職業娼婦の手を取りて。
報われない男であった。
もともと彼のハッピーエンドを誰か遥か遥か上におわす誰かが毛嫌いしているのかもしれぬ。
富樫源次は、報われない男であった。
彼自身、どうして俺ばっかりこんな目にあわなけりゃならんのじゃと愚痴をこぼすことがよくあった。
しかし愚痴をこぼすが、弱音を吐くわけではない。
そういうところがなるほど苦労のさせがい、シゴキがいのある男であったと私は覚えている。
もう会うことも無い、あの鼻っ柱。
私はどうにも後三回越せそうにない目前の壁の前に立ち止まり、彼を思い出す。
私の生まれた家が貧乏で、私が女であった。
それだけで私が水商売の道に入った理由としては十分である。決して私は美人でもなかったし、最後までうまく笑えもしなかったけれどとりあえず女の肉体を持っていたのだから余剰ではないにせよ金を稼ぐことはできていた。煙草の臭いも気にならなくなり、酒も流し込めば飲み干すことができるようになる。
私はこの生活に慣れつつあった。自分をよくよく飼い馴らして、毎日を悪安いピンクの照明の下で過ごす。女子大生のアルバイト感覚ではなく、職業軍人ならぬ職業娼婦なのだから、一日中店にいた。店の掃除や酒の買出しピンクチラシ張り、少しでも金を稼ぐためになんでもやったのだ。
私が所属する店は新宿の端、店の名前は流行に流されコロコロ良く変わったので全ては覚えていない。覚えているのは私の値段が最後まであまり上がらなかったことくらいである。キャバクラのように楽しくお話、ご機嫌が取れればアフターではなく、最初から客は私の身体を指差してこれこれこういうプレイはできるかと聞き、できるならいくらできないならいくらとマグロの競りさながらに値段が決まっていく。ソープならソープ、キャバクラならキャバクラ、イメクラならと客層を絞らず、かわいい子はキャバクラ接客、そうでない子は身体でという雑食営業をしていたため、私はおおむね身体販売員だった。たまに、ごくたまにモノズキが現れてお話だけをして帰ったこともあったが、本当に数えるほどしかなかった。
使う言葉ははい、わかりました。大丈夫です。いいですよ。断る言葉を使うのを随分忘れてしまっていた。
私は客の要求をめったに断らなかったので、中々店としては便利な女だったのだろう。他に行き場も探している様子もなし、安めの賃金でよく働く。
めまぐるしく変わる女の子の顔ぶれを眺め、彼女らの『相談』を受けている時が一番外の世界を見られて楽しかったことだけを良く覚えている。
私に一番なつき、先輩先輩と部活動のような言葉遣いで慕ってくれたのがMという子だった。ミュージシャン志望のたぁくんという彼氏がいつか世に羽ばたくのを一途に信じて、健気に夜に飛び込んだかわいい子。天然パーマの薄茶髪、二重の目がぱっと大きくって、よくお客さんのいう子猫のようだという表現も滑らない。彼女がする話はこんな薄暗いところでするにはあまりにも希望や未来に満ちていて、容姿のやっかみもあってか他のお店の女の子たちから敬遠されがちではあったが私は好きだった。
彼女の発音は明瞭で、聞いていて媚が絡まずはきはきとしていてお客さんの評判はとてもいい。彼女の指名はいつだって積み重なっていて、店長は偏りが無いようローテーションを必死に練って客の不満がたまらぬようしかし金はたまるよううまい具合に作っている。
富樫もMに惹かれてやってきたうちの一人だった。富樫が初めてやってきた日のことを残念ながら私は覚えていない。店はいつだって満員だった。
初対面の時の格好は覚えている、強烈であった。黒いスーツに黒いネクタイ。なんだこの男、葬式帰りの厄落しに風俗とはと驚いた。
富樫はあれ、あの、あの子はようとMを指差して、指名したいと無駄に大声で言った。耳まで赤かった。髭まで生やした見かけとは裏腹、風俗に慣れていないのかもしれぬと思い、料金システムを説明してやった。と、見るからに薄い黒革のサイフを取り出してひいふのみいよと一万円札でなく千円札をその場で数え出す。野暮だな、私は職業娼婦にあるまじき考えを頭に流す。
どうやら有り金をはたく勢いで、Mを指名するらしい。
Mが実は彼氏もちで、将来結婚を誓い合っていることなんか言わない。私は職業娼婦、店の不利益になるようなことを言うはずもなかった。
