敵前逃亡は死刑

富樫はのたのた背中を丸めて校庭を歩いていた。
昨日は酷く雨が降っていたので足元がぬかるむ。ボンタンの太腿の辺りを引っ張り上げて、裾が汚れぬように歩いていた。
しぶとい小雨がちらちら降ってきた、富樫は足を速めて校舎へ入った。
夕暮れも近い。
「よう田沢に松尾、降ってきやがったぜ。外出るんならやめとけや」
松尾と田沢はなんだかいつもより笑顔で、富樫もついつい笑顔になる。田沢はにかりと、松尾はへらり。
二人がそろって富樫に向かって手を出した。
「あん?」
「これ俺達からじゃ、やるよ」
やるよ、と言われてみれば冷えてはいないもののビールの缶が二つ。
「おい」
「いいんじゃ、気にすんなよ」
気にすんなと言われたって、男塾で言えば貴重で貴重な酒を2缶も、それも酒好きの松尾がくれるというのがありえなくて富樫はぎょっとした。
「気にすんなってお前よう」
田沢が気に入りの知的ポーズをした。知的ポーズそれは、人差し指を顔の前でチッチと振るポーズ。
「今日は特別なんだって。いいからお前はそれを冷蔵庫なりなんなりでキンキンに冷やしておけよ」
何がなんだかわからなかったが、富樫はただおうと圧されて頷き、言われた通りにビールを冷やした。
「な、なんだってんだよぉ」



「富樫」
ビールを冷やして、冷蔵庫の前で呆けている富樫を呼んだのは三号生のセンクウだった。センクウ、つい最近まで苦い苦い名前だったが今は少し違う。
「センクウ…先輩」
一応先輩をつけて呼ぶと、センクウは目元に笑みらしきものをにおわせた。兄のいかつさとは似ても似つかないというのに富樫は少し懐かしさを嗅ぐ。
「お前に渡すものがある。時間はあるか」
富樫はちょっと頷くと、センクウの元へ小走りで駆け寄った。センクウは富樫が着いてきたのを確認すると歩き出す。このあたり、まだわだかまりが完全にとけていないともいえるし、または単に慎重な性格だとも言える。少なくとも虎丸ならさっさと走り出して富樫おそいぞと怒鳴る。飛燕ならぷんぷん怒りながら手を引く。
富樫が着いていった先はセンクウの温室だった。
分け入るように入って行ったセンクウについて富樫も小さな密林へ入り込む。
むっとするほど蒸し暑い。
日本じゃないみたいだ、富樫は学帽を外すと首筋へ風を送り込んだ。
「ここだ」
特徴的なヘアスタイルが木立の間に見え隠れしている。富樫は声の元へ急ごうとしたが、足元にも草が生えていたのでそっとそっと踏み潰さないように歩
くので時間を食った。
「なんだ、これ」
センクウが手にしていたのは枯れた花をつけた一束の枝だった。枝についた花は萎れ枯れ、ひょろひょろと細長い花弁は黄茶色に水分を失っている。
キレイだからやろう、という花には到底見えない。ただでさえ富樫に花の心得はないのだ。
「イランイランと言う」
変な名前だ、富樫は噴出しかけてガマンする。先輩がせっかく下さろうってもんだ、噴出すなんてとんでもねぇや。
富樫はその枝を束で受け取る。なんとも言えない匂いが花から上ってきた。
くらくらするような、いい匂いというか刺激的な匂いだ。
うっとりと胸いっぱいに香りを吸い込んでみると甘い匂いが肺に満ちる。
「おい」
富樫ははっとした。恥ずかしさに耳を赤くして返事をする。一瞬女に抱かれているようだと思ったのは言えない。
「いい香りだろう」
「ふぁ、あ、ああ。そうだな」
センクウはくすりと笑った、白い手を伸ばして富樫の前髪を跳ねる。赤くなっていた額に触れた。
「あんまり直接に嗅ぐな、酔うぞ」
「すげぇ、ぼうっとしかけたぜ。この花をどうするんだ?」
「千切ってベッドに撒いておけ。今からだ」
今からァ?大声を出してシャックリ一つ。もろに花の香りを吸い込んでしまった。
「ほら、あんまり吸うなと言ったろう。害は無いがクセになる」
センクウの指が富樫の鼻を摘んだ。顔には兄と同じ笑み。甘えたくなる顔をしていた。
だが富樫はもう大人とまではいかないにしても男だ。甘えは禁物だ。
「オッス、それじゃあこの花、ベッドに撒かせてもらいます!」
一礼して、どったどったと照れ隠しに走り出した。






