ルナティック
秋だというのに秋物の出番が中々訪れない、羅刹は部屋にかけたままのジャケットを頭に思い描いた。
薄い渋枯茶の、昨年に仕立ててもらった二つ釦のジャケットである。自分の体格に合わせてもらったそれが、秋も半分過ぎたのにと目に入るたびに羅刹を責める。
わたし、あなたのためにいるのよ。
そう訴えるジャケットに悪いなと詫びながら、今日も羅刹は公園に向かった。
手には一冊の文庫本。
その日羅刹は黒い薄手のカットソーに、ベージュのパンツ。サンダル。
なによりサングラス。羅刹はサングラスを好んだ、これをかけていると殆どの人間は声をかけてこない。
そして、自分の視線がどこへとどいているのかもわからなくする効果もある。
張り込みには必要不可欠なものであった。
羅刹は連絡用の携帯電話を尻のポケットに突っ込む、サングラスをかけ、文庫本を手に。
悪いな、羅刹は小さく詫びた。
今日もよくよく晴れて、九月の半ば。
ジャケットは今日も出番を無くした。
邪鬼の命令はこうであった。羅刹は一枚またページを繰る。
不法入国の外国人グループによる窃盗や売春、違法ドラッグの流通。特に甚大なのはドラッグの被害で、主に若者が値段も安いのでファッション感覚で手を出すケースが多い。幼児売春の事例も挙がっている。このまま放っておくわけにはいかないだろう、邪鬼は強く強く断じた。
そして今グループの幹部がたびたび集まるビルを羅刹は見張っている。
ビルは一見してごく普通の歓楽街の雑居ビル、だが歓楽街のビルにしては非常口が整備されすぎているし大通りへはたったの三十メートル。テナントにはうらぶれたスナック、看板は小さくエレベータに表示もない。とても酔っ払いがてらに入れるようにはしておらず、一見でたどり着くことは無さそうであった。
逃げるにしても潜むにしても優れている。
そこに出入する幹部の動向を見張りとともに報告をし、いざとなれば制圧せよ。
それが邪鬼の命であった。影慶は邪鬼のサポート、卍丸は持ち前の人当たりの軽さを活かして若者からの売人の情報収集、センクウは少々危ない風俗店に入り込み売春のセンから探りを入れていた。
羅刹は忍耐力と集中力を振り絞って日がなビルを見渡せる公園で本を読むフリをしながら見張りを続けている。
まったくもって張り込みというのは根気と技術のいる仕事であった。見張りができるということは向こうからも見えると言うことで、細心の注意が必要なのである。
何故羅刹かといえばその公園が一般の子供の遊び場というよりはむしろ外国人浮浪者のたむろする場で、ちょっかいをかけづらく一見売人にすら見える外見の作用が大きい。
強面に退屈を包み隠して、羅刹は今日もサングラス越しにヒビだらけのビルを睨んだ。
今日で三日目、ところであのジャケットの出番はまだない。
羅刹はページをまた一枚繰った。日陰とはいえ汗が鎖骨へと流れる。
死んでいるのかわからないほどに動きを見せないまま地面に転がる老女。ただスカスカと収縮するだけのアコーディオンを演奏して歌う男。
薬が全身に行き渡ってしまったのか痙攣しては動きを止める女。放送禁止用語を連発して狂ったように叫ぶ黒人。
上半身裸のまま世界を歌う男はご機嫌、愛をしつように歌っては腰掛けたブランコの支柱を足で蹴って笑った。
まるでゴミタメの中にいるようだ、羅刹は息を吸ったとたんに鼻をつく饐えた匂いに眉間を強張らせた。
公園には人がごった返している。
どの人間も社会の手の平からは確実にこぼれ落ちて、底にぐずぐず絡まりあって腐っているように見えた。
自分も足元から侵食されていくのではないか、ここは全てのやる気や希望を持っていく。
だが、羅刹は揺るがない。羅刹は眼を開いたまま風にするようにして受け流していった。
羅刹は強い男である。それは情が無いだとかそういうマイナスのものではなく揺らぎが少ない男である。
邪鬼はそういう、流されないところを買っていた。
ページを一枚繰る。
と、視界の片隅に少年の姿が入った。
少年は錆びた鉄棒の傍にじっと立っている。羅刹はすぐにその少年の姿格好を頭に刻んだ。