季節は春。軽い花粉症に悩まされていた頃のことである。
富樫は次の日も来た。よほどMが気に入ったのだろう。そういう男たちを何人も見ていたので別に驚きは無い。開店とほぼ同時に来たので、私はグラスをみがきながらいらっしゃいませと挨拶をした。富樫はMを指名してぇと言った。まるで戦国武将の名乗りである。私は見た、富樫が茶封筒からこそこそと金を財布へと移すのを。なんと、来店二回目でもう借金か、さすがに驚きを隠せない。
店長が頭を下げながら、申し訳ありません今日Mは既に指名についておりますと慇懃にそう言った。ああそうだった、今日は前々からMびいきの若(バカ)社長が来る日だった。富樫はな、なんだとォと思い切り落胆している。良くも悪くも活きがいい男だと思った。
富樫はうーんどうすっかなぁと悩んだ挙句、
「オメエは空いとんのかよ、」
と私に聞いてきた。え、と私は困る。もちろん身体は空いている。いつだって開業中だ。
「勿論ですとも」
答えたのは私でない。店長だ。勿論とは、誰が聞いても失礼な言い草だが、私は別に気にしてない。
「そんなら、いいか?」
そういう聞かれ方をしたのは、初めてだったかもしれない。いつだって、私の意志は関係ないところで話は動くのだというのに。
「はい」
答えた私は拭き終わったグラスを置いて、珍しくホールのソファに座った。
口下手というより話し下手といった感触を受ける富樫だが、必死にMの好みや普段の性格を私から聞きだしたいということはわかった。こういうことははじめてではない。私は当たり障りない範囲で富樫にMについて教える。私も話し上手ではない。周りの華やかな盛り上がりから比べて、私と富樫のテーブルだけ落ち窪んでいるようであった。私ウーロン茶一杯、富樫ビール一杯。フルーツ盛り合わせもチョコレートも何もなし。ただ富樫が下手糞な字で手帳にMの好みを懸命に書き付け、私が彼女がらみのそう多くも無いエピソードを語るだけ。
「おう、悪ィな。助かったぜ」
女とあまり話したことがないのだろうか、ぞんざいな口の利き方。私には新鮮であった。
なれないことをしたせいか、私らしくもないことを口にする。
「まだ時間がありますよ、よかったらしましょうか」
しましょう、の意味を酌めない程の朴念仁でもなかった。それは義に反するとつっぱねる聖人でもなかった。
「お?おお、ま、せっかくだからな」
たまたま行った旅先にあったスタンプのように、せっかくだからと富樫は私を買った。へへへと好色な笑みを浮かべている。何故だかその頭をぽかりとやりたいような気持ちにかりたてられた。思った以上に女に慣れていなかったらしい富樫は、私が延長を売りつけるまもなく果てて結局オプションをつけられなかった。完全にタダ働きである。
その日の会計は家族でチェーン店の焼肉行くよりも安上がりで、最後に私のポケットに入ってきたのはたったの二千円だった。
それからも富樫はたびたび来た。
律儀に私の教えたM情報に忠実に、来る時には彼女が好きなアニメの柄の小物を一つ。タバコは吸わず、求められるままに注文をして財布を減らす。
Mが空いていないときは私を呼んで、熱心にMの話を聞いた。私が空いていない時は義理立てしてかそれじゃあいいと帰ったそうだが、私が空いていない時なんぞそうそうなかったので、結局真偽の程はわからずじまいである。指名を受ければそれだけ肉体労働せずに金を稼げるので、私にとってもありがたい話であったがしかしすぐに困ることになる。
Mと私は仲が良かったが、彼女の口から出る言葉のほとんどは彼氏の話だったので、富樫に話せることが尽きてしまったのである。
仕方が無い。酒を飲ませて間をつなぐのにもいい加減無理がきていたので、私はもうMについてあまり話せることがないと正直に言った。だから奥の部屋に行こうと誘う。今思えば私なりの義理立てであったかもしれぬ。
「あん?そうかよ」
富樫は飲ませた甲斐あってか酔っていつも以上に大きな声で言った。ぴゃっと唾が飛んだ。
「そんなら俺の話でも聞けってんだ」
酔っている。富樫はすこぶる酔っていた。そして、歌うというよりはまさに吼えるといったこぶしで、拳を振り上げ歌らしきものを歌い上げた。酔っ払いの歌なんて誰も気にしたりはしないものだが、この時ばかりは違った。誰もが一瞬驚き振り向く。単なる大声だけであればあそこまで注目されることはないだろう、おそらく気迫だとかそういうものが多分に働く声だったのだ。あれだけの人数から視線を向けられたのは初めてであったかもしれない。
