさすがの桃で、絹紅梅だとかいう太い白と黒とのストライプが下品でないほどにはっきりとした薄手の浴衣。手触りからどうやら高価なものらしいということはおぼろげに富樫にも分かったのだが、値段を言うのは野暮というもの。緊急の連絡先として携帯電話をスラックスのポケットに、手に財布。
準備は完了、いざ祭りである。塾長の私邸から徒歩一分のボロアパート、カギはかけない。取られて困るものなど、身に着ければいいだけのことである。
富樫は学帽をどうしようかと迷ったが、祭りの夜誰も成人したのに学帽をしておると咎めるものはなかろうと久しぶりにかぶった。かぶる寸前、手の平でひとなでしてみる。
桃はそれをただ眺めている。口元にはいつものほほえみがあった。
ちゃぶ台一つ、テレビ一つ、布団一組。冷蔵庫。脱水機能が壊れかけの、二層式洗濯機。
それから小さな電気スタンドに、数冊の本。英会話の本である。
以前塾長について海外へ行った時の自分の不甲斐なさからであった。今のところまるっきりの日本語英語だが、頭に何か入れていくことが最近苦にならなくなてきている。
今時黄色みを帯びた白熱球にカサをかぶせた照明が懐かしいやらわびしいやら、似合うやら。
電気を落とすと、もう真っ暗。
「行こうぜ」
「ああ」
桃は下駄を鳴らして、富樫は靴底を擦って、近所の祭りへと赴いた。
桃が誘った祭りというのは近所の浅間神社の祭りであった。浅間神社は産土の神、女子供は急な階段の上にある本殿に参拝し、額に朱のハンコを押してもらうのだ。よくよく育て、満ち満ちて増えよと。浅間様は子供達に優しい。
そのためというわけではないが、この神社は公園の真ん中にあり、普段は子供達の格好の遊び場となっている。ブランコに砂場だけの公園。以前は確かに箱ブランコに回転地球、シーソー、鎖タイヤ、鉄棒グルグルもギッコンバッタンもあった。どれも危険だと撤去された遊具、危険だというのが富樫には理解できなかった。
浅間様はまだ夜の七時を回った頃だというのに人で溢れている。子供連れ、若者が多い。カップルの姿は余り多くない、花火もなければ洒落た場所にあるわけでもない。ただの古ぼけた神社である。地元の人間が楽しむ祭りであった。
おう、久しぶりじゃねぇか。お前こそ。そこかしこでちょっとヤンチャな兄ちゃん達の再会。昔は悪かったであろうオッサン達はビールで顔が真っ赤っ赤、かくしゃくとしたじいちゃん連はお囃子の特等席に陣取って孫や嫁の愚痴。商店街の店の名前入りの、ピンク色の提灯がずらりと並んで夜に浮かんでいた。
もともと住宅街の中にぽっかりとある神社である。灯りはもとからある街燈と、それから提灯と、お囃子に向けたとってつけたようなスポットライト。
お囃子の音というのは本当に、『囃し』で、富樫は浮き立った。煙につられて屋台を覗けば日光の下で見ればきっと眉をひそめるほど不潔そうなのに酷くなにもかもがうまそうで、これみよがしに並んだ豪華商品に当たりもしないクジも当たりそうな気がしてくる。
「桃、お好み焼き食おうぜ」
早速の袖引きに、桃は苦笑した。一万円札を小銭に崩してきて良かったと思いつつも、引かれた袖をつれなく払う。そんな顔するなよ、捨て犬みたいな。桃は境内を指差した。
「まずはお参りくらい済ませよう。フッフフ、何もお好み焼きは逃げていかないだろうさ」
さすがに富樫も赤面した。
「ヘッ、そ、そんぐれえわかってるって」
どうだか。未練たらたら、鼻もヒクヒク。
後ろ髪引かれっぱなしの富樫の首根っこを掴んで、二人は長い石段を登っていく。
参拝客の子供の後ろに並び、賽銭を準備。富樫は尻ポケットから札入れを取り出した。札入れを持てるようになるなんて、塾生時代は思いもしなかった。小銭、ポケットをまさぐる、出てきたのは十円玉二枚に一円玉四枚。五十円玉一枚。富樫は十円玉を握り締めた。
