空の城
いい気分で眼を覚ました。
布団に未練がなく、しゃっきりすっきり、日曜日の昼寝のように満ち足りた気分であった。
ああ、なんだいい気分だ。
富樫は眠気でなく幸せに浸りきって、空を見上げる。
よく晴れた八月の終わりの空には、今日も変わらず入道雲がでっかく積み上がっていた。
ああ、空の城じゃねぇか。
富樫はたいした意図なく思った。昔まだ自分の身体がこんなにごつごつたくましくなかった、いたいけな少年だった頃だ、兄ちゃんの肩に乗せてもらって今日と同じように空を見上げた時だった。兄ちゃんが言ったのだった。
『見ろや源次、ありゃあ空の城じゃ。天国っちゅうのはあん中にある』
そのとき自分が兄ちゃんになんて言ったのか詳しくは思い出せない。おそらく父ちゃんに母ちゃんもあっこにいるんかとか、そういったところだ。
兄ちゃんはなんて答えたっけか。
思い出せなくて、幸せな気分は少し薄れた。
もったいないので、そんなら本人に聞きにいきゃあいいじゃねぇか、そうだと富樫は思い立つ。
幸せな気分を胸に、富樫はそう決めた。
よう、虎丸。
誰かに声をかけられたので虎丸は周りを見渡した。
誰も居ない。いつも通りの校庭で、いるのはえらく太った猫一匹。呆れるほど可愛げのない顔をしていて、ぶみゃあとこれまた可愛げのない声で鳴いている。
なんじゃい、誰も居やしねぇ。虎丸がふるるっと頭を振った。起きたばっかりでまだ完璧じゃないのかもしれない。
とたんにあくびがころがりでた。
名前の通り虎の如く、威勢のいいあくびである。小鳥の一匹くらいはらくらくぱっくりいけそうであった。
笑い声がする。
あっきれたような笑い声、虎丸がよく知る人物の笑い声にそれは良く似ていた。
しゃんと起きろや、てめぇ顔くれぇ洗ったかよう。
そう、笑われた。
今度こそ空耳で無い。虎丸はそのでっかい目の玉をひん剥いて、ぎろりと睨んだ。空を睨んだ。声は上空からである。
「よう、虎丸」
たしかに空耳でなかった。そして、虎丸がよく知る人物であることもついでに間違いなかった。
富樫源次、虎丸の親友にして相棒、ちょっとつぶれた男前。
傷物だというのに愛嬌のあるその、良く知った顔があった。
背丈は虎丸のほうが少し大きい。虎丸は健康優良児である。
その虎丸が見下ろされていた。表情は良く見えない、というのも虎丸に見えるのは靴底と足とボンタン、夏場だっていうのに首まできっちり閉めた長ラン。表情は逆光でよく見えない。太陽に頭を突っ込んでしまっている。
「と、富樫」
富樫はふわふわ幸せそうに、夏の生臭い南風に髪の毛を揺らして浮いている。浮いているのは比喩でもなんでもなく、ぷかぷか上空三メートル。
富樫は上空三メートル。
虎丸は思わずジャンプして、その足に飛びついた。ひょいと足を引っ込められてしまい、無様に虎丸、地に落ちる。
「富樫、何やっとるんじゃ!」
「空の城によう、」
何?
「兄ちゃんに会いにいくんじゃ」
今なんつったこいつ。
虎丸は昔近所で会った、キチガイを思い出した。
暴れるようなキチガイでない、いつも空を定まらない焦点で見上げて幸せそうに歌を歌うキチガイだった。彼がたまに言う。
『鳥が皆おっこちてきて、そしたら僕はそれを拾って食べる。ねぇそしたら空へ代わりに上がろう。ぴいぴい飛び回るんだ』
そのキチガイはある晴れた日に死んだ。むしりとった鳥の羽を抱いて、廃ビルの屋上から飛んで、ぐしゃりとつぶれて死んだ。
富樫、虎丸は地を這い砂まみれになりながら、再び起き上がって富樫の足へと飛びつく。
再び失敗、虎丸は地に落ちる。
すまなそうに、富樫は詫びた。
「すまねぇ虎丸、俺はどうしても行きてぇんだ。連れて行けねえよ」
その詫びる一瞬だけ、富樫は虎丸の目を見た。いつもの俗な部分がごっそり抜け落ちて、幸せそうに笑っている。
悩み苦しみ何にも無いよ、というその顔、目、口振り。坊主の説教を聴いているみたいだ、坊主の説教よりよほど清らかである。
虎丸は酷く嫌悪した。
違うじゃろ、なぁ富樫。
オマエはもっとアレ、おねぇちゃんが好きで馬鹿で、馬鹿じゃろ。
オマエは誰なんじゃ、そんなきれいに笑うオマエは誰なんじゃ。
虎丸はうまくいえないもどかしさに唇を噛んだ。口下手というわけではないが、虎丸は唇を噛んだ。
富樫が幸せそうだったからである。
