うろこ雲長く伸び
水っぽい、リンゴではない、甘くもなければ。
自分にとってそんな印象の果実でしかないそれ、それをその男はさりさりと器用に剥いた。
指先が果汁で濡れている。
香りらしきものを、かすかに鼻は嗅ぎ取る。
やはり水気が多いにおいだと思った。
指先、濡れた指先。
指先がほの黄色みのある、さっくりと切り分けられた果実を摘んでいる。
摘んだまま、自分の口元へと押し当ててきた。
果汁が滴り落ちそうだった。
酷く旨そうに見える。
鼻先にあるにもかかわらず、においはやはり水っぽいものだった。
ダンボール箱からごろごろと出てきたその黄色がかった緑の皮に包まれた果実の一つを手に、一号生筆頭剣桃太郎は声を上げた。
「梨じゃねぇか、にしては…ちょっと小さいな」
「幸水じゃ」
答えたのは松尾である。特徴的なヘアスタイルを揺らし揺らししながら学ランの裾を持ち上げ、前掛けのようにするとそこへ次々傷をつけぬように梨を落とし込んでいる。誰も止めない、午後も半ばを過ぎた教室にはヒマをもてあました塾生達が伸びていたが誰一人松尾が梨をどんどん取り上げるのを止めない。
松尾だからであった。
松尾なら、そのたくし上げた学ランからほい一つ、ほい一つ、そう言いながら配り歩いてくれるということがわかっている。
静かに待っているのが得策だった。
その上、松尾は実にいい笑顔でうまそうじゃのうなどといいながら配り歩くのだからそれを見るのも悪くは決してない。
松尾とて奴隷の一号だが、せいぜい余った一つ二つを他の塾生より多く自分の腹に入れる程度である。
独り占めのできない性分を松尾は自分で貧乏好だと笑ってみせたが、そんな松尾を友人たちはちょっと間が抜けているがお人よしのいい男だと思っていた。
塾生の家族か、それとも男塾OBか、とにかく一号生の教室には一箱詰まった梨がある。
松尾は誰の口にもきちんと梨が行き渡るように心を配る。計算に関しては親友の田沢が請け負った。
ということで数名食いはぐれそうになる危機もあったが最終的には無事に全員に行き渡る。
甘いものじゃ。誰ぞ目尻を下げてそのざらついた表皮を撫でた。
甘いものにたいするあこがれ、それはこの飽食の時代には遠のいた感情ではあったがここ男塾にはまだ名残がある。まったく食べ物という食べ物は皆平等に愛しく素晴らしいものであるべきだった。その中では多少の優劣はあるが、それでも塾生はいつも飢えその分どんなものにでも滋味を感じてわしわしと良く食った。ひそかに彼らの肉体を作っているものである。
梨は果物の中では特に甘い部類というわけではない。だが水の匂いに紛れた甘い香りと、一口ごとにあふれた果汁は塾生達を大層喜ばせた。
桃、一号生筆頭剣桃太郎は割り当てられた二つの梨を手にしながら自分の席に足を投げ、校庭を眺めていた。
眼差しは特定の何かに向けて投げられた訳ではない。
窓枠に切り取られている景色は皆秋の景色であった。
桜は咲いていた。一年中滞りなく咲いている。
桜に遠慮をしているように勢いを消して、銀杏が黄色を見せている。
土は風が吹けば煙るほどではないにせよほこりが立ちそうに乾いている。
長引いた夏の色を残す空にも気にせず堂堂と長くあるうろこ雲。
立派なうろこ雲。
静かな秋だった。教室にいる塾生達も桃につられるわけではないが静かに午後の眠気をくらくら煮詰めている。
そのうち一人また一人と教室を出て行った。包丁を取りにいくもの、洗ってそのままかぶりつくものそれぞれに自由だったが皆何故だか示し合わせたように静かにしていた。
秋は静かな季節なのである。
少しばかりさみしいような、自然と静かにさせてしまう力を秋は持っている。
虎丸でもいればいいのに、誰ぞはそう思った。あの男ならどこにいても変わらずにいるのだろうにと思った。
だが虎丸は居ない。ちょうどまたやらかしたなにがしのために教官に呼び出されている。虎丸はと問われた松尾は部屋に梨を置いてきたと言った。