報告に上げるかどうかはまだ決めていない。
少年は鉄棒を右手で握って、羅刹に背中を向けている。
停滞が標準。
沈殿が近近。
正気が野暮。
そんな公園の中で、少年は紛れ込んできた見るからに異端である。
羅刹はページを一枚繰った。久しぶりに今までに見たことのない人間が現れたので、少々そちらに意識を傾ける。
いかに羅刹が忍耐の男だとは言え、こうも座りっぱなしでは退屈を感じないわけではない。退屈を我慢できないことではないが、新しいことを歓迎したい気分ではあった。
少年は羅刹に背中を向けている。細い、後ろから見えた首、パーカーに包まれた腕に背中、ハーフパンツから伸びた足、全てが細い。
だが強靭に見えた。
少年は鉄棒を右手で握り、左手を緩やかに体の横で『P』の字のように曲げて立つ。
股関節から両足のつま先を180度外側に向けている。背中に頭はぴくりともしない。
バレエだ。羅刹は鼻を鳴らしてひそかに笑う。
東京のゴミタメ、まともな人間ならば顔を背けるものだらけの中で然と立つ少年が場違いすぎて滑稽だった。
羅刹はまたページを一枚捲る。別に捲らなくてもいいのだ、周りからは自分はやくざかそれとも売人に見えているのだろうから。
別に完全にここで本を読んでいると思わせなくても構わない。
羅刹は久しぶりに大きな脱力のため息を漏らし、ごきごきと首を左右にひねった。
勿論、意識はビルから完全に離れたわけでもない。
羅刹が見ていようと見ていまいと関係ないというように、というより世界などお構いなしに少年はマイペースにゆっくりと足のポジションだけを念入りに行っている。
一つ一つの動作全てがもどかしいほどに時間がかかる。もし観客が居たら怒鳴りだすかもしれない。「お前はいつまでそうやっているんだ!」と。
少年は自分の気のすむまで足のポジションを確認し続けている。羅刹はそれを見ていた。
少年が手を添えるバー代わりの鉄棒のすぐ傍ではシワだらけの老人がそれを羅刹と同じく見ていた。見ていたが、眼には光が無い。
公園にいた人間達は視線を少年へと一度は投げた。が、少年があまりにも動かないので飽きて見るのを止める。飽きたといえば、彼らは既に飽いている。
夕暮れ、光のよりどころである街燈が点いたという頃に少年は唐突に姿を消した。
結局その日羅刹は邪鬼に、動きは有りませんでしたと報告をした。夜中だけは見張りを変わってもらうことになっている。
ところであの、薄枯茶のジャケット。
いまだ出番は無い。
毎日羅刹は張り込みに出た。
文庫本を持つのは途中で止めた。あぶれた売人達がこの公園へと流れ込んできたので、羅刹が一日ベンチに座っていても不自然ではなくなったのである。
羅刹に話しかけるものまで現れた、アンタどこの人?どこの、というのはどの組織の人?と言う意味であろう。適当にはぐらかすと隣に座った売人は俺はどこそこと話し出した。必要なものだけ濾しとって後は捨てる。
ビルに中々動きはない、時折幹部らしき人間が出入しているのは見えたし報告もしたのだがまだ確実な決め手は無いようで張り込みを続けるように指示をされた。
最近では苦でもなくなった。
例のバレエ少年のおかげである。少年は朝八時から夕方の五時半までを公園で過ごし、飽かず一人きりのバレエレッスンを続けているのだ。
今日はどこまで進むのだろうと思いながら羅刹が公園に昼食を終えて戻ってみると、いつも腰掛けているベンチが埋まっている。
酔っ払いでもなく、本物の売人だろうとすぐに察した。目的があってこの公園に立ち入るものはみなすべからく浮くのである。
浮世とはよく言ったものかもしれん、羅刹は笑った。
一般世界というのは地にあるのではなく、少しばかり浮き上がったところにおわすのだ。
だからそこから零れた人間達のいるここでは本当に『浮く』のだろう。
仕方が無い、ここでモメて悪目立ちすることは避けたい。羅刹はサングラスの奥の目で苦笑すると、適当に座れる場所を探した。
なお、今日もジャケットに出番はない。