富樫はイランイランを抱えて部屋に戻った。あんまり急いで走ったのでまた香りを深く嗅いでしまって酷く苦しいくらいに頭がぐらぐらした。
簡単に言えば、催しかけたのに近い感覚で富樫は顔を赤くして部屋に戻る。
「おーっ、遅かったな」
「遅い、どこほっつき歩いてやがった」
出迎えたのは虎丸、伊達。おなじみになった凸凹コンビである。最近虎丸が俺とつるまなくなったと思ったら伊達とつるんでいるのを良く見るようになった。そうかよ、伊達ねぇ。あの野郎も結構面倒見のいいとこあるからな。
迎えたのはそれだけじゃない。
ぴっかぴっかに磨き上げられた富樫と桃の二人部屋。床だけじゃない、天井のススやホコリも払われて窓のさんまでキレイにされている。
「すげぇ…」
あんぐりと口を開けてきれいになった自分の部屋を見渡す富樫の腕から、虎丸はイランイランの束を奪った。細くて葉っぱと見まごうばかりの花を毟ってはベッドに放り込む。伊達は虎丸から枝を貰うと同じようにして花をばら撒いた。
枝は小さく折ると、ベッドの下に纏めて突っ込む。
濃厚な花の香りが部屋に漂い始める。
富樫は鼻を摘んだ。
猫にマタタビ以上の効果だ、虎丸などは既に眼をとろんとさせている。
「お前らセンクウ、先輩から何か聞いてんのか?」
「まあな」
「掃除してくれたのもお前らかよ」
「そうだ」
「何でだ?」
「諸事情だ」
伊達の返事は短い。息を吸い込まないように気をつけているのは富樫には分からなかった。対照的に虎丸はへにゃへにゃとだらしなくキレイになった床にへたり込んだ。伊達は花をばら撒き終えるとへたれた虎丸を拾って肩に担ぎ上げると部屋を出て行った。辛そうに前かがみ気味だったのを富樫は不思議そうに見送った。
富樫はこのまま
富樫がイランイランの香りに包まれるヒマもなく呼びつけられたのはすぐのことだ。


呼びつけたのは飛燕だった。
怒っている。
ものすごく怒っている。
顔はいつもと変わらないにこやかさだというのに気配は冬の冷たさよりも肌を刺す。
「ひ、飛燕」
「富樫、来い」
飛燕は富樫の手を掴むと引き摺るようにして歩き出した。富樫は自分よりも背の低い飛燕に引っ張られて足元をもつれさせながらついていく。
連れて行かれた先は風呂場だった。
誰もまだ入っていないだろう夕方、湯すら張られていない時刻なのに何故だか湯殿からはもうもうと蒸気がもれてきている。
「ふ、風呂?」
「風呂だ。さぁ脱げ、脱がされたくないなら脱ぐがいい」
尊大にして非情。
いつもの笑顔の飛燕ではない。富樫は何だって俺は飛燕にこんなににらまれなければならんのじゃとシブシブ服を脱いだ。その服はすぐに回収され、廊下で待っていたJと雷電に手渡された。服全て、つまりフンドシも含めてである。
「おい!」
「いいから、さっさと湯に入れ。その汚いものを見せるな」
「ケッ、見るな、減る」
「減るものか、さあ風呂に入れ富樫」
飛燕の口調は出会った頃のようにとげとげしい、そして飛燕自身は服を着たままついてくる。
「てめえも入るんじゃねぇのか?」
「私は後。さ、ここに座れ」
富樫の足元に木で出来た風呂用の椅子を蹴って転がした。言われるがままに座る。
飛燕は桶にアツアツの湯をくみ上げると、遠慮なく富樫の頭上でもって返した。頭から湯をかぶって富樫は飛び上がる。飛び上がるほど熱かった。
「あっぢゃあああああッ!」
「うるさいッ、今日が今日出なければ、私だって!」
わけのわからないことを叫びながら、飛燕は小さなボトルを取り出して手の平に液体を開けた。
花の香りのするそれはシャンプーだ。飛燕の細い指先が富樫の濡れ髪に滑り込む。地肌を揉みこむようにして二三回空気を混ぜながら指を動かすと茶色に汚れた泡が湧いた。
「汚い…」
飛燕の呆れたような顔にも汗が薄く浮いた。蒸気かもしれないがそれを確かめることは富樫には出来ない。飛燕は一度手を富樫の髪の毛から手を外すとくみ置きの湯を富樫の頭へ向かってぶちまけた。
泡が流れ去る。そこへもって再びシャンプーを足して飛燕は絡み合う髪の毛と組み合う。
三度流して、ようやく飛燕の指が富樫の髪の毛を上から下まで通るようになった。
飛燕は今度は聞くまでもない汗を額にかいている。疲弊していた。
「影慶先輩、お願いします」
飛燕が呼んだのは影慶だった。いつのまにか手にハサミを持った影慶が湯殿に入ってきている。いつも通り腕には包帯をしていたが、今日はさらにそこへゴムの手袋をしていた。
刃物を持った影慶の登場に立ち上がりうろたえる富樫の肩を飛燕は手の平で押しとどめる。椅子に座らされた富樫の頭には平櫛がするりと入れられた。
「伸びているな」
「ええ、汚れでもつれていたのでわかりにくかったのですが」
「随分切ることになるな。ああ、ここはコゲている」
「さっぱりさせてもいいでしょう」
飛燕と影慶は富樫の髪の毛を覗き、摘み、感触を確かめながら調べていたが。
はらり、一房威勢よく富樫の頭から切り落とされた髪の毛が落ちて行った。
「オィ―――」
さすがに反論をしようと口を開いた富樫をまたも飛燕はシッと口に指を当てる仕草で封じた。
しゃん、
しゃん、
しゃん、
ハサミはリズムよく富樫の髪の毛を揃えていく。一鳴りごとに頭が軽くなるようだ。
もういいぞと言われて髪の毛を湯で流し、鏡を覗き込んだそこには大層清潔感の増した富樫がいた。ちょっと崩れてはいるが、二枚目だと主張しても許されるような出来栄えだった。
「うお、こりゃ…」
「少しは見れるだろう」
「ご協力感謝します影慶先輩…さて」