桜が咲いていようが、秋だ。
桃はまだ梨を手に、外をうかうかと気のない様子で眺めている。
ここに一人梨の相伴に預かり損ねた男が居る。正確に言えば彼の同室その友人に梨は現在一時的に預けられている状態にあるが、その男自身は部屋に引きこもっていたために梨の存在そのものも知らない。
その男は富樫源次である。間の悪い男が部屋で何をしていたのかと言えば鬱々としていた。
部屋の布団に包まり、窓からうろこ雲を見ている。
うろこ雲は長長とたなびいていて、中々窓枠から外れていかない。
富樫が欝、似つかわしくない字が並んだ。
同室の桃が朝出がけに声をかけるとどうにも腹を壊したみてぇだ、悪いがお前行ってくれと布団から出された顔を白くして富樫は答える。
わかったと答えて出かけたものの桃は授業の最中も富樫の様子が気になって仕方がない。
白い顔、乾いた唇。
死人のように見えた。
つい先日までいつものように馬鹿をやっていた、あのひしゃげた傷面がすっかり乾いている。
乾いていると感じたのは何故かわからない、だが心配ではあった。
桃は手に、冷やした梨を富樫の分とあわせて四つ、魂を抜かれたような教室を後にした。
うろこ雲はまだ細く長く空に寝そべっている。
馬鹿にしてでもいるのか、桃は顔に憂いを越した苛立ちをのせてそのうろこ雲を睨む。
自分の部屋だというのに桃はノブに手を伸ばしかけてやめた、一瞬考えてからノックをする。
入るのにノックをするような上品な部屋ではないが、桃には遠慮なくそのドアを開くことができずにそうした。
反応はない。
が、気配はある。
ここに必ずなくてはならない気配、会いにきた気配、富樫の気配。
「……おう」
富樫の声、桃は許しを得たとばかりに静かに部屋のドアを開いた。
「桃か」
「ああ、具合はどうだ」
富樫は布団を被っている。膝を折り曲げて丸まっているのか、布団の山は小さなものになっていた。
日当たりの悪い部屋は薄暗く、富樫の声が本当に布団から聞こえているのかすらよくわからない。
「もう悪かねぇや、ヘヘ、水にでも中ったかよ」
「さぁな」
富樫の声は乾いている。
うろこ雲が部屋の窓にまだ嫋嫋としてある。
桃は踏み込んで、畳の上をすべるようにして富樫の布団の山の隣に膝をついてしゃがみこんだ。真上から覗き込むと富樫の耳が見える、富樫は窓のほうを向いて寝ていた。顎にも髭、瞼は重たげ。
富樫は桃の顔を見もせずにうろこ雲を見ている。目が曇っている。
その曇りに桃は見覚えがあった、それもつい先ほど。
妙に大人しい塾生達の目も、こういう曇り方をしていたのではなかったか、桃の眉根が寄る。
うつろだ、桃は富樫の布団に手をかけて揺さ振った。
「ああ」
「飯、食おうぜ。まずい飯だが食わなくて力がつくわけもない」
富樫の目が一瞬桃を捉えた。つるつるとした質感の、本来潤っているはずの目は渇きうつろですぐに桃から視線が離れて行った。
「いらねぇ、まだ腹ァ良くねぇみてぇだ」
富樫、もう一度揺さ振っても富樫は今度は視線を桃へと向けてこない。
見つめる先にはうろこ雲。
夕暮れも近づいて、うろこ雲の端が暗く沈んでいる。気付けば四時を回っていたのだとその色が桃に教えた。
うろこ雲。
桃は気付く。うろこ雲、聞いてはいた、聞いてはいたが何故富樫が。
思い出してみる、うつろな彼らはどうであったかを、ならば富樫こそそうあっておかしくもない。
富樫の側から離れ、桃は手に出番を逃した梨を持って一度部屋を出た。
諦めたわけではない、それはありえない、だが解決のために桃は一度部屋を出た。
富樫はちいさく誰ぞの名前を渇いた唇に載せて、それから出て行く桃ではなく沈み行くうろこ雲を見送った。
月が出てしまった。
丸くはない、半月をメロンに見立てて贅沢に甘い部分のみ食べたような形の月は黄色い。
食堂に集まった塾生達は午後あれだけ生気をなくしていたというのが嘘のように元気に粗末な夕飯を食った。