晴晴としている。
それでも富樫は俺の相棒で、親友で、とにかく大事な野郎なんだ。
それでも富樫に、行っては欲しくなかった。
わがままかもしれないが、虎丸は大声で怒鳴った。
「富樫、富樫!オマエ行っちまうのか!もう会えねえなんて俺ァ嫌だ、嫌だからな!!」
富樫が行ってしまう。
虎丸は嫌だった。
シンプルだが強い感情を、声に乗せて富樫へぶっつけた。
富樫は上空十メートルばかりになっていた。
返事が無い。
楽しそうにすいすいと、飛び方を覚えたてのひばりのようにいびつな丸を描いて飛び回っている。
虎丸の声は聞こえてはいないようだった。
「虎丸!!」
俺の声は届かねぇ、富樫、富樫、俺どうしたらいいんじゃ。
泣き出しかけた虎丸の感情を引っ張り上げたのは、やはり筆頭剣桃太郎である。地面に伏した虎丸を起き上がらせる。
誰より強い目が自分を見ている、それだけで虎丸は少し正気を取り戻す。
桃の肩に手をかけて、虎丸はまくしたてた。
「桃!アレ、富樫が、とがしが」
桃の顔が険しいものになる。怒りの表情に見えた。
普段すまして笑うことが多いこの男が怒った時はそれは恐ろしいことを虎丸は知っている。容赦とか慈悲、手加減というものを知らない、ひどく冷たいものになることを虎丸は知っている。
「ああ、虎丸、悪いが飛燕を呼んできてくれ、それから雷電も」
「私ならここに居ますよ」
呼ばれると予想していたのか、飛燕が静かに二人の元へと歩み寄ってきた。雷電が続く。
「ぬう、やはりあれは…非行少年…」
雷電の声は頼もしく張りがあった。聞くものに落ち着きをもたらす。
知っているのか雷電、と桃は静かに尋ねた。問いかけた先は雷電だが、睨んだ先は上空の富樫である。
富樫はもはや、上空二十メートルになろうかとしていた。
「非行少年、飛行と非行をかけているのでござる。窓辺に現れては子供たちを夢の世界、永遠に年を取らない世界へと連れ去るという」
「ピーターパン、ということですか」
飛燕の問いかけに雷電は頷き、手を空へとかざした。その先に富樫が居る。
「非行少年は影を忘れているため飛べるのでござる。よいかなおのおのがた、富樫の影を探してまた縫い付けるしかござらん」
集まっていた塾生達はおうと答えてばらばらに素早く散って行き、影を探しに走り出した。
桃だけが、じっとその場にたたずんだまま富樫を見上げ続けていた。
ほどなくして影は富樫の布団の中で見つかった。コタツの中に脱ぎ捨てた靴下のようにつくねられて、随分皺が入っている。
見つけてきたのは虎丸だった、その影を手に、すっかり小さくなった上空の富樫を見上げる。太陽の光を手の平で遮り、ああ、と声を上げた。
「ど、どうすんじゃ雷電、あんなに小さくなっちまったぞ」
頼みの綱の雷電は額に汗を浮かべ、苦虫を噛み潰したような顔でむう、と一声唸ったきり黙りこんだ。
人ごみを掻き分けるようにして伊達が進み出た。手には白木の長弓、弓道部が使う練習用ではなく本物のやじりのついた矢。
冷静に、そしてはっきりと言った。
「ようは影を縫い付けるにも地面に落とさなきゃならねぇんだな」
むむう、雷電はまた唸る。
考えれば当たり前の事であった。
「伊達、すまないな」
今まで黙りこくっていた桃が、微笑みながら伊達の手から弓を受け取る。
え、桃。
まさかよう。
塾生達がざわめいた。
富樫はまだ、ひらひらと学ランの裾を羽ばたかせて飛び回っている。
声も聞こえないし、顔も見えない。
それでも、富樫が幸せそうだというのはわかった。虎丸には理由もわかっている。
空の城。そこに富樫が愛してやまない兄貴が居る、両親もいる。
この地面を這い回っている限り会うこと叶わぬ人がいる。
会いたいのだろう、どんなにか会いたいのだろう。
自分にだけ別れをつげて、さっさと空へと昇ってしまうほど会いたいのだろう。
虎丸は、迷ってしまった。
迷わないのが身上の虎丸は迷う。
一筋、空を切り裂いて一筋が真っ直ぐに富樫へと向かって放たれた。伸び行く軌道。
はっと我に返って虎丸が振り向くと、恐ろしく冷静な顔の桃が長弓からちょうど矢を放ち終わったばかりである。
「わがままかな、虎丸」
「も」
桃、と呼ぼうとした声は風にさらわれて桃へは行き着かなかった。桃は言う。
「俺はわがままだ。だから許さない」
それだけだった。