さて、飛燕は手にアカスリを装着、富樫の背中をカンナでもって削るようにして擦り始めた。盛大に悲鳴が上がる。
「い、ででででえええええッ、ひ、飛燕テメェッ」
「なんだこれは、こんなに垢を溜め込んで…不潔だな」
飛燕はごしごしと富樫の背中から首筋にかけてを擦る。黒い垢だけでなく、剥けた皮膚も混じっているがおかまいなしである。
湯殿には飛燕と富樫だけ。
背中のアカスリを終えると、飛燕はタオルを湯で濡らして石鹸を泡立て始めた。それも富樫たちがいつも使うチーズみたいな安物石鹸ではない、本物の泡のぶくぶくと立つ、いい香りのする牛乳石鹸だった。
目の前でもこもこと膨れる泡に富樫は眼を奪われた。

「体を洗え。隅々まで……それとも私が洗おうか」
どうする?聞かれるまでもなかった。タオルを貰い、隅々まで洗う。時々飛燕にきちんと洗えと千本より鋭い突っ込みを入れられながら富樫はすみずみまで、生まれてきた時とおんなじくらいにまでキレイになった。






さんざん皮を剥かれ泡立てられて富樫が湯殿から生還すると、待ち構えていたのは雷電とJだった。
二人抜群のコンビネーションで富樫を清潔なタオル、手ぬぐいではなくタオルで拭いていく。
「なぁJ」
「なんだ」
「今日はなんなんだよオメェといい飛燕といい、皆が皆おかしいぜ」
「富樫、今日だけでござるよ」
「雷電」
茶目っけのあるんだかないんだかわからないナマズ髭がぴょんと弾んだ。二人ともからかっている目ではなさそうなのが余計に不安を掻き立てる。
「俺の学ランどこだよ」
「もうすぐだ」
「今持ってくるところでござる」

「待たせたな」
やってきたのは月光だった。手にしているのは真っ白な布の塊。
「おお、さすが月光…速い」
「どういうことだ雷電」
Jが尋ねる。口元をすぼめるようにして雷電は笑った。
「これぞ千人針…一秒一メートルの運針よ」
雷電はその布の塊の一番上から一枚取り上げた。フンドシである。断ち切っただけのフンドシではない、きちんと端の処理もしてあった。恐ろしく縫い目が細かい。
とにかく股間を隠すもの、富樫は奪うようにフンドシをひったくると慌てて身に着けた。サラシもぐるぐると巻く。Jがもっときつく巻いたほうがいいとアドバイスをくれたので言われるがままそうした。
学ランの代わりに出てきたのは、これまた真っ白な寝巻きだった。
綿は綿でも帆布のようにガサガサの荒れた布地ではない、さらさらと細かい地の上等な布である。それを贅沢にゆったりとした寝巻きにしたててあった。
これも月光の手によるものである。とても盲目の人間が作ったものには見えぬ。
「こりゃあ何だ?」
「寝巻きだ」
「見ればわかるって。だからよ、今日って俺に何かあんのか?やたら誰もが良くしてくれっけど」
「お前じゃない」
月光の代わりに答えたJの言葉に富樫はますます混乱した。
松尾たちの前から、朝から親切され通しで最初は嬉しかったがここまでされると気味が悪くなってくる。
雷電月光飛燕、三面拳はさあさあ行け行けと納得のできないままの富樫を急かして部屋に戻るように押した。
富樫はわけのわからないまま、Jと部屋に戻ることにした。