「今日はなんだか皆、おかしかったのう」
松尾は言った。松尾と田沢だけはあの時間帯で不思議なほど元気だった、桃は松尾に耳打ちをする。
たちまち松尾は青くなって、
「み、見てたんか桃」
と聞き返す。桃はいんやと答えてやると松尾は照れたように頭をかいた。
「あんまり旨そうで、つい田沢とむっつほど食べてしもうたんじゃ」
「旨かったぜ、なあ松尾」
「おう」
そんなやり取りを見ていた虎丸は不思議そうに桃に聞いた。食堂に富樫を除いて集められた一号生達は口々になにかあったのかと桃へ尋ねる。
桃が立った。場が静まる。筆頭の貫目じゃのう、虎丸は茶化すでもなく呟いた。
「今日の午後、具合がおかしかったものはいるか?」
一号生達が顔を見合わせた、そして思い出したようにぼつぼつと手を上げるものが出た。
「この中で、今日梨を食ってない奴は」
続けての問いに今度こそ一号生達は桃にどういうことだと異口同音に問うた。桃はすいと全体を見渡す。緊張がみなぎった、桃が意味のないことを聞くはずもねぇとそれぞれに言い、それからほんの少数手を上げる。
「わかった。ありがとう」
「桃」
椅子に深く腰掛け、腕組みをしたまま伊達がついに声を上げた。桃はわかっていると頷いて、全体によく通る声でもって呼びかけた。
「俺も深くは知らない、昔聞いただけだ。雷電、」
示し合わせたように雷電が進み出た。難しい顔をしている。
「今日の天気を覚えているでござるか」
誰もが晴れ、と答えた。質問の意図を掴みかねての返事はぐらついている。雷電は頷いてつけたした。
「随分立派なうろこ雲が出ていたようであった」
「それがどうしたんじゃ」
虎丸が一人威勢のいい声を出した。重く沈みかけていた空気が明るくはじけて、あたたかさを取り戻していく。
桃自身もほっとしたように肩から力を抜いたのを伊達は一瞬だが見た。
「うろこ雲…古来うろこ雲とは、こう書く」
雷電は食堂の片隅にあった本来メニューを書いておくための小さな黒板を手にして、白墨でがりがりと書きつけた。
書き終えて皆へと向けた黒板には、『虚呼』とある。桃が後をついだ。
「ウロ、つまり虚ろを呼ぶ雲だということだ。お前らの心の中の虚ろが今日の無気力の原因だぜ」
皆、信じられぬと言いたげに驚きの声を上げ、自らの胸を探ってみる。思い当たるものが見つかって、ううと唸って沈黙した。
それぞれに抱える虚ろを見せ付けられるようで気分が悪くなった。
「夜になって気が晴れたのはうろこ雲が去ったのだ。それと…」
雷電は懐から何かをつかみ出した。梨である。
「梨、魔よけにも使われる。梨、つまり『何も無し』という意味で本来は悪鬼の類を退ける効果があるので、梨を食った物のうろこ雲は晴れたということえござる」
「それで桃、さっきわしらに聞いたんか」
松尾が立ち上がった。何だ、と塾生の目が集まる。田沢が頭を掻いた。
「実は梨が届いてたのはあん時よりちょっと前でな、ワシらちょっとつまみ食いを…」
「それでテメェらだけ元気だったって訳か!」
一人納得のいっていない虎丸は盛り上がる友人たちの勢いに乗り遅れ、寂しげにのうと伊達の袖を引いた。振り払いはしないものの伊達はうるせぇな何だといつもの調子で聞き返す。
「まだ梨、俺ゃあ食ってねーけどよう。俺なーんもなってないみたいなんじゃが」
「テメェは生来空っぽなんだろう。梨の必要も無ぇんだろうぜ」
ひでぇ、虎丸は呟いたが伊達は不機嫌そうに離すことは終わったと口を結ぶ。虎丸が空っぽだなんてとんでもない話だと自分で笑った、満ち満ちていて虚ろの入り込む隙間がなかったに違いない。それともまさか本当に底抜けだったのかもしれぬ、伊達はやはり侮れない奴だと虎丸を横目で睨んだ。虎丸はへにゃへにゃと笑っている。
「三号生や二号生の先輩方にも声をかけた。梨はまだあるから明日からうろこ雲みて少しでも気分が暗くなったら食べろ、以上!」
