玉鬼の毛並み
艶など忘れた。
触らせるものか、誰にも。
玉鬼は玉鬼、猫畜生なりに祈っている。
猫は猫のものであって、それ以外にはなりえないということをわかっていない奴が多すぎる。
野良猫は誰のものでもない猫というわけではない。やはり野良猫は野良猫のものである。
誰のものではないのだからかわいそうだ、だからあたしが飼ってあげるという勘違いもはなはだしい理論をよく見かけるが全く迷惑であると猫は思う。
エサを何日も取れず、ケガをし、もう自分では何も出来ない状態に対して差し伸べられた手は確かにありがたいものであるが、健康になり自力で動けるようになったのならば今後どうするかを決めるのもやはり猫にさせるべきではないか。その人間を気に入って住みかと食事をもらうか、それとも再び野良として生きるか、それは猫に選ばせて欲しいと常々主張している。
別に、飼われた猫がプライドが無い猫だとは言わない。が、玉鬼はまだ自分がどうするかを決めかねていた。
大豪院邪鬼、あの大男が玉鬼と名前をつけたのだった。だがそれは決して所有のための鎖としてではなく、獣としての誇りに敬意を表してつけられた名前であった。玉鬼は時折邪鬼のもとにゆき、隣で眠ることもある。
玉鬼は猫であった。野良でも、飼いでも、その真ん中にただよう猫である。
どちらかを決めかねている最近の原因の一端が玉鬼を呼んだ。
タマ、たーま、玉鬼、
三度呼んだ。玉鬼は草むらよりにゅうと頭を突き出して居場所を教え、にゃあと鳴く。
銀杏の葉、枯れた黄色が一面に落ちた庭の片隅では冷たい風が吹いている。黄色一面の上に男が一人立っていて、玉鬼を見つけるとおうと声を上げた。
「そこに居たか、ほれ、チーズだ」
玉鬼を呼んだ男は独眼鉄。ひとつきりの目、丸い鼻、鬼のような牙を生やす口、もさもさとした髭に髪の毛。筋肉はもりもりとたくましく、どこもかしこもいかつい、少しも洗練というものがない男である。
近づくだけでむんと男がにおうようであった。
夜道で子供が見たら、思わず悲鳴を上げそうな怖い形相をしている。
だが、恐れずに玉鬼は独眼鉄の足元に飛び出して、脛の骨が威勢よく太い足に自らの体を擦り付けた。大きな手のひら、がさがさと荒れて皮膚が硬くなった手のひらが降りてきて玉鬼の頭を軽く叩くようにして撫でる。
カチカチに硬くなったチーズを独眼鉄は地面に置いた。平らな敷石のその上に腰を下ろしてため息をつく。
にゃあ、指先ほどのチーズを口にくわえ独眼鉄の膝にひらりと玉鬼は乗った。独眼鉄は考え事をしているようで、半開きの唇からは玉鬼にとっては嵐のような勢いのため息を吹き出す。ため息は今玉鬼がくわえているチーズと同じ匂いがした、どうもこの硬くなりかけたチーズ一度は独眼鉄が口にしかけたらしい。
が、食べ終える寸前に玉鬼のことを思い出したということだろう。
ありがたいことである、がりがりと玉鬼は細い牙でチーズを食べた。
どこか物憂げに独眼鉄は玉鬼の背中を撫でている。同じ方向にばかり撫でるので、毛並みはのっぺりと寝てしまった。
だが玉鬼はかまわず、撫でられながらチーズを齧る。
玉鬼は独眼鉄が好きであった。見た目はどうあれ、どう鬼のようであれ、しつこくもせず、冷たくもせず、自分を足しげく訪ねてくる独眼鉄が好きであった。
この独眼鉄という男は猫なぞを好きだというと何か不都合でもあるかのように常に振舞う。この畜生め、毛むくじゃら、チビ助、おい、こら、口調はまったくやわらかくない。
だというのに、ああこの男は猫が好きなのだと玉鬼は知っている。有り余っているわけでもないだろう食べ物を自分のところからひねり出して、さも俺はいらん、しかし捨てるのも惜しいというように仕方なくを装って玉鬼のもとへやってくるのだった。
撫でるその撫で方も乱暴だ、わっし、わっし、わっし、と玉鬼の都合もお構いなしに撫でる。
目尻がとろとろと下がっていく、撫でている時の独眼鉄は限りなく垂れ目で、恵比須顔だ。ほこほことなにやら黄色い綿毛みたいな幸せの結晶すら見えそうなあたたかい顔で玉鬼を撫でている。
最初はこうではなかった。
警戒に警戒を重ね、手のひらを掠めるようにして毛並みを一度きり通過させていくだけだった。
が、この裏庭がめったに人の訪れない場所だということがわかってからは遠慮なしに撫でるようになったのだ。
膝に乗せるようになったのがいつからかは覚えていない。ただ、不器用な手にしては笑えるほどに慎重に気遣いながら抱き上げられた時には玉鬼は爪を立てるのをやめて体を任せた。気遣いというのは口に出さずとも、触れた手のひらからしっかりと伝わっていたのである。
