新宿道行き騒乱
すっくと薄緑の伸びた茎の先に、小型のチューリップほどもある薄紅の花びらがついている。
そっとその一輪を手にするとその茎に生気はない。造花だ。
その造花に触れた唇を、おそらく富樫はずっと忘れない。
休みというのはいいものだ。富樫はぶらぶらと新宿を歩くことにした。金さえあれば色々遊ぶこともできるし、喉がかわけば喫茶店に入ることもできる。
が、富樫は文無しに近い程度に金がない。
十一月の下旬昼過ぎ、富樫は埼玉県民やら千葉県民達がよくするように新宿の街を目的もなく歩いていた。新宿というのは何をするのにも金のかかるところで、服を買うにも女と話すにも、つい最近には便所すら有料になった。それなら貧乏人には用はないか、といえばそうでもない。
昼間元気のないネオンの下や、太陽の下で見ればさほど美人にも見えないキャバクラ嬢、いつから転がっているかわからない男、真っ黒に膨れてがさがさ不気味にうごめくゴミ袋、ゲェゲェと笑うカラス。
ごった煮だ。
雑然としていて、詰め込まれすぎていてなにがなにやらわからない散らかった町を歩くのは富樫は嫌いではない。
生まれからして上本ではない、下品から生まれたようなものでもある。今時町を歩けば振り向かれるような長ーい学ランの裾をはためかせ、チッチと舌を鳴らしながら野良犬のように歩いている。
腹はいつもどおりに減っていた、見知らぬ角を曲がる。
(桃の野郎、どうしてっかな)
新宿まで桃と一緒に来たのだ。桃だけではない、松尾に田沢、椿山、一号生達は新宿へとわさわさくり出してきていた。六本木に昼間来たってしかたがないし、銀座なんか居場所がない、渋谷よりも近い新宿は一号生達の遊び場である。
全員金が無いのでどうしようかと駅前にたむろしていたのだが、不意に、
「お、お、こりゃあ…」
とガムだらけのアスファルトにかがみこんだ松尾が拾い上げたのは一枚の紙切れ。紙幣ではなさそうであった。
「馬券じゃ!!」
虎丸が叫んだ。それからは一号生達は盛り上がりに盛り上がって、ウインズの大画面でこの馬券がクズと成り果てるか大枚と化けるかを見に行こうということになった。ちょうど最終レースの馬券で、ゴミ箱から発掘してきたヨレヨレの競馬新聞によれば大穴狙いのようであるとさらに盛り上がりを加速させる。
どうする、富樫。たずねられた富樫は、俺ァいいやと言った。桃も俺も少し行きたいところがあるんでなと言った。
別に目的があったわけでもないが、競馬ははるかなたの父親を思い出すのでやめた。とっくに鬼籍の人だが、競馬を兄が激しく嫌っていたことを覚えている。桃とは交差点でじゃあなと分かれた。
(さぁて、と。あーあ、金ァねぇし女もいねぇ、なぁにすっかよ)
木の一本もあるわけではないのに、枯れた感じの風が吹いている。学ランの襟をかきあわせ、ボタンをしっかりと留めて首筋に風が入らないようにしたがもともと裏地がついているわけではない学ランの守りは薄く、富樫の身体はゆっくりと冷えた。
角をみっつかよっつ曲がると、すっかり華やぎも賑わいもなくなった裏通りに迷い込む。一皮剥けばなんだって中身を見せるものであるが、新宿という町はその皮がひどく薄い。
誰かの吐いたゲロの臭さが鼻にツンと来て、富樫はむっと鼻面にシワを作る。路地裏のどん詰まりに膝をついて吐いている人影。そして、その人影のそばに立つ男達三人。この臭いの原因は間違いなくあれで、しかも吐いたのはついさっきのことのようだ。伊達に富樫はケンカ番長を張っていない。
(ゲッ、嫌なモン見ちまった…リンチかよ)
せっかくの休日にケンカに巻き込まれるのも面倒だと回れ右をしようとして、耳は届いた声を拾った。うめき声はかすれてはいたが確実に女のものであった。