一号生筆頭、剣桃太郎の号令に集った塾生達はオス!と大声で答えた。
さり、
さり、
さり、
「梨、風があるとならなし――梨」
いい声だった。桃の声であることは富樫にもわかっている。いい声だった。
富樫は目の前で白く現れていく果物の肌をぼんやりと見ていた。
微かに甘い香りが届く。
梨だ。富樫は梨を避けていた。
原因ははっきりしている、兄が男塾に入塾してからというものこまごまとした近況を知らせる手紙が絶えずに届いていた。寂しがらせぬようにとの兄の気遣い、富樫はなにより手紙を楽しみにしていた。が、ある時ふっつりとそれが絶えた。
兄からの手紙を毎日待ち、待ちに待ち、一人きりの家で富樫は待った。
おすそ分けに、と梨をもって上がりこんだ隣の家の中年女はその梨を剥いてやりながら言った。
『こりゃあ梨のつぶてやねぇ』
女は兄が入塾する前にくれぐれも弟を頼むと言ってあったので、心配になってなにかと世話を焼いてくれていたいわば富樫の恩人でもあったのだが、どうしてもガマンがならなかった。その梨を投げたのを今でも覚えている。窓から投げ、コンクリの壁にぶつかって崩れた果肉、溢れた果汁。
そのうち蟻がたかって、富樫の目の前から消えて行った。
それきり富樫は、梨を口にしていない。
さり、
さり、
さり、
「中白、なかしろ、なしろ、なし、」
小刀でよくもこれだけ器用に剥けるもんだ――富樫はぼうとなりながらもそう思った。
桃は窓際、ちょうど富樫の正面、月明かりを頼りに桃は梨を向いている。
夕暮れを過ぎて夜も更けた、これで丸一日富樫は飯を腹に入れていない計算になるが不思議と空腹は感じない。
ただ虚ろである。
さり、
さり、
さくり、
さく、
「梨、無しを忌めば有り、有りの実とも言う」
桃の声からあまやかさがするりと抜けて、せつせつと艶を消して伸びた。
切り分けられていく度に白い肌が月のひかりに照って、細かく表面に浮いた果汁がきらきらとひかる。
桃の指が濡れた。果汁が一滴桃の指を滑って手首まで落ちていく、学ランの袖口に消えた。
小刀が置かれた、実には一片も皮がついておらずにただ黄色がかった白い果実のみ。
富樫はむしょうに喉の渇きを覚えた。
梨に注いだ視線を上げれば、桃の顔があった。今の今まで気付かなかったが頬の産毛まで見えそうな月夜であった。
富樫は渇きひび割れた唇を薄く開いた。
桃が笑う。
「子を成し、事を成し、成し遂げ、果て無し」
なんの呪文だよそりゃあ、富樫は突っ張る頬に笑みらしきものをどうにか作った。
桃の指先が濡れている。
果汁である。
一つの梨を八つに切り分けたそのうちの一つを摘み上げている。
濡れた指が、富樫の唇に梨を押し付けてくる。
富樫の唇の皮が水気を吸った。
唇を開く。唇と唇の皮同士がくっついてしまっていたのを引き剥がすようにして開く。
梨が押し込まれた。
甘い、そのものが甘いわけではなく果汁が甘い、たちまちに飲み込んだ。
飲み込んでしまえば後口は水となんら変わりないように思える。
瞬き。
「オイ」
「ああ」
桃は間髪入れずにもう一つ梨を富樫の口先へ差し出した。
さく、
さく、
さく、
軽い噛み応え、カリリと時折歯にぶつかる果肉。
いくらでも食べられそうに富樫には思える。
「オイ」
「ああ」
やり取りを何度か繰り返した時には、桃が剥いた三つもの梨は富樫の腹に収まってしまっていた。
感じてはいなくともやはり空腹ではあったのだった、富樫は物欲しげに桃を見る。
桃は自分の指先についた果汁をねぶっていた。富樫の視線に気付いて、にやりと笑いを深める。
「指まで欲しいか、……吸うかよ?」
富樫は赤面し、ようやくいつもの声で、
「いらねぇや、オウ、俺ゃ腹減ったぜ何かねぇのか桃ヨウ――」
そう、言った。
梨は無し、けれども有る、ここに有る、有るのみ。
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