マグロ

白いとは言いがたい、量だけはある雑穀飯。
おかずとして、小指のような大きさのめざし。これでもかと塩が振ってある。
味噌汁はどれだけ箸でさらってもさらっても、何も引っかからない。味噌にまじった大豆のかけらが触るのみだ。
どう見ても雑草のおひたし。塾の片隅にある畑で育て、塾生が根性で自作した大根の沢庵。
以上。塾生の朝食である。
二月も半ば、暦としては春だが、校庭はまだ雪化粧に彩られたまま。軒下には透明なつららが幾本もぶらさがって、時折雪にぼすっと音を立てて落下する。
雪白に覆われながらも桃色に咲き誇る桜はやはりどこかおかしいと言わざるをえないが、それもここ男塾においては、
「根性モンじゃのう」
の一言で片がついてしまう。Jではないが狂気を極めているのはなにも人間だけの話ではなかった。時折新種としか思えないような動物や植物が発見され、学会をにぎわせることもある。
話を戻したい。
とにかく塾生達は、常時飢えていた。つい先頃も校庭をうろついていた野良犬がふっつりと目撃されなくなるなどあまり考えたくないような出来事が起こっている。
特に肉に対しての渇望はすさまじく、塾生二人が出会えば交わす言葉といえば、
「腹へったのう」
「肉食いたいのう」
が必ず出てくる。二号生筆頭赤石が時折夕食にから揚げを食べ、焼き鳥を桜の下でほお張っているのと、卍丸と羅刹が昼飯にカツサンドをおっかなびっくり砂をかむようにして咀嚼しているのが目撃されている。わかったことと言えば赤石はから揚げにはおろしポン酢派で、カツサンドは影慶が邪鬼のために手作りしたもののおすそ分けだということだけ。
もう一つ、二号生にならなければ、鶏肉すら食べることが叶わないということである。牛肉となれば、きっと邪鬼か塾長クラスでないと許されないのであろう。
魚にしても同じようなものだ。
赤石は塩がきつく利いた鮭の皮の、ぱりぱりしたところが好きでいつも最後まで残している。男爵ディーノがいつも得意の魔術もとい奇術で大根おろしを大量に準備する日は、塩鯖が出される日である。この塩鯖も男塾の弱肉強食精神が如何なく発揮されており、あぶらの乗った腹側を賭けての争いが繰り広げられることになっていた。敗者は尾側だ。なお、邪鬼は影慶手製の粕漬けや西京漬け、大開きのほっけを食べていることが多い。塾長は気に入っているのだろう、いつもぶりやかますのカマを炙って、あぶらの滴るところを白飯とわしわしかきこむのが常となっている。

「たまには名前の通りタイでも食べタイのう!」
「見栄をはるもんじゃねぇ松尾。おめぇ鰯だって全然食ってねぇのに、タイは言い過ぎってもんだ」
「わしゃサンマでもええ、大根おろしをな、たっぷりとよう」
「いいなぁ、サンマがありゃ俺ゃ飯一升はいけるぜ」
「俺赤石センパイが食っとる塩じゃけを食いたい」
「オレも」
「いや、贅沢はこの際言わねぇ、せめて丸干しの鰯をだな」
「ちいせぇこと言うない、ここはドーンとカジキの味噌漬けと行こうぜ」
「…腹減ったのう」
「…腹減ったなぁ」
「食えもせんのにこんな話するからじゃ、あほゥ」
「うるさいわい、乗ってきたのが悪いんじゃろうが」
「なんじゃと」
「おう?」

