波
桃は波のような男だと、口には上らせずに胸に留めおく。口にするにはあまりに恥ずかしい、富樫はいつもの苦い顔で11月の海を見ている。
冬の海っぺりには人気がない、先ほど犬を連れた老婆が通り過ぎて行ってからは誰にも会っていない。
広い砂浜、白く曇った空、灰色の海。
富樫は砂浜をぼさぼさと歩いている。昨日降った雨で砂浜は濡れ、海上はるかに霧が出ているのが白く見えた。
「桃」
富樫は桃を呼ぶ。桃も隣をさくさくと濡れた砂の上を歩いていた。
昨日の雨と立ち込める朝霧で、二人の学ランは水気を吸って重たくなっている。
桃は富樫のすぐ傍にあり、富樫もまた桃のすぐ傍にあった。歩くたびに自然と振った手同士が触れる距離である。
「どうした富樫」
「…今日はその、冷えンな」
「…そうだな」
そうだな、桃は微笑む。先ほどから続く沈黙に耐えかねていた富樫の胸のうちをわかっているかのような微笑み方に、富樫は続く言葉を失う。
達成すべき目標はあるのだが、アテはない。桃はそのまま微笑みを静かに消した。
桃、富樫、二人は食糧難が予想される冬場のために備蓄する食材を探すよう言いつけられ海に来ている。
早朝四時の海、二人はさくさくと歩いている。
海で何をどうすればいいのか富樫は考えていなかった。おのおの食材を確保せいと言われ、それなら桃俺らは海に行こうぜと誘ったのは富樫自身だというのに何も考えを持っていない。
だから二人で目的もなく歩いている。
波だけが寄せては返す。
「寒いな」
桃が口を開く。富樫はおうと返す。桃も少しはこの沈黙を気詰まりに感じていたのだろうか、富樫は勘ぐるも答えは出ない。
「浜じゃ魚も取れないだろうし、波打ち際で海藻でも拾うか」
「そうすっか」
異論は富樫にはない。重たくなっていた学ランの裾をぐるりと折り返し、袖まくりをする。その場に靴を脱ぎ捨てた。
が、靴紐が意外にもきつく足を振るっただけでは脱げてはくれぬ。普段生きるか死ぬかの大立ち回りをするのに靴が脱げぬようにきつく紐を硬い結びにしていたのがアダとなった。
仕方なく座り込んで靴紐に指をかける。硬結びの結び目は小さく凝り固まっていて、寒さにかじかんだ指ではとても弛められない。気短な富樫はウウウと苛立ち、いっそドスで切ってしまおうかと思うのだったがぶつぶつ文句を言いながら解く。
解けぬ。
解けぬ。
弛む、わずか弛む。
弛んだそこに短く、気づかぬうちに砂粒の入り込んでいた爪を捻じ込む。
解けた。
靴を脱ぎ捨てる。靴の中で蒸れていた素足を濡れた砂浜に下ろすとひんやりと冷えていて心地よい。ぐむ、と力を入れると砂が沈んでくぼんだ。
おっ、富樫は砂浜に出来上がった自分の足跡に声を上げる。
大きな足跡だった。土踏まずの浅い偏平足で、バカの大足と言われるのにふさわしい足跡だった。
「桃」
顔を上げ、桃を呼ぶ。
乳色のもやがけぶる砂浜、つい今の今まで自分の傍ら、それこそ手が触れるほど傍にいたと思っていたのに桃はいない。
見渡す。
砂浜に桃の姿はない。
見渡す。今度は海を見渡す。
遠浅の海、つらつら続く浅瀬を砂浜からはるか、そこに桃が立っていた。
桃かどうか不安になるほど遠くにいる。シルエットも豆で本当にそれが桃なのか富樫は判別がつかぬ。
「桃」
遠くにいる桃に届きはしない呟きで呼ぶ。振り向いた気がした。
これから走っていくうちに向こうが遠ざかったら追いつける気がしない。弱気にかられた。
「桃!!」
大声で怒鳴る。桃だろ、確かめるように口の周りに手のひらでメガホンを作って怒鳴る。
「富樫!」
人影はやはり桃だった。富樫はほっとしたように頬の力を緩め、応援団のように腹の底から声を出した。
「桃おめぇそんな遠くまで行ってどうすんじゃ!!」
その問いかけに対するものは答えにならぬものだった。快活な桃の声が早朝の海に砂浜に広く響き渡る。
「お前も来い!」
何でだ、そう考えるのならば富樫は富樫と名乗っておらぬ。桃が俺を呼んだ、そんなら行くっきゃねぇじゃねぇかと富樫は土に大きく足跡をつけて駆け出した。
靄が晴れ、雲が透ける。
隙間から白い陽光が細く落ちてきてスポットライトのように光りの点を砂浜に作る。
桃はその中のひとつにすっくと立って、浅瀬の砂を海水ごと跳ね上げて学ランにボンタンに泥ハネをつけながらかけつけてくる富樫を待つ。腕を少しだけ開いて待つ。
富樫には桃が待ち構えているように見えた。光りの中自分を待つ桃に向けて一歩でも早くたどり着けるように走る。光が桃の輪郭を白く描き出して、桃の体にぶつかっていない光りは浅瀬の海水にこぼれてまぶしいほど。
声をかけるのをためらうほど、桃は遠くきれいだった。神々しいという言葉を富樫はおそらく初めて使う。
「……はッ、な、なんじゃい桃…」
富樫もおそるおそる光りの円に入った。足を踏み入れたとたん円の中の海水が自分を拒絶するように煮え立つような気がするほどだったが、当たり前の海水のまま。冷たい風が小さな波を立てていく。
「海老の子供さ」
「海老ィ?」