返しかけた踵を止めて立ち止まる。
「…オイ、何見てんだゴラァッ!!」
振り返る。脱色を繰り返してぼろぼろ頭の若作りが怒鳴った。隣のガタイのいいサングラスが顎をしゃくる。無言で、行け、去れと富樫を追い立てた。
残る一人は一見まじめなサラリーマン風、女の隣にしゃがみこんで何事か囁いているが慰めたり介抱しているようには到底見えない。
一見して、異様だと知れた。富樫はどうすべきか思案する。
リーマンが富樫に気づき、ヘラヘラとどうでもいい笑みを浮かべながら女を無理やりに抱き起こした。この寒いのに薄手のワンピース姿の女は背中まで届く長い黒髪を顔に張り付かせ、表情はうかがえない。が、腕や肩に痣や擦り傷が見えた。
「いやあ、彼女がいきなり倒れたので…アハハ」
アハハ、と白々しい笑い声を上げて、『これは事件じゃない』と脅しをかけてくる。普通の、一般社会に生きる人間であればこんな修羅場に巻き込まれたくはないだろうから見て見ぬフリをすると読みきった目だった。男達は女をその身体で隠して取り囲むようにして路地から出て行こうと歩き出した。わざわざ富樫のすぐ横を通り過ぎ、三人は『わかってるな』と睨みつける。
だが、相手が悪い。ひょっと路地に迷い込んできた男は富樫だった。男塾の、富樫源次である。
ハナから守る立場もなにもない、富樫は男達の声にもひるまずに女の髪の毛に隠れた顔を見据えた。乱れほつれた髪の毛の隙間から、女の目がちらりとのぞく。
声にはならなかったが、女の切れた唇がつぶやいた言葉を見逃さない。
「たすけて」
それだけで十分。
「うおおおおおおおおッ」
富樫は三人に向かって、肩から闘牛のように突っ込んでいった。背後からの突進よりも、まず身体の芯を震わすような大声に男達は一瞬身体をすくませた。その隙を見逃さず、三人の真ん中へと富樫は割り込み、女の細い腕をつかんだ。そのまま肩に担ぎ上げる。抱き上げてもよかったし、そのほうがよほど見栄えもするし主役らしい。が、富樫は米俵を持ち上げるようにして女の身体をすくいあげると肩に乗せ猛然と走り出す。
「待てゴラァッ!!」
「オラァアアてめぇ何しとんじゃァ!!」
罵声が追いかけてくる。荒々しい靴音もだ。富樫はフンムと鼻から息を噴出し、人ごみへと向かって駆け抜けた。路地から路地へ、いくつもの角を曲がり曲がりそして人であふれる大通りへ。
大通りに入り込んでしまえば男女二人だけなどいくらでも隠しようがある。たとえ一人が今時珍しい学ラン姿の男で、一人が季節はずれの薄着女だろうと。
新宿というのはある意味で森のようなものなのである。幾千もの種類の葉が降り積もった森に、富樫という木の葉はたちまち掻き消えた。
が、猟犬がたった三頭だと思った富樫は少しばかり浅はかである。
リーマンは酷薄な笑みを頬に貼り付け、ポケットから携帯電話を取り出す。
狩りが始まった。
結局万馬券になりきれなかった馬券を松尾はそれでも、記念にと持ち帰ることにした。
しかたがねぇやギャンブルだもの、そう笑いながら松尾と田沢はウインズを後にする。
「ま、松尾!田沢!!大変だ!!」
ゴムまりのように駆けてきたのは椿山、血相を変えて走ってきて荒い息をつく。そそっかしくて臆病なところがある友人ではあったが、それが冗談かどうかくらいはわかった。何かが起こったのだ、緊急の。二人は顔を見合わせると今にも倒れそうな椿山の肩を支える。
「どうしたんじゃ」
「わ、わ、わからん!けど、さっきからヤクザみたいなやつらが男塾の塾生を片っ端から殴って回ってるんだ!!」
「そりゃ、どういう…男塾を狙うってことか?」
椿山はううん、と困ったように顎をさすって首を横に振った。
「ええと、その…長ランだ!やつら、長ランの男を捜してるみたいなんだ!」