腹の音。ソロではなくデュオでもなく、コーラスで響き渡った。
皆が皆、それぞれ全員が空腹である。
誰ともなしに呟いた。

「腹ァ、減ったのう…」
級友達がそんな不毛な議論を繰り広げているまさにその最中、テレビを見られる六畳間では桃と富樫が珍しく空いている部屋を最大限活かして寝そべってくつろいでいた。アザラシが2匹。テレビ画面に頭を向けて直角に丸太ん棒のように転がっている。二人の距離はおよそ、間に太った男が余裕で一人は入れそうなほど。桃はあくびを大きくすると、隣で顎の下に座布団を折りたたんであてがいながら寝そべる富樫を横目に見た。
(あ、犬)
思わず笑みがこぼれた。富樫は画面に映る料理番組へ釘付けとなっている。だらしなく開かれた唇からは、よだれがいまにも垂れてしまいそうだ。
尻尾であれば、きっと振っているに違いない犬。勿論血統書つきなどではない、腹をすかせた野良犬だ。きっと子供が差し出した石ころすらガフガフがっついて食べてしまうんだろう。浅はかで、間抜けで愛しい犬だ。
「桃よぉ」
富樫が桃のほうを向いた。だからよだれを拭けよみっともねぇ、仕方ねぇな俺が拭いてやろうか。なに遠慮するな。
舌が勝手に言葉を走らせそうになるのを無理矢理桃は押し止めた。いつも通りに笑顔で答えることにした。
「なんだよ」
「腹減ったなぁ」
「さっき飯食ったばっかりだってのに、もうか」
塾生一号生の挨拶に漏れず、富樫は太い眉を下げ、チョビ髭もちょっと萎れさせてそう言った。腹が低く唸り続けている。
先程隣の広間から聞こえてきた飯談義に触発されて、富樫の腹も空しい期待にぐうぐう主張を始めたのだった。
「そうだな、」
「桃は何が好きなんだよ」
「俺は特に、なんだっていいさ」
「ちぇ、メザシ飯にも文句ねぇなんてマゾじゃねぇのか」
「そうじゃねぇさ、むしろ…」
むしろ苛め抜きたいタイプに、桃は分類される筈である。ポケット引き出しが大変多く、底知れない。底を見せない。
その端麗な笑顔の下で何を考えているのか、とんと富樫はわからない。だが富樫がそれを気にすることはなかった。

だって桃は桃だろうが。たまに読めねぇトコもあるがよ、桃は桃だろうが。

いつだったか富樫がそう言っているのを聞いた時、桃は確かに胸の奥でなにか震えるものを感じたのだった。
他の塾生だってそれは分かっている。桃が時折頬や目尻、その物言いに影を含ませても、こいつは誇れる自分達の戦友である。
過去がどうあれ、心中はどうあれ、拳を交わし共に血を流し涙をこぼした戦友。疑うことはないとわかっている。
それを富樫は極めて自然に言ってしまう。疑わない。だって桃だろうが。
理由も要らない男に、桃はなにかこそばゆさまで感じたほどである。



可愛い男だ。
桃はそう思って、少し自分を明け渡して日常を過ごすことにしたのだ。

「むしろなんだよ」
「お前はどうなんだ富樫、」
はぐらかした。
富樫は画面を指差す。いかつい四人の男達が胸まであるゴム長を履き、茶色く日に焼けた額には血流が滞りそうなほどぎっちぎちに豆絞りを硬く絞めている。
男達は煙草のヤニに汚れながらも白い歯を覗かせ、はちきれんばかりの笑顔を見せながら四人がかりで、成人男性ほどもあろうかという一尾のマグロを抱え上げていた。
ひとしきりマグロ漁を成功させた男達の喜びの声を映した後は、グルメ番組の趣旨である豪華マグロ尽くし料理が画面いっぱいに映し出された。
マグロ丼、大トロのステーキ、マグロのタルタルステーキ、頭焼き物、カルパッチョ、中落ち、中骨周りの赤身をユッケに。

