TANTORA
今と違い、その頃冬はまだとても冬らしかった。
氷はビシビシと張っていて、風で頬が切れそうな錯覚も毎日のこと。
寮内の板床は氷のように冷たくって、足の裏が痛みを訴える。時折腰をかがめて片足を持ち上げると、はーっと息を吹きかけてやる。
自分の息にほんのりと暖かくなったかと思えば、床に置いた瞬間に急速冷凍に逆戻り。まだ息を吹きかけてもらっていないほうの片足がまだかとせかす。せかすのではーっと息を吹きかけてやる。足を下ろす。
すでにさっき息を吹きかけてやったほうの足は感覚がなくなるほどに凍り付いてしまっていた。
結局爪先立ちで猛ダッシュする羽目になるのも冬ならでは。
この日はどうにもならないほど寒かった。
枯葉裏の天道虫のように、暖房設備のほとんど与えられていない一号生達は談話室の六畳ほどの空間にひしめいている。真っ黒の塊が隙間なくわさわさと動いている。
真ん中にはコタツ。本来布団をかぶせて足を突っ込むための暖房器具なのだが、この大人数が全員は入れるほどの大きさはない。
なので布団をとっぱらって、赤いひかりを散らせていた。
覆いこめるものがないので赤いひかりの力は弱まっている。が、密集した人間たちの体温の力も借りて部屋はそれなりに温かい。ささくれてはいても畳なので、熱を木床よりは少し長持ちさせてくれる。
木箱の上にしつらえられている、ブラウン管が大きく張り出したテレビはその当時ですら古いものでうつりもすこぶる悪かった。
だけれど、ほかに娯楽もないので密集してくだらぬ番組を真剣に見ている。
今日は十一月の末日だ。
明日っから正月までを指折り数える十二月。先生師匠も走る十二月。シャバ(塾生達はよく男塾の外をシャバと呼んだ)ではクリスマスという何か洒落たにおいのするイベントも控えている十二月。
十一月の末日。明日から始まる十二月のせいで少しばかり影の薄い日である。
昨日めずらしく強い雨が夜中ざーっと降ったので、空が青く洗われていて、夏よりも控えめな太陽のひかりをさえぎるものはない。
風は思う存分に冷たいが、その日差しに少しはぬくめられて頬を切るような不調法はせずにおとなしく吹き渡っている。
庭の片隅、一日中じめじめとして日のあたらないあたりにはまだ霜柱が朝と同じ威勢のよさ。
十二月になれば、もっともっと風は冷たくなって、氷も厚くなるだろう。
十一月三十日。
そんな日に生まれた男がいつもの、いつも以上の大声で談話室へと乗り込んできた。
「よお!」
威勢のいい声、太い声、ばかでっかい声。
ニカニカ笑うつながり眉毛、真っ白で分厚い歯、でかい尻。
虎丸が右手を上げて入ってきた。
期待している。
存分に期待している。
虎丸は集まった全員の顔を順々に見て、少し黙った。
真っ先に口を開いたのは富樫だった。やっぱりおめえってば親友じゃのう、富樫よ。そう抱きついて大笑いする準備も万端だ。
「…なんじゃ虎丸、どうかしたのか?」
「へっ」
間抜けな、息漏れのような音が虎丸の口からこぼれおちた。きょとん、としか言いようのない間抜け面。
富樫はおかしそうに笑う。
「さっさと奥まで入れや、いつまでも戸口にいられちゃ風が入ってきてあったまらねぇだろ」
「…お、おう…」
虎丸は言われるまま、背中を丸めて抜き足差し足で富樫の隣に向かう。
塾生たちの隙間へ足を、
抜く、
差す、
富樫の隣へ、腰を下ろす。
すっかりしょげてしまっていた。
畳と同じく、ささくれてしまっている。富樫の隣は一番コタツに近い、赤いひかりの当たりがいい場所であることも虎丸の胸には入ってこない。
「どうした」
桃がそっとたずねた。桃ならば、と虎丸、はっとうつむき加減だった顔を上げる。
コタツの暖かさに当てられたのか頬が赤い、りりしい鼻筋も目元もいつもどおりに男前だ。
…いつもどおりだった。
虎丸は一縷の望みをかけて、言ってみた。
「き、今日は何月何日だったかのう」
「大丈夫か虎丸、どこかぶつけたか」
心配そうに、白い瞼を震わせて桃は言う。富樫は富樫でもうボケやがったかと大げさにあきれて見せた。
「ち、ち、ちがわい!ただちょーっと、何月何日だったかと思ってよ」
「今日か?ええと、十二月一日さ」
えっ。
虎丸がでっかい眼を見開く。
桃ォおめえでも間違えることがあるんだなとあくまで笑いながら言おうとして、言葉を詰まらせる。
富樫も、松尾も、田沢も、居並ぶ級友達が誰も異を唱えなかったからである。
にわかに不安になった。
俺ァもしや、昨日寝て今朝起きたと思ったら一日寝過ごしちまったのか?