おおーい、と三人を呼ぶ声が遠くからした。秀麻呂と虎丸がウインズ横の陸橋から手を振っている。二人の声は切迫していて、椿山と同じ事を言おうとしていると見当がついた。
田沢は眼鏡をずりあげ、あたりをぐるりと見渡すと声を低くした。眼鏡の奥の瞳はすわって、頭は回り始めている。
「何かまだわからねぇが、とにかく虎丸達と合流じゃ。それから、今日新宿に来てる塾生が何人おるか思い出せる限り思い出せ」
「お、おう」
「ア、あと…」
「どうした椿山」
「さっきちょっと聞いたんだけど、誰か探してるみたいらしい」
よっしゃ、田沢は大きく頷くとウインズに集まっていた塾生達を束ねると陸橋の虎丸と秀麻呂に向けて降りてくるように腕を大きく振った。
「どうなっとんじゃ、もう既に塾生が三人もやられたっちゅうぞ」
降りてくるなり虎丸はまくしたてた。秀麻呂が言葉をつなぐ。
「あいつらむちゃくちゃだ、いきなり長ランと見たら殴りかかってきて…三人はよってたかって殴られたせいで意識もないよ」
「ひでぇ事しやがる」
「塾生を狙うって事は…何かの組織か?」
ウインズの前に集まった塾生達はてんでに予測に推理をおっぱじめる。休日とはいえ学生服姿のものが集まるにはふさわしくない場所である。黒山を道行く人たちは不審げに見やり過ぎていき、遠くから巡回中の警察官がちらちらとこちらをうかがっていた。秀麻呂は田沢の袖を引いた。
「なあ田沢、場所を変えないか?さっきからポリちゃんがこっち見てるぜ」
田沢は首を振った。
「いんや、とりあえず警察官の目があるっちゅうことはいきなりここで襲われるこたあないだろう」
松尾はなるほどのうと感心し、集まった塾生達を数える作業に戻る。松尾のもとに誰それは来ていない、誰かれはもう帰ったと情報が集まっていく。
最終的に情報をそろえると、襲撃を受けたのは全部で七人にも上った。全員特殊警棒やパイプやらでメッタ打ちに殴られ拷問まがいのことをされたそうだが、全員意識不明の上男塾へ強制送還されたために理由がわからないままである。
その七人に共通する事項を全員でもって割り出していたところに、静かに太い声が割って入った。
「わかった。狙いは富樫だ」
「J!無事じゃったか!!」
塾生達の人ごみを掻き分けて現れたのはJだった。頬の辺りに刃物によると見える切り傷を一つ、服にいくつか破れを見せていたが無事のようだった。
松尾はJの無事を確認するとほっとしたように胸をなでおろした。その松尾にJははにかんだように頬のあたりを強張らせる。
「J、無事でよかった。が、今の…狙いは富樫っちゅうのは、どういうことじゃ?」
田沢の質問に、Jは右手に握っていたものを差し出す。二つ折りの携帯電話だった。壊れている。
「さっき襲われた時に壊しちまったんだが、この画面」
液晶にはヒビが入って緑やピンクのマダラが入っていたが、画面のメールの内容は読み取れた。田沢は携帯電話を受け取り、目を凝らして読み上げる。
「なになに…『コベニ逃走、長ラン学帽目にキズのある学生狩れ』」
長ランで目にキズのある男、おまけに学帽ともなればそれは富樫以外にはいないだろう。
「コベニっちゅうのは、なんじゃろ…」
Jは肩をすくめた。こういうしぐさをすると確かに彼が外国人なのだと知れる。
夕暮れも近づいていた。まもなく五時、夜になってしまえば相手のような人種の時間だ。松尾はやきもきと手を揉んだ。
「わからん、だが…俺を襲った奴等は富樫の行方を割り出そうとしていた。ということは見つかるとタダではすまんということだ」
「なるほど…襲われたやつらは富樫の行方を知らなかったか知ってて吐かなかったかしらんが、奴等はローラーで仲間らしい長ランを襲うことにしたんじゃな」