「男なら、やっぱマグロだろうが」
夢のまた夢どころか、きっと来世だって金とは縁の無さそうな富樫である。例え一億円拾ったとしても、その瞬間目の前に難病で移植手術をしないと助からない息子を持った母親が現れたり、土地財産全て詐欺師に騙し取られた老人が歩道橋から飛び込もうとしたり、お人よしにも連帯保証人になったはいいが当の本人に借金を残して逃げ出されてしまい代わりに借金取りに追われる中年男性等が我も我もと連れ立ってくるのだろう。
そういう人間を「やらん!絶対この金はやらねーぞ!」と目から血を噴きそうにしながら叫ぶのだろうが、結局は金を手放すことになる。
そういう男に、マグロはとても縁が無い。

「そうかな」
「ったりめぇじゃねぇか、マグロっていや、海の王者だ」
「ああ、確かにうまそうだ」
「……食いてぇなぁ」
「一度もないのか?マグロ」
何の気なしに桃は尋ねた。富樫は寝る時意外は外さない(たまに外さないで寝ている)学帽を指先で少し下げて目元を隠しながら、薄い笑みを滲ませて言う。
「……昔な、兄貴が一度だけ食わせてくれたことがあってよ」
「……そうか、」
以前兄を思い出す富樫の顔に傷跡と同じく深々と刻まれていた辛さはもうない。代わって、懐かしむような、いとおしむような、とにかくソーダを飲んだ後のような、胸がきゅうと絞まるような弱い痛みを桃は覚える。ああバッカ野郎なことを聞いちまった、富樫、すまなかったな。
富樫は続けた。

「ツナ缶を二人で分け合ったんだ、ありゃあうまかったぜ、醤油をこう、たらっと」
飯を何杯も食ったという富樫は嬉しそうだ。

確かにツナは、マグロだ。間違いではない。そうとも、しゃけは英語でサーモンで、まぐろは英語でツナ。そうとも、そうであるとも。
だが、だけどさ、だって、
桃は何か言いいたげに唇を動かしかけたが、懐かしむ富樫の顔を見ていたらなんだかそれも野暮ってもんだと取りやめた。

「あー、マグロ食わせてくれるんなら油風呂でも裸踊りでもなんでもしちゃるわい!腹減っとるんじゃ!」
突然叫んだ富樫は座布団を壁に向かって投げつけた。それからうう、と腹を抱えて丸くなると空腹に堪えかねて眠ることにしたようである。すぐに聞こえてきたのは寝息ではなく、やはり腹の音であった。


一拍すら置かず、桃の目が輝いた。すごい勢いで明晰なる頭脳はグオングオンとフル回転を始める。

二月だ。一年で最も寒く、人と太陽の温もりが嬉しい季節。富樫、俺に言えばいくらでもあっためてやるのに。桃、あったかいぜ、照れながらもそう笑うお前の顔を見たいんだ。いいだろどうせ二人っきりなんだ。

目はベテルギウス。冬の星といえばやはりこれだと桃は断じた。きらりと鋭く、刃物のように物騒にではなく、好奇心やその他で明るく輝く。

桃は素早く立ち上がると、長い脚を大股に、靴底を廊下に叩きつけるようにして塾長室へと駆け出していた。
































それで俺は一体、どうして褌一丁でこんな寒空の下で鼻を垂らしながらほっとかれとるんじゃ?
富樫は身震いをした。肌という肌は鳥肌で、全身チキンとなった身体はうまそうにすらみえないこともない。そんなことはない。決して無い。
そんな富樫を唯一といってもいい、うまそうだと思っている本人桃はその肩を叩いた。
「大丈夫だ、お前ならやれるさ」
富樫は言葉にならない怒りの声を喉からグルルと絞り出した。こめかみの血管が浮いて、この寒さだというのに既に熱気すら伺える。
一号生、ならびに教官、塾長が勢ぞろいをしている。
ここは益荒男港、大冷凍倉庫入り口。体育館ほどの大きさの灰色をした建物で、二重になった倉庫の入り口は分厚い鉄の扉で固めているにもかかわらず中からひやひやとした冷気が白く漏れ出ていた。
この時点で既にマイナス9度。
塾生はいつも通り学ラン。教官と塾長はお揃いのイヌイットが着る様なフードつきフェイク毛皮のコートを着込んでいる。
富樫だけが褌一丁である。
歯がかちかちと寒さで鳴り出した。歯の隙間や鼻の穴から白い蒸気が噴出している。今ここで蒸気機関車!と叫んで走り出せば伝説にすらなれるかもしれないがそれどころでない。