それを見咎め、桃は小銭を手にした錦の小銭入れから取り出して数える。富樫に十円玉を二枚と、五円玉を一枚その手の平に握らせた。
「桃」
「『しじゅうごえん』がありますようにさ。ほら、次だぜ」
礼を言いそびれてしまった。背中を押されて、桃と並んで賽銭箱の前に立つ。着付けなれていないのか、乱れた姿の眼鏡神主が声を張る。桃、富樫、それから残り三人、五人並んで眼を閉じたまま言葉を受ける。富樫はバチあたりにも薄目を開けてその様子を盗み見た。神主が白いふさふさ(あれの正式名称を富樫はいつもなんだったかと考える)をふるってむにゃらうにゃらと唱えている。
ちらりと横を見たら、隣の子供も薄目を開けていた。小学生位の生意気そうな少年はどうにも好奇心を抑えきれなくなったらしい。
富樫は自分のこらえ性の無さを小さく笑った。
と、額にぽけんと当たるものがある。気づいた時には既に、額の真ん中に朱朱と産土様の名前の印鑑が捺されてしまっていた。
「おや、これは」
神主が声を上げた。眼鏡の奥の目が困ったように細くなって、おろおろと富樫の額に手を伸ばした。
反射的に一歩身体を退くと、隣の桃は笑い出した。
「ガキにしかつけないってのに、富樫にも捺しちまったんだって」
隣の子供も笑い出した。笑うとますます小憎たらしい。
富樫は恥ずかしさにぐいとその朱肉を手の甲で拭う。桃はまだ笑いやまない。
憤然と石段を降りた。
産土様のみしるしを額に、お前は私の子だというしるしをつけて。
ヘソを曲げてしまった富樫のために、桃は気前良く屋台の食い物を買った。最近の祭りではヤキソバ800円のお好み焼き700円のと子供がまるで楽しめない価格設定になりがちだが、さすがに土地神様のお膝元ではタカマチの兄さんたちも大人しく良心的な価格で売っていた。
ヤキソバが大盛りとなったプラスチックの容器を富樫が、恐ろしい程の青青としたブルーハワイを桃がそれぞれ手に持ちながらあっちへふらふら、こっちへふらふら、出店を冷やかしながら歩き回る。普段この公園を一周するのに三十分もかからないだろう、だが、祭りならではの喧騒と同じ名前の屋台の連続からいつまで経っても一周したという気になれない。富樫も桃もぐるぐるとどっちへ向かっているのかわからないまま祭りを廻った。
富樫の手に持つ食べ物がヤキソバからお好み焼き、それからフランクフルトへ。イカ焼きはどっちがゲソでどっちが頭を食うか、そんな他愛ないことでジャンケン。富樫は負けて、ゲソをブチブチと音を立てて食った。バクダンという米菓子が名前の通りに炸裂音を立てて二人の側で爆ぜたので、思わず二人で地面に伏せてしまい周りの人間から大笑いを貰う。こういうとき、非日常を生きる人間と言うのは恥をかく。その恥すら笑いと消えた。
なぁこれどうだと桃は富樫に寄せと言われたのに好奇心に負けてエメラルドという緑色の飲み物を買う。ようするに粉末のメロンジュースなのだろうが、めでたい祭りだからと名前まで豪勢に見栄を張ったらしい。しびれるほどに甘いそれに桃の舌は先ほどのブルーハワイと混じって、形容しがたい色に変わる。
富樫は白い開襟シャツにソースと醤油とのシミをつけ、食い物はやめて、何か祭りらしい遊びでもと首をめぐらせた。青いビニール看板の屋台には昔懐かしい逆さ読みの『きてゃし』とあった。射的、面白そうじゃねぇかと富樫の目は輝いた。
「おい、桃」
「うん?」
いつの間に買ったのか、桃は手にベビーカステラの袋を手にしている。はちみつと粉の匂い、牛乳の欲しくなりそうな菓子を桃はうまそうに目を細めてもそもそと食った。
その桃の手を引いて、人を掻き分けながら富樫は射的の屋台へ連れて行く。
「やろうぜ」
「伊達を連れてくれば良かったか」
「馬鹿、あの野郎が銃に頼るかよ」
「それもそうだったな」