聞いたか、秀麻呂は声を張り上げた。おおう、と集まった塾生達は応える。道行く人たちが一斉に注目した。
闇がすぐそこまでやってくる。一刻も早く探さないと。
「じゃあ、田沢。手分けして…」
言い出した虎丸を田沢は手を上げて制した。
「いんや。奴等だって相当数をそろえてるだろうし、下手に分かれたらそれこそ袋のネズミじゃ。奴等も気が急いてるんならリンチで終わる保障もねぇ」
「じゃ、じゃあどうすんじゃ」
田沢はにやりと笑った。知性の証、レンズがきらり。
「まっかせな、さい!!」
日が落ちた。大通りから路地へと、路地から大通りへと移動しながら闇にまぎれようとした富樫はすぐに状況がよくないことに気づく。自分の格好は日の下でも闇の中でも目立つのだ。が、ああいう手合い達は闇によくなじむ。向かってくる人間が奴等の仲間かどうかも判別がきかない。
「しまったな…チッ、とりあえずここに隠れとくかよ」
富樫は下ろした女の腕を引いて、一際狭い路地へと入り込んだ。路地の突き当たり、雑居ビルと雑居ビルとの隙間。ここまでずっと走らせ歩かせどおしだった女をゴミ箱の上に座らせてやった。よくよく見ればピンヒールで、よく自分についてきたものだと富樫は驚く。
「気ィつかねぇで、悪かったな」
「イエ」
女はやはり外国人、それも中国人のようである。長い髪の毛を顔から払うと夜目にも真っ青で、血の気というものがない。震える唇で、細い声を吐き出した。
「ゴメナサイ、…ワタシ」
「いいってこったよ、それよりオメェはなんだってあんな目にあわされてたんじゃ」
富樫は尋ねてから、気づいたようにゆっくりと文節を区切って言い直してやった。女の足元に座り込むとそっと靴のストラップをはずして脱がせてやる。青黒く皮が剥けて血が滲んでいた。
「ワタシ、中国からきまシタ…シャオファンのガクヒ、カセギに」
「ああ」
女は中国人特有の切れ上がった目じりから透き通った涙をこぼした。頬へ滑り降りて、顎から落ちる。
黙ったまま続きを待った。
「日本フーゾク儲かるオモて、きまシタ。最ショオハナシするダケ…言われて」
そこからはお決まりのヤクザの手口だった。ヤクザが上前をハネて、女の懐に入る金はごくわずか。それに文句を言えばビザを持っていないのだから強制送還されて犯罪者だと脅されたという。
「汚ねェ…」
女はひとしきり泣いた後で、手にずっと握っていた花を富樫へと差し出す。
すっくと薄緑の伸びた茎の先に、小型のチューリップほどもある薄紅の花びらがついている。
そっとその一輪を手にするとその茎に生気はない。造花だ。
「これが、どうしたよ?」
「コレ、中…クスリはいてマス。ワタシ知らなかった、カクセイザイデス。お客にワタスように言われテタ」
「く、クスリか?こりゃあマジに、ヤベエな…」
これはおそらく個人的な売人ではないだろう、組織による薬の密売。それも大掛かりな。
泣きじゃくる女をなだめすかしながら、額に汗を浮かべて富樫はじりじりと事の重大さを知る。
「オイ確かにこのあたりなんだろうな!」
二人は身をすくませた。ええ確かに、見たんです、そんな恐ろしいやり取りが聞こえる。女が蒼白になって震えだす。富樫は抱きしめるようにして押さえつけると口を塞いだ。
どくどくと心臓が脈打つ。来るな、来るな、来るな、富樫は祈る。
が、
「オイ!人集めろ!どうやらこのへんで間違いなさそうだぜ!!」
牙をむき出しにしたケダモノたちが集まってきている。富樫は奥歯をかみ締めて、女の肩に指を食い込ませた。
と、路地へと一人の痩せた男が転がり込むようにして突然二人の目の前に現れた。血走った目、男は富樫達を指差す。追っ手だ、判断はすばやく女をさっきのように抱き上げ、富樫は即座に男の腹へと靴先を容赦なく叩き込む。男が膝をついたところへ、顔めがけて再び蹴りを放った。鼻血が飛び散る。