後は興味も無い、とばかりさっさと立ち去る。
桃らしくもない行動に、塾生達が静まりかえった。
悲鳴が一つ、もちろん富樫の悲鳴である。悲しげな悲鳴だった。
桃の放った矢は狙いあやまたず、富樫へと突き刺さった。まっさかさま墜落していく。塾生達が駆けた、地面に落ちようとした富樫をすんでのところで受け止めた。富樫の身体には重力が働いていないように軽い、再び浮き上がろうとするそれを体重をかけて押さえ込んだ。まさに鳥のよう、手負いの富樫は必死にもがく。その目は空しか見ていない。離せ、と富樫が叫んだ。聞いたことも無い金切り声に虎丸はたまらず富樫ッ!と呼んだ、涙が出そうだった。富樫の目が瞬きして、それから虎、と呼ぶ。それが驚くほど嬉しい。また呼ぶ、富樫。富樫、富樫、富樫。うるせぇな虎丸と、いつもの面倒くさそうな、目尻に皺を作る笑顔。
力が緩んだその隙をついて飛燕が糸を通した針を手に、その人だかりに飛び込む。影が月光から手渡され、それを目にも止まらぬ速さで縫い付けていった。
一針ごとにずしり、と富樫に重みが戻っていく。
影が完全に富樫に定着する頃には、富樫の意識はふっつりと失われていた。
伊達が虎丸の横に来て、泣くんじゃねぇと乱暴に言ってくれたのが優しく耳に残った。
虎丸は涙を拭って、空の城を睨む。
次に富樫が眼を覚ました時には、空を飛び回ったなにもかもを忘れていて、それが虎丸には少し救いになった。
もし目覚めてからまた空へ帰せと叫ぶようなら今度こそ虎丸は困ってしまう、が、そうせずに済んだ。
何も知らずに桃の放った矢傷と、空から落ちた時の衝撃でできた傷を癒している富樫を、虎丸は毎日見舞う。病室にはそれでもカーテンが引かれていて、空を遮断している。
この日も、虎丸は富樫を見舞おうとビニ本ととっておきのシャケ缶を手に富樫の寝ている部屋を訪れた。
ふくふくの頬がつっぱっている。ぴしゃりと手の平で引っ叩いて強張りをほどく、おう、と気合を入れた。
自然にだ、自然。虎丸は富樫のあの、鳥の目を思い出しかけて首を振った。忘れろ忘れるんじゃと念を押す。
元気に、明るく、うるせぇと言われるように、虎丸は手順を確認しながら、
よおーッ!と扉を開け放とうとドアノブへ手をかけた。
止まる。
ドアは二十センチばかり開いていた。
見えてしまう。
布団に横たわる富樫、上半身は裸で包帯を鈍く白く光らせながら、うつ伏せになっている。眠っているらしいが布団はかけていない。ちょうどじいさんがマッサージを受ける時のようだ、と虎丸は何気なく連想した。
その傍らには桃。
ちょうど桃が射た傷の辺りを手の平で優しくさすっている。矢が当たったのは肩甲骨の辺りであった。
見下ろす顔はあの時とはかけ離れていて慈愛に満ち優しげ、虎丸はあの時夢でも見ていたんじゃないかと自分を疑いはじめる。
だって桃は俺達の頭で、筆頭で、富樫の親友じゃねぇか。
その親友をなんだってあんなに憎憎しげに見ることがあるんだよ、おっかしいったらねぇ。
弓で射たってのも、友達を連れ戻すってだけだろう。
急にうじうじ悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
虎丸は再び手をドアノブへとかけた。わだかまりなく桃、富樫、と呼べそうであった。
俺ったら心配性ゥ、なんておどけた即興の鼻歌でも歌えそうである。
「逃がしは、しないぜ」
ドアの隙間から、声が漏れ出てきた。たった一言だけなのに、頭の上から押しつぶされそうに感じられる。
よほどドアノブに縁がないのか、指は再び引っ込んで、結局自分の目を手の平で塞いだ。
虎丸は天を仰ぐ。やっぱりか、そうなのか、なぁ。誰か教えてくれ。
背を向けようとして、立ち止まる。
ドアの前、せめてもの見舞いか、それとも警告か、シャケ缶とエロ本をそこに置いた。
立ち去った。足早に、立ち去る。逃げ出す。
むしょうに、伊達の顔を、優しい揺らぐ男の顔を見たくなった。
早く秋になればいい、秋のあのうろこ雲。
城なんかねぇんだよ富樫、なぁ。
大人になって虎丸は知ったのだが、肩甲骨というのは人間が天使であった頃はやしていた羽の名残だという説がある。
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