「教官!質問であります!」
「何じゃい田沢ァ」
「この倉庫、マイナス20度とありますが、ここから褌一丁でマグロを取ってこられたら本当にタダでマグロをくれるんでありますかッ!」
挙手、質問をした田沢に向かって、鬼ヒゲはビッ!と竹刀を向けた。鬼ヒゲのでかい口からも蒸気が勢い良く漏れ出した。
「そのとぉりだ!漁業組合と既に話はついておる!この重大任務に貴様ら一号生の栄養がかかっとるわけだ…そこでだ!」
田沢を指した竹刀を今度は白いを通り越して青くなりつつある顔色の富樫へ向け、吼える。
「ここは油風呂を堪え切った富樫しかおらん!!」

おお…
一号生が哀れみと期待と応援との混ざった視線を富樫へと集約した。富樫は既に息も絶え絶えなのか、吐く息が少なくなっている。
「勘弁してくれ…」
「フレー!!フレー!!富樫ーッッ!!」
微かな主張は、男塾一号生全員による大鐘音に木の葉のようにかき消された。
富樫は桃に肩を抱かれ(もとい背中を押されて)マイナス20度、極寒の冷凍マグロ倉庫へと放り込まれたのであった。
「頼んだぜ富樫、こいつはお前にしかできやしねぇことなんだ」
頼れる一号生筆頭、心から惚れに惚れぬいた親友の笑顔はどこまでも澄み切った、冬空のようなすがすがしさである。
桃、お前はいつだって男前だよな…
富樫はドナドナを口ずさみながら、真白の冷気がおうおうと大声を上げる冷凍庫へと消えていった。
































三十分後。
塾生に教官、塾長は港の防波堤で風を避けられる埠頭へ集まり、身体を寄せ合いながらドラム缶に起こした焚き火に当たっていた。
塾生全員は通常通りの黒色学ランのため、黒山となって寒さに震える度にざわざわとうごめいている。
「のう、富樫大丈夫かのう」
松尾が手の平を炎であぶりながら心配そうに、自分達のすぐ背中でさびしく灰色にそびえる倉庫を振り向いた。
おおおお。
おおおおお。
船の汽笛は近くで聞くと、地球ごと揺れているように思われる位凶暴だ。田沢は同じく火にかざしていた手の平を擦り合わせて頷く。
「大丈夫だ、あれだけの根性モンが他にいるかよ」
「ううん」
田沢の慰めにも松尾はまだ気になるようで、背中が丸くなった。
どうしたもんかと口に呟き、田沢は我ら一号生筆頭を見る。筆頭は憂いのかけらもなく、自信と確信に満ちた眼差しを倉庫へ、倉庫を透かして中で孤軍奮闘しているであろう富樫へ向けていた。さすが桃じゃ、田沢は肘で松尾の横腹を突くと桃を示した。
「大丈夫さ、富樫は必ず戻る。…フッフフ、あいつほど信頼できる奴はいねぇ」
自分に言い聞かせているふうでもなく、ただ当たり前の事を普段と変わらぬ様子で説き、焚き火へ木材をくべた。
おおおおお。
おおおおおお。
汽笛が再び、強く塾生達を揺さぶる。

おおおおお。
おおおおおお。
切ないほどである。

おおおおおお。
おおおおおおお。
おかしい。初めに気づいたのは伊達であった。
「おい、海上には船一隻見えやしねぇのにこれはどういうことだ」
隣にいた虎丸が立ち上がる。防波堤へと身軽に飛び乗って、遠くまで見渡した。船影は無い。
「ほんとだ、こりゃなんじゃい」
おおおおお。
お・お・お・お・お。
不気味に腹へと響く、吼えるような怪音。