が、男が、
「いたぞ、いた、いたぞぉおおおおおッ!!!」
声を上げて近くの仲間に知らせるには十分な大声であった。
雑居ビルの裏口を女が指差す。運よく開いていたドアに飛び込みカギをかける。が、正面はどうやら既に固められてしまったらしく逃げ場はない。女を抱きかかえたまま非常階段を上へ上へと駆け上がった。
十階程度の雑居ビルの屋上には給水のタンクがあるだけで、フェンスすらなかった。息づく夜景が二人を笑うようにして輝く。思わず二人は目を細めて光を絞った。
「どうするよ、どうする…」
既に下のドアは破られた。男たちが鉄製の非常階段を上がってくる音がはっきりと近づいてくる。
と、富樫にとっては懐かしい、そのほかの人間にとっては驚くべき音が響いてきた。
「日本男児の生き様はァー!!色無し、恋無し、情け有り!!!」
新宿じゅうを揺るがすような蛮声、たった何十人ばかりの男たちが歌うそれは濁った夜空へ響き渡った。
音頭を取るのはもちろん松尾だ。新宿駅前の小さな広場で陣を組み、喉を破れよと声を振り絞っている。
「ナ、ナニ、コレ…」
「塾歌じゃ」
富樫はすっくと屋上のヘリに立ち上がった。真下はまっさかさまに道路、上を見上げることを忘れた人々が進む道がある。ビルの前はそれらしい奴等でひしめき合っている。
富樫は大きく胸を膨らませて、息を吸い込んだ。ぐっと胸郭が持ち上がって、頼もしい肩が怒る。
「嗚呼男塾男意気、己の道を魁よ!!!」
富樫の声はまっすぐに伸びた。広がりはしなかったが、まっすぐに友のもとへと飛んでいく。
歌い終えたその途端、バチン、と鉄をはじくような鋭い音がして、同時に富樫の肩に熱が走った。
「グッ」
「終わりですよお二人様、行きずりの男をタラシこんで道行きはいかがでしたか…コベニ」
女が悲鳴を上げた。悲鳴は細く高く新宿の街へと降っていく。富樫は膝をつきはしなかったが、肩から吹き上げる血液を自分の右手で押さえつけた。熱い熱い血液が指の隙間からあふれて落ちていく。
撃ったのは、最初の三人のうちのあのリーマンだった。薄ら笑いはそのまま、細い目は金属質の光をもつ。非常階段からあふれるように男たちが次から次へと現れて二人を取り囲む。
「いやあお疲れ様、あなたも不幸でしたがマ、さようならです」
男の白い指が再び手にした銃の引き金にかかった。富樫は女を引き寄せる。男の唇が面白いものを見たと言いたげにたわむ。
「ほう?」
「さっき言ってたよう、シャオなんとかってのァ…イモートか」
「エ?」
「おめえが姉ゴならよ、イモートのそばにいてやらなきゃならねえ」
女は目を見開いた。
富樫はぐっと前に進み出る。死ぬ覚悟はいつだってできているが、だからといってむざむざ命を捨てる気はなかった。兄のドスをすらりと抜く。
「おや、お兄さんどこぞのスジモンでした?」
「俺ァ富樫、男塾一号生富樫源次じゃーッ!!!」
男は銃から手を離した。やれ、と後ろに控えている男たちに命じる。ここでこの富樫なる男を嬲り殺しにすれば、女は今後言うことをすんなりと聞くだろう。せっかく仕込んだ金のかからない売人を手放すつもりはない。
男たちはめいめいおぞましい、相手を痛めつけるためだけの武器を持って富樫の元へと飛び掛った。
富樫と男たちとの間に、一筋の銀色が飛び込んできた。濁っているとは言え冬月の光を乗せた一条のそれは、富樫の見慣れたダンビラであった。
ダンビラが屋上の床に突き刺さる。
一瞬の緊迫、男たちのためらい、富樫の歓喜。
第三勢力の登場。
「も」
「桃ォッ!!!」
富樫の声に応えるように、人影が隣のビルから夜空に舞うように飛び移ってくる。受身もとらず軽がるとダンビラの元、富樫達を背に男たちの前へ立ちはだかったその男。