まさか。
まさか、だって昨日寝た時にはいつも通り、あ、酒をコップに一杯、アレか。
なんてこった、虎丸は青くなった。
「虎丸」
静かに言葉を発したのはJだった。真面目な顔には困惑、虎丸は萎れた顔を上げた。
「おう」
Jは居並ぶ級友たちをぐるりに見て、それから詫びた。
「すまん、俺はもうこれ以上言えん。…あまりにも気の毒で」
虎丸が首を傾げきる前に、Jは言った。眼と頬のあたりに萌え出た微笑みは硬いが、やさしいものだった。
日本語よりはよほど親しくしていただろう母国語で、Jは滑らかに舌をすべらせる。
「Happy
birthday」
えっ、虎丸が事態を把握する前に部屋全体が大きく沸いた。
「誕生日おめでとう!!」
異口同音にそう言われ、答える暇もなしに手をつかまれて立たされる。低い天井にもかまわず、体を持ち上げられて胴上げされた。
わーっしょい、
わーっしょい、
わーっしょい、
ドズン。
「ぎゃーッ!!」
最後はやっぱり落とされた。
虎丸は尻からまっさかさまに床に落ちる。
夜おそるおそる見てみれば、真っ青になっていた。
「まったくJは甘いんじゃ」
松尾が笑って、Jのわき腹をひじでコノ、コノ、とつつく。最初このようなことをすれば、Jはとがめられたかと一瞬たじろいでいたが、今では照れたようにはにかむまでになっている。少しずつではあるが溶け込んできているのだ。
「すまん、だがあまりにがっかりしているから」
「Jは優しいのさ、なあ富樫」
「慈悲ぶけえんだよ、さっすがキリスト様のいる国だぜ」
みんなどっと笑った。
面白くないのは虎丸である。一瞬本気になってしまった、自分が情けなかった。本気で誰も覚えてくれていなかったらどうしようと小さな子供みたいな考えにとらわれてしまった自分がふがいなかった。
「ひでぇよ本当に、俺ァ、本気で…」
泣きまねをしてやろうと思って、腕で顔をぐしぐしとこする。そうして誰かを引っ掛けてやらないと腹の虫が収まらない。やりかえしてやろうとそればかりアタマにある。
大きく息を吸って、しゃくりあげようとしたところ、
目の前に、どさどさと積み上げられたもののせいでひっくり返ったシャックリのような声になってしまった。
「おわっ」
魚肉ソーセージだ。真っ赤なビニルに包まれて、コタツの赤いひかりにますます真っ赤に光っている。
太い本物の魚肉ソーセージがどさどさと山積みになった。
「ぎょ、魚肉ソーセージじゃねぇか!」
「ま、プレゼントってところさ」
桃は山からくずれて転がっていった一本を拾うと、まだ鳴り止まない笑みを隠しもせずに虎丸へ差し出した。反射的に受け取る。
太いそれを握ってようやく、これが自分のものであるという実感がわいてきた。
えへら、と泣きまねをする寸前だった顔がたちまちだらしなく笑み崩れる。
「そ、そ、そうかよ、ヘッヘヘみんな、ありがとうよ!!」
富樫が虎丸の肩を抱く。虎丸の丸い頬をつつくと意地悪く頬を引きつらせて笑った。
「それァな、今年一杯の賞味期限じゃ。せっかく安くなってたところを買い叩いたんだから腐らせたりすんなよ?」
負けじと虎丸も言い返す。
「腐らせたりするもんかよ!ま、腐ってたって食うけどな!」
そりゃあそうじゃ、そうだそうだと虎丸へ賛同する声が上がる。みんないつだって腹をすかせているのだ。
腹をすかせた育ち盛りの男たちの目の前に食べ物、しかも雑草や虫以外のものを積み上げればどうなるかはわかりきっている。
早速俺にも一本俺にも一本とコールがかかり始め、虎丸は、
「じょ、冗談じゃねぇやい!!」
と、魚肉ソーセージを抱えて談話室を飛び出した。
逃走である。
逃げ出した先は裏庭であった。
人がほとんど通らない、日当たりのないここは、冬なのでなおさら人気がなかった。ここでこっそり、プレゼントの魚肉ソーセージを貪り食おうと思ったのである。
壊れかけたベンチ、そして塀。実は塀には穴が開いていて、塾生たちが外に出るための隠し通路となっていた。その隠し通路を男塾側からは植え込みで、外からは自動販売機で半分隠してある。自動販売機の隙間から這い出るのは骨が折れるが、それでも見つかるよりはましであった。
先客がいた。
一号生の、先ほどの場にいなかった男が寒さをものともせずに素足で鍛錬をしている。
伊達であった。
槍をひたりと構え、静止したまま動かない。樹木のようだと虎丸は目を見張った、微動だにせず、切っ先を震わせすらしない。
声をかけるのがはばかられた。虎丸は静かにベンチに腰を下ろす。
魚肉ソーセージを傍らに、膝に頬杖をついて伊達の所作を見送る。
虎丸に気づいていないわけではないが、視線はただ空を見ていて傍目にも集中しているというのがわかった。
そんならそれでいいやと、虎丸はそこに伊達らしさを見出す。
「誕生日だってな」
だから、唐突に伊達が発した言葉を耳に入れるまでに時間がかかった。