秋はいつ来るのか、羅刹も聞きたいところだがなかなか答えは出ないようである。
「見てるの」
二週間は経っただろうか。
仕方なく座ったのは花壇のレンガの上。当然土で汚れているし座り心地ときたら最悪だった。誰かがどいたらすぐに移ろう、そう思ってしぶしぶ腰を下ろしたとたんに声をかけられた。
その花壇は少年のレッスン場のすぐ横である。今日も少年はパーカーのフードを目深にかぶっていた。
「……気が散るか」
眺めてはいたが、そこまで視線を刺さるほど注いでいたわけでもない。
少年はフードを取った。透けるような白金の髪の毛がくしゃくしゃと光を跳ねた。
「あついわ」
少女だった。年のころは十を少しこえたほど。白人の、髪の毛をきつくひっつめた少女は緑の目を瞬いてそう言った。やややせぎすではあるが、微笑んだ顔は美少女と言ってもいいものである。
羅刹は返答に困った。会話が繋がってもいないし、自分の見張りが露呈しているのではないかと冷や汗をかく。つんと反らされた鼻が
「おじさま」
オッサンと呼ばれたことはあれど、真剣におじさまと言われたのは初めてだった。イントネーションがおかしい、日本語は不慣れのようであった。
少女はいつも通りに鉄棒に右手を添えると、左手を前に伸ばし、後ろに足を蹴り上げる。全ての動作は先日までと変わらないゆったりとしたものである。
「見てるね、おじさま」
「そうだったか」
間近で見れば、おそろしく全身に気が行き渡っている。力を入れているのではない、ただ気を全身に廻らせている。
「おじさま、どう?」
「うまいな」
笑顔も見せずに尋ねられ、羅刹はそれだけ答えた。意識を半分はあのビルに置きながらも、少女の汚れたつま先が、柔らかく女性的な形なのに気の張った指に、角度を研究しつくしたようにしか見えない首に意識をもっていかれそうになる。
それでも、羅刹は興味をそそられた。
緑の目、
濃く影を落とす瞼、
少々くぼんだ頬、
かさついた唇、
まだ少女だというのに肌荒れの見える顔。
「当たり前だわ」
事も無げに少女は言った。目線はまっすぐ、ちょうど羅刹の見張るビルと同じ方向に投げられる。
しかし、少女はそのビルを見ていない。もしかしたら盲目なのかと羅刹が疑うほど、その目は何も映していなかった。
「私は誰より踊れるの、おじさま」
「そうか」
「どこだっていいの」
羅刹はそうだろうなと素直に頷いた。こんな公園だけではなく、この少女が必要としているのはありとあらゆる舞台だとわかった。
抑揚のない声で羅刹に向かって話し続けながらも、少女が取るアチチュードの後ろへ蹴り上げた足はぴくりとも下がらない。上げた手も震え一つ起こさないままである。
「右足がもう一つほしい」
少女の呟きに羅刹は思わず少女の右足を見下ろしてしまった。この時、一瞬ではあるが羅刹の意識は完全にビルから離れ、羅刹は自分をぶん殴りたくなるほど恥じた。
それはそれとして、少女の右足ちょうどアキレス腱のあたりに幅三センチほどの輪と呼ぶにはいかつい金属がはまっていた。奴隷の重りをつなげる鉄枷に良く似ている。そして、細すぎるほどに細い足首に食い込んでおり擦過傷がいくつも白い足についていた。
「これは?」
「中に丸いトゲ、食い込んで痛い。そのうち私、歩けなくなる」
少女は笑った。どうにも薄い笑みであった。今までのゆっくりとした練習は足に負担をかけすぎないためもあったのだとようやく羅刹は気づいた。
羅刹にはこの鉄枷について聞いたことがあった。赤子もしくは幼子のうちに鉄枷を足に嵌め、成長するに従って内側の突起が足腱を圧迫し弱らせ逃げられぬようにしているという。
「おじさま、サーシャは踊るの」
「……誰がこんなものをつけた」
異国の少女。
台頭する不法入国外国人の組織。
突然の登場。
「おじさま、エスメラルダのこれを外せるでしょ?」
「どうしてそう思う」
少女は問いに答えない。
ビルへの意識を割いて、少女に向ける。これは思わぬ糸口かもしれぬというのは建前、目の前の少女は明らかに暴力の被害を受けている。