そして、玉鬼が身をよじり、独眼鉄の膝から抜け出そうとすると追いかけてこない。
これは猫にとって、玉鬼にとって本当にありがたいことであった。
舌をちっちと鳴らしもしないし、執拗に呼びもしない、ましてや追いかけてもこない。玉鬼の意思を尊重する独眼鉄が玉鬼は好きである。
野良猫は誰のものでもないわけではないのだ。誰かに所有されたがる類のものではないのだ。
このいかつい、見るからに力自慢そうな男はそこをわきまえている。玉鬼は独眼鉄が邪鬼とは違う意味で好きであった。
どちらも猫は猫のものであるとわかっている、違いとすれば独眼鉄が玉鬼を好きなことである程度。
玉鬼は浮かない顔の独眼鉄を見上げると、にゃあと一声鳴いた。
「明日っからしばらく留守にする。俺が居なくても飯は食えるか」
独眼鉄の言葉は玉鬼にわかる。しかし玉鬼の言葉は独眼鉄にはわからぬ。
にゃあ、玉鬼は鳴いた。
独眼鉄はああ、と厚い唇を突き出すようにしてうなると玉鬼の折れた尻尾をしごいて手のひらで遊ばせる。
「じゃあな」
黄色黄色の銀杏の中、寂びた声の、独眼鉄の別れの言葉を玉鬼ははっきりと聞いた。
しかし玉鬼は猫なのであおん、としか返せない。風が抜けていってそれきりとなった。
それきりである。
玉鬼はそれきり、もうそれっきり独眼鉄とは会っていない。
邪鬼にも会っていない。邪鬼も独眼鉄も遠いところで死んだと、邪鬼でも独眼鉄でもない人間達が騒いでいた。
銀杏の上、黄色い銀杏の葉の上で玉鬼はじっとしている。
なるほどあの日が別れの日となって、次の日玉鬼が見かけた時には旅立ってしまっていたのだ。
遠い国で独眼鉄は死んだという。邪鬼もだ。
玉鬼はそれきり、誰にも自分を触れさせていない。飯も食うのを止めた。
義理立てではない、願掛けである。世話になった、恩人達への願掛け。二人は必ず戻ってくるだろう、そうしたら邪鬼は玉鬼を手のひらでころころと転がすだろうし、独眼鉄は何かの食べ物をくれるだろう。
必ず帰ってくるからこそ今食べなくとも平気だし、撫でられなくてもかまわぬ。猫は西を向いて、銀杏の葉の上でしゃんと待つ。
数日経過した。強い風が吹いて、猫が座った下の銀杏以外が風におんおん踊って散らかった。
数週間経過した。また強い風が吹いて、今度は猫が揺らいだために、尻の下の銀杏が飛んでいった。
皮と骨と魂で出来ている。
誰にも触れさせていない毛並みは息をするたびに膨らんではしぼむ、艶なぞかけらもない。
あくる日子供が駆け寄ってきて、ああ猫ちゃん!死んじゃってるの?埋めてあげようかと母親に聞いた。
母親はいつくしみのある手のひらで子供を引き戻した、いいえ、いいえ、そのまま。そう言った。
初霜が降りた日である。
猫が人前で死ぬのはね、誰か待っているからよ。見つけてほしいからそこに居るの。
ふうん。早く来てくれるといいねえ、子供は心からそう言った。
本当だと玉鬼はどこかで思った。死んでいるのかもしれぬ。第一ものも食わずに猫が生きていられるものか、もしかしたらとうに死んでいるかもしれぬ。
わからないまま、本当だと玉鬼は思う。
早く来てくれるといいのに、そうしたら、たくさん撫でてもらう。艶が出てのっぺりするまで撫でてもらおう。
邪鬼様にはちょっとだけ、足元に体を寄せて。独眼鉄にはたくさん撫でてもらおう。腹も減った、何かまず食わせてもらおう。
ああ待ちくたびれた。猫には無駄な命が九つもあるというけれど、どうやら自分にはひとつきり。余っていたら分けたってよかった。猫が笑うかどうかは定かではないが、玉鬼は空鼻をすすった。
待ってたんだけれど、とっても待ってたんだけれど、来ないから、先に。
玉鬼はなぁお、と一声だけ鳴いた。
大きな手のひらが一つ、玉鬼を抱き上げた。
「玉鬼!」
馬鹿め、馬鹿め、俺がいなくとも飯くらいは食わんか、おう。
そう怒鳴られた。
「独眼鉄」
「はい」
「貸せ、まだ間に合おう」
ぐしぐしと恥も外聞も無く泣きじゃくる隻眼の大男の腕から、いきなり覇気を吹き荒らしながら現れた威風堂々たる大男がひょいと猫を取り上げ、怪しげな中国人に手渡した。
訪れたその冬、独眼鉄と邪鬼は膝をぽかぽか暖かく過ごすことが出来たという。
治療の成果か、それともやはり猫には余計な命があったか。九つあるというなら、分け与えてもなお余る。
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