へ、とウツケた声しか返せずにいる。
伊達の動きには乱れはない、槍を大きくゆっくりと回転させて、空を突く。
だがその気配は無ではない、生気のようなもので色づいている。
「おう、なんじゃ、祝ってくれるんか」
「馬鹿が」
伊達が吐き捨てた。いつだってこの男の物言いは鋭いし、人を馬鹿にしているように聞こえる。本当に馬鹿にしているのかもしれないが。
虎丸は黙って、魚肉ソーセージの赤いビニルを歯で食い破った。
「死に一歩近づくだけじゃねぇか、くだらん」
虎丸は赤いビニルを剥いて、ピンク色の魚肉ソーセージを一口齧る。飲み込む。
とげとげしさをわざわざ剥き出しにして、そう言う伊達という男が少しばかりわかりかけているのだ。
微笑みすら浮かぶ。虎丸はまた、もう一口齧った。
立ち上がる。
目つきには、好戦的なひかりをともす伊達のすぐ横をすり抜けて、自動販売機の隙間から外に出て行った。
ひとっことも、伊達へは口を利かない。
伊達はつみあがったままの魚肉ソーセージへ一度ちらりと視線をやり、いらだたしげに槍を地面に突き立てた。
遠く、鳥が鳴いて羽ばたいていく。
風がひどく冷たいのが、いまさら伊達の肌へ染み込んできた。
珍しく伊達は、地面にべっと唾を吐く。
「あン?めっずらしーな伊達、おめーがツバァ吐くなんて」
さすがの伊達も背筋に緊張を走らせた。振り向く、精一杯動作が驚きを隠そうと尽力してから振り向く。顔ばかりはいつも通りの涼しい顔で。
「……なんだ」
「ホレ、」
虎丸は再び自動販売機の隙間から戻ってきて、手にしていたものを掲げた。
缶コーヒーである。
「それがどうしたってんだ」
「お疲れ」
返答になっていない返答をよこして、虎丸は缶コーヒーを差し出す。
反射的に受け取ってしまった伊達は自分を恥じ、何のつもりだとねめつけた。
「誕生日、ありがとな」
伊達は今度こそ、硬直した。肩をぽんと叩かれる、肩、腕、槍を扱う自分の武器であるそこを触れられることを伊達は好まない、というのに許した。
許したのではない、あんまり虎丸が自然になれなれしいからだと誰でもない自分に言い訳をする。
叩かれたそこがにわかに熱くなってきて、虎丸はさっさと魚肉ソーセージを抱えて歩き去ってしまったというのに伊達の狼狽は続く。
見透かされた。というのが一番最初にあがった声だった。
そのすぐ後に、見透かされるようなものなど何もねぇと強がりの声もあがる。
どちらもうるせぇと底に沈めておいて、手のひらに収まった缶コーヒーの缶をじっと見る。
あたたかい。
熱いほどあたたかい。動いていたのでさほど冷えていないとはいえ、指先がじんと温かくなって血流が元気に駆けた。
ゆるむ。
頬も、指先もゆるむ。
「お前は本当にかわいい男だな」
「!」
伊達の背後を取れる人間がそうそういるわけもない。桃である。すぐに伊達は缶コーヒーから目を離して、現れた桃へと向けた。日当たりの悪さから土が凍ったままの裏庭にあっても、その男のまわりだけは日差しがあるようであった。
涼しい顔で笑っているが、伊達にはうれしくない笑みである。
「…何か用か」
「いや、探し物に」
「何を」
返答の一つ一つは短く、声が低い。動揺はまだ収まりきっていない、下手に何か言うと自分にとって面白くない事態になるというのを伊達はわかっていた。
「今日はずいぶん寒いからな」
「だから」
「みんなで動こうと言うことになったんだ」
「それで」
「大人数でもできるゲームといえば色色あるよな」
「………だから」
「鬼ごっこ、隠し鬼、かくれんぼ」
「早く言え」
「缶蹴りにしようということになった」
伊達は一瞬、黙った。
「なかなか缶がみつからねぇ、それでこんな裏庭まで探しにきたってわけさ」
目をきゅっと細め、目じりに笑い皺をこしらえて桃は伊達を見つめる。正確には、伊達の手にしているものを。
「ところで伊達、その缶」
伊達は黙って、塀に歩み寄ると自動販売機の隙間から苦心して外へと出て行く。
桃は待っている。当然のように待っていた。
戻ってきた伊達の手に、清涼飲料水の缶があるのを見て桃の笑みは更に深まり、ついにはじけた。
「お前は本当に、かわいい男だな」
伊達は憮然として、その場でこの寒い日に清涼飲料水を一気飲みして缶を開け、桃に手渡した。
缶を受け取った桃は礼を言って去っていく。
その夜伊達は魚肉ソーセージをみせびらかしながら食おうとした虎丸の尻を強く強く蹴って、窓から落とした。
「な、なんでじゃあああああ」
窓の修理には三日ほどかかり、夜風のせいで伊達は不運にも風邪をひいてしまって機嫌はさらに悪くなる。
「………ここで良いか」
缶コーヒーは、こっそりと机の奥に隠した。
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