桃が突然すいと立ち上がった。
笑顔である。
嬉しそうに眼を細め、何を思ったかこの二月の寒空の下、ハチマキと並ぶトレードマークであるマフラーを首から抜き取り、学ランを脱ぎ捨てた。
男塾塾生として絶対の不文律、学ランの下は裸。サラシのみ可。言うまでもなく桃も裸であった。そのまま倉庫の入り口へと走る。
「も、桃ォ!?」
どうかしちまったのかよう一号生筆頭のお前が、混乱しきりの虎丸も続いて桃を追って倉庫の入り口へと向かった。

「ああ」
桃は目を閉じた。両腕を開く。倉庫ごと、それよりもしかしたらもっと大きいものを受け入れようとしているように虎丸には思われる。
手を伸ばして桃に触れようとした虎丸を、横から伊達が肩を掴んで自分の方へと乱暴に引き寄せた。
「見てろ」
「なにすんだよ、富樫だけじゃなく風邪引いちまわぁ」
「馬鹿野郎」
身体をゆすって大声を出す虎丸に、伊達は舌打ちをして顎をしゃくった。倉庫の扉、鉄製の頑丈で堅牢な扉が虎丸達が見守る中で細く開いた。冷気が噴出す。


その場に居合わせた全員が声も出さずに見守るなか、扉が爆風に煽られたかのように内側から桃達のいる側へと何かを叩きつけるような轟音を立てて開く。

「富樫」


髪の毛だけでなく髭も、脛毛もはっきり見てとれるほど真っ白に凍りつかせ、つま先や指先を紫色に、唇を白くした富樫が立っていた。
自身そのものが冷凍マグロと大差ない姿と成り果てながらも、その左腕にはしっかりと、マグロの尾が抱えられている。
200キログラムはあろうかという巨大マグロ。常人であればとうてい持ち上げることもできぬような重みだが、それを富樫がどうして倉庫の奥深くから運び出すことができたかはすぐに納得がいく。
根性。
その二文字だけで、富樫は仲間の元へとマグロを持ち帰ってきたのだ。
右腕にはドス。頭には学帽。
睫が凍って、瞬きひとつひとつもはっきり見えた。
ああ、ああ、富樫、こんなになっちまって!虎丸は叫ぼうとした。が、あまりにひどいその姿に言葉を失って唾を飲み込んだ。


「見事!わしが男塾塾長、江田島平八である!!!」
いつの間にそんなところへ登ったのやら、テトラポットの上で波しぶきを浴びながら静まり返ったその場を底から打ち抜くように塾長が怒鳴った。音が戻る。

おおおおおおおおおおーーーッ!

今度こそ地面が揺れた。海面も波で分かりにくいが確かに揺れている。

涙を流して喜ぶ松尾。ほれわしの言った通りじゃろうと威張る田沢。富樫より先にマグロへ駆け寄る教官、腹を空かせた塾生。
今度こそ富樫へ駆け寄ろうとする虎丸を、伊達が再びとめた。
「なにすんじゃい!富樫が…!!」
「だから、待て。死にてぇのか」
なにおう?
虎丸は鼻からフン!と馬鹿にしたように空気を噴出すと根性一筋の親友の名前を読んだ。

「とが……し、あ」


氷の彫像のようになった富樫は自分の持ち帰ったマグロを振り向きもせずに二三歩進み出ると、ぶるぶる震えながら両腕を伸ばしていた。
一歩一歩、前つまり桃へと向かっていく。
「うう、ううううう…」
唇もうまく動かない上、舌がもつれてしまっているようで言葉にならない。
寒さのために足取りも重く、今にも地面に倒れそうであった。それでも富樫の視線は桃から外れることはない。
あ、倒れる――、虎丸が危険だと叫ぼうとした瞬間、富樫は桃へと力いっぱい抱きついていた。
百年の恋人の抱擁。そんなロマンチックな言葉は虎丸ではなくその虎丸を羽交い絞めにするようにして押さえつけている伊達の口から呟きとなってこぼれた。