桃は富樫にベビーカステラの袋を預け、パンチパーマの店主からオモチャのコルク銃を受け取った。富樫は断りも無くベビーカステラを取り出してほお張ったが、一つで止めた。どうにも水分が欲しくなる味である。
浴衣の袖を肩まで捲り上げ、狙いをつける。たくましく筋肉のついた腕がむき出しになって通りすがりの若い女子がきゃっと声を上げた。
真剣そのものの桃の背中を肘で小突いて富樫は茶化す。
「おい色男、アレとってくれよアレ。玉子ボウロ」
懐かしい菓子のパッケージは日に焼けていて、屋台の白熱電球の下でいかにも軽そうに見えた。言われるままに桃はそれに照準を合わせ、引き金を引く。
ポン!と勢い良く音を立ててコルクが飛んだ。これが本物の銃で実弾であったら間違いなく玉子ボウロのパッケージに風穴が開いているところだが、残念ながら砲身の曲がったオモチャ、コルクは空しく地面に落ちた。
「ざんねん〜」
やる気があるのかないのかわからない拍子をつけて店主は残念賞のピロピロを桃に差し出した。ピロピロ、その名の通りストロー状の吹き口に意気を吹き込むと丸まっていた管がピロピロと音を立てながら真っ直ぐに伸びていき、息を止めるとまた戻る。蛍光に光る腕輪と同じく祭り一日限りの命のオモチャであった。
桃はちぇっと肩をすくめ、ピロピロを吹きながら大笑いをする富樫のもとへ戻った。
「ヘッヘヘヘ、お前にもできないっちゅうこともあるんだな」
「嬉しそうに言うなよ」
「ヘッヘヘヘ」
おッ、富樫は学帽のひさしに手をやった。前方に敵船影確認、と叫ぶ兵隊のような格好である。
「次はあれだぜ」
「スマート、何だ?」
スマートボウル、パチンコ台を地面と水平より少し角度をつけて置き、得点のついた穴に白いボールをバネで弾いて入れるものである。穴の得点に応じてチョコバナナがもらえる仕組みだ。
「パチンコみたいなモンだよ、俺とお前の分。チョコバナナ二本頼むぜ」
ルールなんてあってないようなものだというのに、桃は真剣にそのクギの飛び出た盤を睨んだ。どれだけの力加減で狙えばあの穴にボールが、と考え込む。と、その横を小さな子供が小銭を店主に差し出して挑戦した。
桃が何気なく見ていると、子供は勢いに任せてボールを弾き、桃の目の前で見事に五点と周りを金テープで縁取りされた穴へと入れてみせた。
店主は大げさにハンドベルを振り鳴らし、おおあたりぃと怒鳴る。子供は得意げに鼻の下をこすって、合計五本のピンクと茶色のチョコバナナを受け取って仲間の元へと駆けて行った。たちまち彼はヒーローになる。
「ほら、」
富樫に促され、桃は肩の力を抜いてボールを弾いた。
力みすぎたのか、ボールは盤から飛び出て行ってしまった。おっと、と桃がボールを拾うと店主は絶妙のタイミングでもう一度やるかと聞いた。思わず桃は受けて立つ。
富樫は笑いながら、それを見ていた。
と、背中に誰かがぶつかる。
「いってーな、バカ」
以前の富樫ならこう言われた時点でオウてめぇとがなっていたが、今はもういい大人。内心オウオウと詰め寄りながらも振り向いてスマンと謝った。
相手は富樫の視界に入らなかった、ずっと下。紺色の粗末な浴衣姿の少年であった。顔にはヒーローのお面。そのヒーローには富樫も覚えがあった。へぇ、まだ売ってるのかよと感心する。
少年は面を持ち上げると顔を浴衣の袖でぐいと拭った。汗ではないその位置。思えば先ほどの声も涙声であったように思う。
「迷子かよ」
すぐに結びついた答えに、少年は首を横に振った。
「違わい」
少年の捲り上げた浴衣の裾から覗く膝には擦り傷、それも砂まみれである。転んだ拍子にか迷子になったらしい。
気丈にも鼻をすするだけで、泣き顔は面の向こうに隠しているままの少年に富樫はため息をついて尋ねた。子供は嫌いだが、放っておくほど人でなしではなかった。
「誰と来た」
「あんちゃん」