それは何の歌か、と尋ねたところ、塾歌よと自慢げに答えた。とても歌には聞こえなかったが。
「俺は男塾元塾生、特攻隊長富樫源次じゃ!」
特攻、なかなか物騒な響きだ。私はつい身を乗り出してしまう。外の話を聞くのはそれが相手が誰であれ楽しいものである。
富樫は話し下手な分をドカンバキンぐおーっ等の擬音や、激しいビュンビュン身振り手振りで補いながら語った。
なんと面白い世界もあったものである。私はついつい聞き入ってしまった。
現代日本にはありえないような奇想天外な話ばかり、酷く羨ましかった。
特にその塾生達の個性は素晴らしいものである。また聞かせて欲しいとせがむと、富樫は鼻の下を擦った。照れた時のクセのようである。
「おう、ま、気が向いたらな」
また聞かせて、だなんて。後で思うとなんともあざといセールストークであったことだ。だが本心であった。
その日は結局話しばかりしていて、性処理はせずに終わった。それをつまらないとは思わなかったが、ああ良かったとも思わなかった。
ただ、また来て欲しいとは思った。
富樫の話しはいつも新鮮で、胸を打つ。ある時富樫はこう言った。自分は閻魔大王の門前払いだと。
「俺はなー、ナンボ死んでも戻ってくる男なんじゃ」
「はあ」
「生きてりゃ、生きてりゃいつかは花開くっちゅうもんよ。なあ、オメェもそんな辛気臭ぇ顔してねぇで笑え」
「笑う、ですか」
おうとも、富樫は声を大きくする。
「俺のダチはよ、桃も虎丸も伊達もそれから皆、皆笑っとるぜ。まっとうに生きてりゃ笑って前向いて歩けらぁ」
挙げた名前はいつも富樫が話す中に含まれる男たちの名前であった。一度見てみたいものだと願っていた。
「前を向いて」
「そりゃあおい、後ろ向いたり下向いて走ったらオメェ、転ぶじゃねぇか」
もっともである。私はその時ばかりはすんなり笑えた事を強く覚えている。
それからも富樫のM通いは続いた。
白状するが、私は富樫が来てくれる日を心待ちにしていたこの時が店にいた何年もの間で一番楽しかった時であった。
ずっとずっと続いてくれればいいのにと願わなかったといえば嘘だ。この頃、私は前を向いていたように思う。
私が富樫の話に耳を傾け、Mについてを富樫がメモするようになって一月ほど。
私にとってだけでなく、Mにとっても富樫は馴染みの客になってきたころであった。Mに先輩先輩と呼びかけられ、なあにと答えた時のことである。
「わたしね、先輩」
「うん」
「たぁくんと別れたの」
Mは泣かなかった。もう十分に泣いたのだろう。私の目の前で泣かない彼女はやはり可愛らしかったが、強さも併せ持っていた。
「そう」
我ながらつまらない返事しかできないことを申し訳なく思う。Mはそうなんです、と笑った。
「先輩、だから私新しい恋を探します。私の事思ってくれる人探すんです」
「それはいいわ」
Mははい、と元気良く返事をして、
「あの、先輩。誰かいい人知りませんか?」
と言い出した。
その時私は、強く強く彼の名を言うべきであった。常々富樫に、Mにちゃんと俺を売り込んでおいてくれよなと言われていたのである。どうしろというのか、名刺まで押し付けられていた。それがこの一月富樫が店に通った理由であったのだから、私は富樫の名前を挙げなければならなかった。
だというのに、私は、多分生まれて初めて自分から嘘をついた。
「……さあ、ごめんね、私知らないわ」
そしてその夜、おそらく生まれてから二度目の自発的嘘をつく。
「富樫さん」
「ああ」
「Mちゃん、彼氏がいるみたいなんです」
富樫は落胆したようだった。だが恐れていたほどの暴風雨というわけではなく、そうかよ、という一言のみである。
富樫は珍しくタバコに火をつけ、会話を避けた。
煙の壁に拒絶され、私は嘘の味というものを嫌という程知った。
その日、私は店を辞めた。
家族のために始めた風俗だったが、最後の家族である父が先日他界したのがきっかけではあったが、理由ではない。
理由。
前を向けなくなったからである。
逃げ出すように、私は辞めた。