桃は浅瀬に素足で立っている、その足元を指差した。富樫は腰を折り曲げて薄く水の張った砂に目を凝らした。
ぴんぴんと何か、砂とさして色の変わらぬ何かがはねた。
「おっ?」
「あそこに海老の養殖場がある、おそらくそこから網の目を潜り抜けて来たんだろうな」
桃の視線の先には確かに赤茶けたネットがはるか遠方に見える。そこが養殖場であろう。小さな小指ほどの海老がぴんぴんと半ば透き通った体を躍らせている。
そのうち一匹を桃が身をかがめ、海水と砂ごと器用に掬い取った。富樫によく見えるように手の平の器を傾けてやると富樫はへぇえこりゃ小さくたって立派に海老だなとおかしな感心のしかたをしたので桃はなんだそりゃと笑った。
「だけどよ桃、さすがにこんなに小さくちゃ食いでがねぇや。それに…」
それに、その先を言うのを富樫はためらう。自分のようなキャラが言うにはあんまり軟弱すぎるのだ。
「ガキ食うのは確かに気がすすまないな」
桃がそう言ってくれたので、おめぇは動物にゃ優しいのうと鼻をぴくぴくさせながらからかうことが出来た。
桃が長い足を跳ね上げると足元の海水が狙い定めたように富樫に向かって飛ぶ。学ランにびしゃりとかかって富樫、何さらすんじゃと自分はかがんで水をすくい、泥ごとかまわず桃へ投げつける。
やったな、
悪いか、
そら、
てめぇ、
いい年してガキのようにはしゃぎ、二人を囲う光りの円がすっかり広がるまで気づかずに水や泥を掛け合いながら歓声を上げた。
海老達がせっかく逃げ出してきたってのにこんなのアリかよと急ぎ避難してゆく。
昆布にワカメのきれっぱし、それから赤いの青いの緑の、名前の知らない海藻をたくさん拾った。
当然ながら砂まみれである。ビニル袋に詰め込むとはいっても、このままというわけにはいかぬだろう。
桃の提案に従い、波打ち際でじゃぶじゃぶと適当ではあるが海藻を海水で洗う。二人波打ち際に腰をかがめ、海藻を海水にさらした。
波打ち際に立つと、一波寄せては引くごとに足の下の砂を持っていかれる心地を味わうことになる。富樫はなんどかよろりよろりと傾いだ。
桃はそんな様子を笑い、不意に指先を波の隙間に浸した。
濡れた指先が拾い上げたのはいびつな丸の、曇り緑の石のようなもの。
「値打ちモンか?」
浅はかに富樫が言うと、桃は肩をすくめてさらしていたワカメを一房ぐるぐると手繰り寄せて丸めた。滴る海水を片手でぎゅっと絞る。
「ビーチグラスさ。……そうがっついた目で見るな、ただの割れたガラスだ」
「なんでぇ」
らしい返答、桃は眉尻を下げて説明を始める。
「瓶か何か割れるだろう、そのかけらを波がさらう。石や砂に磨かれて丸くなり、こうすりガラスみたいになるのさ」
ほぉん、値打ち物でないと知ったとたんのこの気の無さ。富樫もひとつ、今度はコーラ色をしたビーチグラスを手にする。
濡れて艶を帯びるそれはきれいだ。
値打ちはなくてもきれいだ。
「ま、ただの破片のままじゃ踏みつけてケガすることもあるだろう。丸くなって悪いことはないさ」
そのとおりだ。
富樫はそのコーラ色のガラスのかけらを太陽にすかした。
俺か。
唐突に富樫は思い当たる。割れて砕けたハンパ者、大声暴力トゲトゲ傷つけ、誰からも嫌われ顧みられることもなし。
それが波にひょいとさらわれて、時間をかけてトゲをすり減らされてこう丸くやわらかくなるのか。
俺にとっての波は何だ。
「波は桃だ」
「うん?」
なんでもねぇやと話を打ち切る。詩的は富樫には似合わなすぎて、自分でも照れてしまって自分をぶん殴りたくなってしまう。
波は桃だ。
自分のすぐ足元の砂を根こそぎ持っていって、俺を転ばせようとするほど近づいてもぐりこんでくる波だ。
だというのに、ふっと気を手放したと思えばはるか遠くで潮騒を鳴らしている。
近寄りがたい時もある。
自分なんぞ到底及ばない遠くで激情に渦を巻いていることがあるかもしれない。
把握するにはいくらなんでも相手が大きいのだ。
それを不安に思うことはないのだ。自分に接する桃が桃だ。全てを知ったが何が偉いものか。自分だって、どうして砕けてトガっているのか桃に話すつもりもない。桃だって自分の全てを知って富樫をさらっているわけでもないだろう。さらったことすらわかっていないかもしれぬ。
さらって、自分をよくよくすり減らす男だ。
桃よう。俺もちったぁ、丸くなったかよ。いやいや、俺はまだまだトガってるぜ。あめぇよ、ヘッヘヘ。
波が上で、ガラスが下っちゅうこともあるめぇ。波を切り裂くガラスだってあんじゃねぇか。どうなるってんだ、たかがガラスがどこまで行けるか。
富樫は昆布をぐるぐると折りたたむ。コーラ色のビーチグラスを学ランのポケットに入れた。
笑っている富樫に桃は不思議そうにたずねた。
「何だ、何かおかしいか?」
富樫は珍しくわかりにくいものの言い方をした。
「いんや、とりあえず波にさらわれてんのも悪くねぇや」
桃は首を傾げて、変な奴だなと苦笑した。
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