まさに百年の恋人の抱擁。
感極まって震えながら、桃の胸に顔を埋めてしがみつく富樫。よく見たら背中に腕をしっかと回して、離れがたいと言わんばかりだ。
桃は桃でいたわりをこめて富樫に抱きつかれたまま、その耳元で何事か、きっとお疲れ、とかよくがんばったな、とかささやいているようである。むさくるしい男に抱きつかれているというのに平時と変わらぬ姿を保つ筆頭の姿はほとんどの一号生達に感動をもたらした。
凍った富樫の頬を桃は両手の手の平で包むと、顔を近づけている。
富樫はおうおうと泣き、吼え、鼻を垂らしながらも決して桃から離れようとはしない。


そんな情景をJは、友とは本当に素晴らしいものだなと、珍しく熱く潤いを見せた目頭を拳で拭って空を見上げた。晴れている。
春も近いのか、空の透明度が少し落ちて端のほうに靄がかかっているのが見えた。

虎丸も思わず鼻をすすった。
「伊達よう、富樫と桃はいいダチだよなぁ」
感動しやすい素直な性格の虎丸に、伊達は生ぬるい笑みを向けてフンと鼻を鳴らした。


いいダチなもんか。

全ては桃の企み通りというわけだと、改めて伊達は桃の恐ろしさを思い知る。

大体にして、漁業協同組合と話をつけてきたのが桃だというところからして怪しかったのだと伊達は思う。
こういった根性試し的なお遊びに駆り出されるのは大抵富樫で、その性格でも断ることも不成功となることも無いと言い切れる人材だ。
もし教官が他の人間を指名したならその時は筆頭として桃が名乗り出ればいいことで、そうなったら富樫は必ず「しゃあねぇ、俺も行ったらぁ」と言い出す。そういう男である。
言い出すという確信が桃にはある。
そうしたら褌一丁の上極寒の倉庫の中だ、ゲレンデ遭難、雪ふぶくく二人きりのコテージとさして変わらないシチュエーション。服を脱ぐ手間すらない分おいしいとすら思えた。
そして最後、桃が一人裸になったこと。
あれが今回の策の締めでもあったと伊達は睨んでいる。
寒さに睫も凍りつき、視界もさぞ悪かったはず、そして身体はなんでもいいからぬくもりを求めていた。

そんな富樫に、桃の血色のいい裸はさぞ神の助けに見えたことだろう。
現に今、富樫は頬を擦り付けんばかりにして抱きついている。

労せずして、マグロと富樫との抱擁(しかも富樫から)を手に入れたという訳だ。
桃の唇の動きから見るに、何やら艶っぽい約束事でも取り付けているのかもしれない。
フン、伊達は鼻を鳴らす。
そして。

「いてェ!おい伊達、何すんだよ!寒いだろ、押すなって」
「グダグダ抜かしてんじゃねぇ、お前も虎ならマグロの一匹取ってこい」
「あァ!!?なに言ってんだ、おい、やぁめろって!!!」
「やかましい、帰ってきたらちゃんとあっためてやっから行け」
「嫌だっつーんじゃ、ボケ」
「それなら別のマグロ食わせてもらうとするか、心配すんな、立派に俺が育ててやる」
そんなやり取りもあり、
マグロに感動しすぎて泣き出した一号生達によるマグロ胴上げもあり、海に落下という椿事に終わることとなった。
その後、塾長がほぼマグロを食べつくしたという未曾有の事態に、一号生は再び富樫に冷凍庫へ入るよう懇願する姿も見られることになる。
モクジ
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