少年の答えに、富樫は自分の兄を思い出す。あんちゃん。そういえば昔、自分も兄ちゃんと祭り来て迷子になったっけ。ますます突き放せなくなってしまった。
「おら、迷子預かり所行くぞ」
富樫は浴衣の少年の肩に手をかけた。恐ろしく縫い目のでかいその浴衣、決して裁縫が得手ではない誰かの手製であることが容易に知れる。しかし、少年は富樫の促しに応じずに動かない。ぐす、と再び肩を揺らした。
「なんじゃい」
いらだつ富樫に少年は黙って足元を指差す。
隣の金魚すくいの屋台の水槽の横の地面、自由へと飛び出した金魚がエラを裏返し果てている。もう動かない。
足元には一口もかじられないままのリンゴ飴が地面に落ちて、砂に汚れながらも緑の電球の光を跳ね返している。
どっちだ、と富樫が眼をめぐらせると、少年の手にリンゴ飴があるのを見つけた。
「落としたのかよ」
転んだ時に、とは言わなかった。武士の情けである。
「兄ちゃんの分だ」
富樫はぐっと胸を押された。少年、兄のもとに行こうにもこれでは行けない。せっかく自分の最後の小遣いで買ったのに、と何故だかわかりもしないことまで流れ込むようにして分かった。
無言で肩を掴むと歩き出した。少年は嫌がったが引きずっていく。富樫自身何もしゃべることは出来そうになかった。
数軒先にあったリンゴ飴の屋台に突っ込むと、千円札を尻の札入れから掴み出して一本買う。本来ならばジャンケンで勝たないといけないルールだが、ゴリ押した。
そのリンゴ飴を少年の手に握らせた。面におおわれたその顔が自分を見ているのをうるさそうに払って、行け、と低い声で言う。
「これ」
「うるせぇな、行けったら。ここまっすぐ行ったら迷子預かり所だ」
「だって」
富樫は睨んだ。これ以上付き合っているとそれこそみっともないことになってしまいそうで、怖い顔でもって睨んだ。
「あ、」
少年は富樫の背後に向かって視線を投げた。富樫は釣られるように振り向く。景色がどぎつい照明でぼやける中、人ごみの向こうに頭が一つ飛び出している。
「あんちゃん!」
その頭一つ飛び出した男は熊のようにのっそりと手を上げ、おおいと吠えた。がなったわけでもないのにここまで声は何にも遮られずに届いた。
少年は行こうか迷っているようである。富樫は無言でその背中を押した。行け、
「……これ、やる」
少年は最後の最後まで迷っていたようだったが、兄の声に惹かれてとうとう富樫に背を向けた。それでいい、と安堵しかけたその胸に少年は今の今までかぶっていた面を押し付けた。顔を見る暇もなく、別れを言う暇もなく少年は人ごみに消えていく。紺色の浴衣の背中。
兄は大声でまだ、少年を呼んでいる。
「げんじ」
少年の兄の声は、富樫の耳に確かに届いた。
富樫は背を向ける。額がやけに熱かった。
「どこ行ってたんだよ」
桃は不機嫌そうにチョコバナナを抱えたまま、口を尖らせた。せっかく景品が取れたというのに肝心の富樫がきれいさっぱり消えていたのだ。
心配して探し回ったら、境内見上げてぼんやりしている、心配した分腹が立った。祭りも終わりに近づいていて人ごみも引き掛け、帰りを促すように出来た隙間におどろくほど冷たい秋風が抜けていく。
「………」
富樫は古臭い、どこで売っていたんだか二人が子供の頃に放映していたヒーローの面を手にしたまま動かない。
「富樫」
「おう」
富樫はその面をかぶった。ふざけているのか、と思ったがそうではないらしい。
「来年も来ようぜ、」
面の奥の声は割れていた。桃は頷く。
「浴衣作ってよう、紺色の」
「そうだな」
兄ちゃんが作ってくれた、あの紺色の浴衣。縫い目がでっかくって、すぐにバラけてしまうあの浴衣。
「秋風吹いてきやがった、祭りも終わりだな」
「ああ」
答えて桃はその背中をそっとさすって、それからこちらへと手を引いた。
Copyright (c) 2007 1010 All rights reserved.