「富樫」
Jが富樫を呼ぶ。
とっぷりと日がくれてい、夜になっていた。ほそほそと落ちていた雨も上がって、すっかり秋らしい夜空が窓の外に広がっている。雨が大気のちりをすっかり洗ったのかどこまでも光が広く広がりそうに澄んでいる。
名月と呼ぶにふさわしい、欠けたるところのない望月が顔を出して風情のある秋の夜となっていた。虫もその気をだしてリィリィと浮かれて鳴いている。
「なんじゃJ」
うそのつけないおとこ、正直すぎて損をする男。富樫はその男の背中を叩いた。なんだハッキリしねぇかよ、そう言ってやると酷くこまったように眉を寄せた。小さい声で呟く。
「今日は、桃の誕生日だと聞く…」
部屋の前で立ち止まった。富樫、青くなる。
忘れていた。
知らなかったよりも尚悪い、すっかり忘れ去ってしまっていた。
何も用意してはいない。何一つ準備もしていない。
と、ひらめいた。
「J、悪いがちょっと待っててくれや!」
富樫はすぐ側の調理場に走った。飛び込んで冷蔵庫を開ける。ちょうどいい具合に冷えたビールを二缶。
助かったぜ田沢、松尾、これで桃に許してもらうとしようや。
話しを遮ってしまったJの元へと焦って富樫は戻った。富樫の手にビールがあるのを見つけて、Jはほっとしたようにいからせていた肩を下ろす。
「富樫、桃はもう中にいるぜ」
「そ、そうか、そんじゃあこれで今日はゴマかされてくれるといいがよ」
「――富樫」
Jがまた呼んだ。
富樫はなんだと言いたげにJを見る。
口の重いこの親友、言い出せたのはたったのこれっぱかりだった。
「敵前逃亡は死刑だ―――」

なんのこっちゃ。
富樫は首を一つ傾げ、桃ォいるかよと部屋に乗り込む。









月を背負うのが似合う男だ。きれいになってはいるとはいってもいつもの部屋が、まるで舞台のようだと珍しく富樫は心の底からきれいだと思った。
桃。
静かな笑みを浮かべた桃は窓際に座っている。その手にはセンクウからもらったあの枯れた花。眼を伏せて花の香りを嗅いでいるその動作がにおい立つほどに色気がある。
部屋中にあの花の香りが満ち満ちている。富樫は頭の芯がぼうっととろけるのを感じた。

「桃、誕生日おめでとうな」
そういうと、桃は顔を上げて富樫のもとへと歩み寄ってきた。足音すらさせない。
富樫の手首を掴む。ぎゃっと声を上げたいくらいに迫力があって富樫はにわかに桃をおそれた。
微笑みは絶えていない、深まってすらいる。
が、桃をおそれた。
「富樫、今日はずいぶんさっぱりしてるな」
「ああ、なんだかしらんが皆が色々してくれたんじゃ」
「うん。良かったな」
「……まあな」
それより、このいつの間にか抱き込もうとしている体勢に富樫は異議を唱えたかった。が、桃の睫が震えるようにして瞬きをするのを見るとどうにも口が開けない。
「イランイランの効用って知ってるか?」
「し、知らねぇよ」
桃の顔が迫っている。意識しているしていないともかくにせよ息がかかるほどの距離にまで迫っている。
「インドネシアでは、新婚初夜の寝所にばら撒くほど効果があって―――まあいいか、誕生日祝ってくれてありがとう」

「う、うおおおおおおおおおおおお!!!!?」
ごとん、とビールの缶が床に落ちた。








響き渡る絶叫。
Jは十字を切った。

「幸せな富樫が居れば、俺は何にもいりはしねぇよ」
今日の朝のことだ。
そんな欲があるんだかないんだかわからない筆頭殿の言葉を塾生一丸となってかなえてやった。
だが俺はこれでよかったんだろうか。富樫、俺は何か間違えたのか。
Jはもう一度十字を切った。

モクジ
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