男塾一号生筆頭、剣桃太郎その人であった。
背中で富樫の喜びの声をしっかりと受け止め、屋上に突き刺さったダンビラを引き抜く。富樫達からは桃の表情が伺えぬ、が、リーマンの表情が硬くこわばるのは見えたのでおおよそ伺えた。
「おやおや、どちら様…ですか」
「彼氏さ」
桃の返答はそっけない。
「ほほう、コベニも次から次へとやってくれますね」
男の声から余裕が消えた。富樫達を取り囲む包囲網はしかしじりじりと狭まってくる。
「残るのはお前たちだけだ。下は完全に制圧した」
言われて富樫、屋上から見下ろしてみるとそこには見知った面々が歓声を上げて桃コールをしているところだった。そばに人でできた山が積みあがっているところを見ると本当にあの短時間に制圧しきったらしい。
改めて男塾の戦闘能力の高さ、それ以上に仲間の危機にかけつける義侠心のすごさを見せ付ける結果である。
男はやれやれとため息をついて、降参ですよと笑う。
「コベニには手を出さない、中国に送り返す…それでいいでしょう」
桃はそれを聞いてダンビラの切っ先を下げる。
「ああ、それで終わりだ。貴様らの汚ねぇ商売にはこれっぱかりも興味はない」
どこまでも言葉は鋭い。桃は富樫と女を振り返った。
「富樫、まったくお前って野郎は…」
「お、お、おう…」
桃の微笑み、その後ろ。男が再び銃を構えたのを富樫は見た。
あぶねぇ、と自らの体を桃の盾にするべく飛び出す。体はひどく重たく、すべての動きはスローだ。
「アマイんだよォッ!!!」
男が金属質な叫びを上げた。間に合わねぇ、富樫は桃の前で大きく腕を広げて目を閉じる。
ひどく冷たい声が、富樫の後ろでした。
「貴様らのやりそうなことくらい、わからんとでも思ったのか」
富樫は目を開ける。体にひとつも傷はない、銃声もない。
男は屋上の床に伸びていた。そこには富樫の見知った男、虎丸が消火器片手に立っている。
下からは男塾万歳コール。富樫はそのままようやく肩を押さえて床に落ちた。
コベニ。小紅、そう名乗った女は太陽をまぶしそうに見上げる。
「シャオホン、言いマス」
「俺は、富樫。富樫源次だ。…達者でな」
コベニはそれから一週間後日本を後にした。故郷の妹の元に帰るというその日に富樫のもとへ挨拶に来たのだった。
「それがいいぜ、イモートでもオトートでも、兄ちゃんがいてやるのが一番だからよ」
富樫は学帽のひさしに手をやって、目を遠くに投げた。コベニは首をかしげてその様子を見守った。
あの病み追い詰められたおびえの色はもう頬にも目にもない、富樫はやっとコベニがたいそうな美人だということを知る。
ちぇ、もったいなかったぜ。富樫の元にあるのはあの造花が一輪のみ。
「まさかクスリ入ってやしねぇだろうな」
そういうとコベニは笑った。
「イイエ、コレ、ワタシが作りマシタ。グンズィ、ワタシの気持ちデス」
源次をグンズィとおかしな発音で呼び、一度コベニは造花に唇を触れさせた。
ありがとう。
コベニは今までの中で一番きれいな日本語でそう言って、去った。
富樫の肩にいつの間にかそばにいてやり取りを見守っていたらしい桃は手を置いて、よう色男と耳元にささやく。
そんなんじゃねぇやと富樫はぶっきらぼうに言って、それから造花だというのにその花を空いた花瓶に水を入れて一輪活けた。
すっくと薄緑の伸びた茎の先に、小型のチューリップほどもある薄紅の花びらがついている。
そっとその一輪を手にするとその茎に生気はない。造花だ。
その造花に触れた唇を、おそらく富樫はずっと忘れない。
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