前職、職業娼婦という私はそれからもじめじめとした生活を送ることを選んだ。不便で不自由だったが、不満は無い。
職を転々としながら何年か経った頃。
夏の盛りを過ぎた秋口。まだ大分暑い。
ぐらりと来た。
地震か、と思ったが、そうではない。
担ぎ込まれた病院で、えらく長い病名を告げられた。長すぎて今でも思い出せない。
とにかく難しい病気だと医者は淡々と告げる。最近ではあまり患者に同調しすぎる医者は不適格だという風潮があるようで、本当に淡々と今すぐに入院して治療を受けないと後三年ほどの命ですよと抑揚なく言い放った。
後三年。
私が泣き出したりわめいたりする前に医者はご家族はいらっしゃいますかと尋ねてきた。あまり間をあけると感情がたかぶってしまって正常な判断が出来なくなるからだろうか。
いいえ、家族はおりません。
それだけははっきり答えた。
医者はそうですかそうですかと請け合いながら、ご結婚の予定はおありですかと重ねて尋ねる。
「ありません」
はいわかりました、今日のところは安静にしていてくださいと、私を病室に押し込めたのだった。
今に至る。
比べてみたわけではないが、どの病院も満遍なく白い。
狂ってしまいそうだと思いかけるも、それほどの情熱もないと即座に冷めた。
窓の外、空ばかり青い。
死ぬのか。
そうか。
そんな激しい現実が、私を空想の中へと突き落としたのかもしれぬ。
著しく現実把握能力は落ちている。夢の中のようである。
夢かもしれぬ。
そうか、だからこんなロクに読んだこともない少女マンガのような情景を夢見たのだ。
富樫。
はじき出された答えの名前はやはり富樫だった。
私は笑う。何をたった一月ばかりの付き合いでそこまでと笑う。これだから職業娼婦は、と笑う。
モノとして扱われなれたため、真摯に接してくれた(ように見える)男にはまりこんで身を滅ぼした女たちを何人も知っているっていうのに。
富樫、目の前に富樫は立っていて、それでもって探したんだぜこの野郎とお決まりのセリフを吐く。
私に都合がいい。きれいだ。
悪くないな、と溢れつつある死への恐怖をひた隠しに私は格好をつけた。
頬が熱くなった。
「なんとか言ったらどうなんじゃ!!」
え?何?
ジンジン熱い頬を思わず押さえたら、顔を赤くして怒り猛る富樫。
リアルだな、私は感心する。
「いきなり消えくさって、どういうつもりなんじゃてめぇは!!」
「富樫」
おう思い出したかようと目の前の男は怒鳴った。黒いスーツ、黒い靴、黒いタイ。
会った時のまんまの富樫。
「おう耳の穴かっぽじれや、いいか、俺ァな、てめぇに結婚申込みに来たんだよ!いいか!」
「Mは?」
驚くほど冷静な声が出た。時間が音を立てて巻き戻されてあの日に急ぐ。私は富樫の顔を見て尋ねた。
「あの後新しい彼氏作って辞めたぜ」
「だって、Mのこと」
「あのな、俺だってアホウじゃねぇんだよ。ホレた男がいるだろなってことくれぇ分かるぜ?」
うそだぁ。私は間抜けな声を上げてしまった。真っ白な部屋が喜劇の舞台だこれじゃあ。ちょうど診察に来たのか医者が困ったように立ちすくんでいる。
「それで?」
我ながら間抜けな質問である。
「なんでかてめぇが好きになっちまったからよ、結婚申込みに来たって今さっき言ったろ」
富樫ながら間抜けな回答である。まるで答えになっていない。
なんで、どうして、がさっぱり分からない。
「私あと三年生きられるかどうかなんですって」
「ああ?そんなら早ェとこ式でもなんでも挙げちまうか」
ああこの人目先のことで手一杯なのだ。良く言えば今に生きているのだ。
理由はなかった。私はせんせい、と呼んだ。つられて富樫も医者を見る。急に注目を浴びて医者はへいと岡っ引きのような声で答えた。
私は前を見る。
再び前を見る。この人生も終盤に来て遅かったろうか、いや、前を見るのだ。
「先生」
「な、何ですか」
私ははっきりと、前を向いて、笑って言った。
「子供を生みたいです私」
生めますか―――
仰天する医者に、富樫は焦れたようにどうなんじゃオウと乱暴に急かす。
しっかり前を見てみれば、悪くない景色である。
横も見る。横に富樫。
閻魔大王門前払いの手を借りて、いざいざ目前の壁を越えん。
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