思えばこんな年頃の少女が学校にもいかず、親の姿も見えないまま毎日浮浪者だらけの公園で踊っているのだ。もっと早くに結びつけるべきだった、羅刹はサングラスを外して改めて素のままの色彩の少女を見た。
「ジュリエッタは見てたから」
会話がかみ合わない。だいたい少女の一人称すら統一されていない、羅刹は狂人かとその目を疑う。
少女の目は強靭なままであった。
「おじさまはあのビルを見てるって涼雪は知ってる」
一瞬、指拳を備えた。すぐさま打てるように、そして隙なく周りから見て不自然だと気づかれない程度に身構える。いざとなれば子供一人である。
不幸な境遇には同情するが、それとこの任務とは別であった。
いかに鈍感な人間とはいえ、これだけ近くで殺気をぶつけられたらたまったものではなかろうに少女は未だに第四アラベスクのまま静止している。
揺るがないというよりは、揺れ幅を持っていないようにすら見えた。
これは狂人か、羅刹はますます警戒を強める。が、同時にこの狂人に脆さも感じていた。
「今夜セシリィを助けて欲しいな、今夜助けて」
助けて欲しいな、と明らかに言葉は依頼の形を取っているのに顔も目線も意識も殆ど羅刹に向いていない。
「お前はあそこの人間か」
「フロラはあそこの人間」
哀れだ、羅刹は狂人の強靭さがどうにも哀れに思えてならない。
少女は歌うように言った。拙い日本語だったがこう言った。
「月曜のおじ様はサーシャと言う
火曜のおじ様はエスメラルダと言う
水曜のおじ様はジュリエッタと言う
木曜のおじ様は涼雪と言う
金曜のおじ様はセシリィと言う
土曜のおじ様はフロラと言う」
「日曜は?」
場違いな事を羅刹は尋ねてしまった。本来真面目よりな性格の自分だがどうもこの狂人のせいでゆがみを起こしてしまったらしい。
苦笑すら浮かびそうな間抜けな質問に、狂人は正面から答えた。
「日曜は安息日よおじさま」
案外に幼い口調だった。笑ったのかもしれないと思ったが、ついに陽射しに遮られて確認できなかった。
陽射し、ああ陽射し。いつまで照るつもりなんだ。
気づけば少女は初めて羅刹に向き合って、まっすぐに棒立ちをしている。目には羅刹が映っている。
サーシャでもなくエスメラルダでもなくジュリエッタでもなく涼雪でもなくセシリィでもなくフロラでもなく、少女は羅刹を見ていた。
目がきっかりと合った。
助けて、少女の思いに羅刹は答える。
「はッ!」
次の瞬間、羅刹は膝をつき、少女の足首にはまっていた鉄枷を指拳で打ち砕いていた。
少女の顔に驚きが浮かんでいる。力が抜けたようにへたりこんで、青青と日に焼けていないそこを手の平でもってさすった。
理性が見る見る戻っていくのが羅刹にはよくわかった。
「おじさま」
「今夜だ、信用して話す。今夜あのビルを潰す」
「…おじさま」
「踊るがいい、どこだって踊れるというなら」
「わたしどこだって踊れる。おじさまの手の上でもオーロラをやるわ」
羅刹は笑った。
「見てやろう。練習の成果とやらをな」
「タキシードを着てね、おじさま」
「そんなもの着ていけるか」
「お願い、おじさま」
少女はどうやらありがとうと言ったらしいが、少女の母国語は羅刹の知らない言葉だった。
日の落ちるのが早くなった。
少女と約束を交わして別れた羅刹は頬に西日を受けて、秋風の音を耳で確かに聞いた。
戻るなり今夜襲撃すべきだと進言した羅刹に邪鬼は顔に出さないものの面食らったが、理由は聞かずに受け入れてくれたのが羅刹にはありがたかった。
その夜はぐっと冷え込んで、窓を開けた途端に秋風としか思えない冷たさが入り込んできた。
月が出ている。そういえば中秋の名月だったと羅刹は思い出した、ここ最近毎日公園で座るだけだったので季節の経過というのをすっかり忘れていた。
羅刹の部屋はコンクリートを打っただけの部屋にベッドとAV機器程度。それから服。
この素っ気無さが羅刹は気に入っている。
月明かりを無料のスポット、主張をするものが部屋に一つあった。
手を伸ばした。
待たせたな、
ええ待ったわ、
すまん、
待ったんだから、おじさま。
拗ねるジャケット、薄枯茶の二つ釦。肩のラインが鋭角で、腕を曲げた時に一番手首が美しく見えるように。
ジャケットを羽織り、羅刹はショウへ向かった。
邪鬼率いる部隊の動きは迅速かつ静粛で、町行く人間のうちの何名がこの制圧に気づいただろうか。
返り血を浴びるわけにはいかぬと羅刹の動きは緻密に、いつもよりも丁寧だった。羅刹、その名の示す闘神の名とは程遠いその闘いぶりを卍丸などは、
「めかしこみやがって、デートに行く服が汚れるわってか?」
などとからかった。軽口をたたきながらも卍丸の手刀は確実に刃物を持って向かってきた男の首の付け根に打ち込まれていく。
「そんなものだな」
普段の羅刹からは思いもよらない切り替えしに卍丸は間抜けな声を上げた。羅刹は指拳でもって封鎖された部屋のドアを打ち抜く。
あらかた制圧が済んで、捕虜の話によれば残るのはリーダー格の男ただ一人だという。
封鎖のとかれていない部屋はここのみであった、ここにいる、羅刹の指拳がドアを打ち抜いた瞬間に卍丸が肩で崩れかけたドアへタックルをかけた。
ボレロ。
羅刹は昔見たボレロを思い出した。赤い円盤、火に包まれるようにして踊るダンサー。死ぬまで下から焦がされながら踊るように羅刹には見えた。
部屋の床は真っ赤に染まっている。
「おじさま」
微笑む少女は狂人だった。狂人は人形に着せるような布地の多い、歩くにはとても向きそうに無いブルーの服を血染めにして立ち尽くしている。卍丸がひでぇ、と小さく呟く言葉が部屋に転がった。
狂人の凶刃に胸を深々と貫かれて、男が傍らに倒れている。仰向けのその顔には血の気が無く、もう息絶えているのが夜目にもわかった。
「シドリーエフさん!!」
道案内代わりに連れてきた男が叫んだ。その名前は確かに事前の情報通り、組織のリーダーの名前と合致した。
顔の照合はできたので男の用は済んだ、と卍丸が手刀を振り上げる。が、それより早く男は叫ぶ。
「テメェッ!!実の親だぞ!!」
狂人の肩が、ひくりと奮えた。
遅れて卍丸が今度こそ手刀を首へと振り落とした。唯一声を上げていた男が沈黙したので、部屋という部屋は沈黙に包まれる。
羅刹は一歩進み出た。狂人は一歩退く。羅刹の顔を見た途端、憑き物が落ちたようにすとんと狂気が引いた。
「タキシードじゃないがな」
「おじさま」
「花束もない」
「おじさま」
「今日は安息日だったな」
「ええ」
近づいてみて、少女の胸元が引き裂かれているのに気づいた。
七番目の名前を貰う寸前だったのだろう、それも一度はつけた名前をつけた本人が上書きするなどと。
いなくなってしまわぬように、そうしたのだ。羅刹は同情でもなく怒りでもなく、まぜこぜの感情に眼を伏せた
その羅刹が手を伸ばして少女の頬に触れたとたん、
サーシャでもなく、
エスメラルダでもなく、
ジュリエッタでもなく、
涼雪でもなく、
セシリィでもなく、
フロラでもなく、
少女はおうおうと声を上げて泣き出した。
次は、薔薇の花束だってなんだって持っていってやろう。
羅刹がそう囁いてやると、少女は一際高く泣いた。
名月は揺らぎなく浮かぶだけ。
「羅刹、手紙来てんぜー」
くわえタバコの卍丸。差し出したエアメールに灰が落ちた、振って落とす。
ビリビリとは開封しない、柄に細工のついたペーパーナイフでもってすらりと縁を開封した。
中から出てきたのはチケット。それも一枚きり。手紙もない。
「なんだよ、一枚きりなんてシケてんな。しかもバレエ、イカツイ男の一人バレエってな不気味だぜ」
「嫉妬深いんだろう」
卍丸は意味が分からず首をかしげている。
それを放っておいたまま、羅刹は壁を見上げた。
薄枯茶の。
薄枯茶の二つ釦。肩のラインが鋭角で、腕を曲げた時に一番手首が美しく見えるように。
ジャケットを羽織り、羅刹はショウへ向かう未来。
薔薇を抱えきれないほどなんて、自分のほかにそうそう似合うとも思えない。
羅刹は声を上げて笑い、卍丸を不気味がらせた。
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