マグノリア
上官殿、ジブンの上官殿はあなただけであります。
下手糞な英語で彼女はそう言った。
彼女の右手、その拳。
Jは自らの固い拳と比べて一回り小さなその拳が嫌いではない。
嫌いではない、それはJの最大級の好意だとスラム育ちのスレた彼女は知っていたのでにやりと笑うに留めた。
「ジブンは上官殿の拳が好きであります」
「そういうことをあまり言うな」
「いやであります」
はっきりしっかりそう言った彼女の頭をJはぼかりとやって、誘おうとしていた飯の話をとうとう引っ込めてしまった。
そんな風に言われて、笑って受け流せるほどJの表情は柔らかくしなやかでない。
それをわかってやっているフシが、彼女にはあった。
寒々しい枯れ木の並木を歩きながら、なんの呼び水があったわけでもなく唐突にJは彼女を思い出す。
春はもうすぐだ。
ああこの並木はマグノリア。道の輪郭を描き出すマグノリアの枝には霜がびっしりと白かった。
Sは好奇心が人一倍旺盛だった。食堂でVを見つけると、トレイを持ったまま近づいて隣いいかとたずねる。Vはどうぞと静かに了解し、自らのトレイをわずかに左に寄せた。用意された右隣に腰を下ろし、Vの頬に流れる黒髪を見る。
「チャイニーズ?」
「いいえ、知らないわ」
睫毛を上品に伏せて微笑むVの英語の発音は素晴らしく綺麗で、アメリカから出たことのないSよりもなめらかに舌が動く。わからないと言うSにはその答えが不思議でならなくて首を傾げた。食堂のミートソーススパゲティはいつだって茹で過ぎで砂糖が利きすぎてるので多少伸びたってかまわない。突っ込んでたずねてみることにした。
Sが配属されたのはVと同じ日本帰りの上官の元だ、前任者が異動したということでVが副官になり、Sはその補佐。せっかくこれから一緒に働くのだし、Sは色々話したいと思っている。そのあたりが前上官からは学生臭いと言われる原因でもある。学生で何が悪いんだと開き直ることはまだできない。
「わからないって、どゆこと?」
Vの横顔が正面顔になった。アジア人特有の切れ上がった眼がSを見据える。西洋人と違って、表情が乏しいがおそらく驚いたのだろう。
「そうね…あなたはずっとこの国に住んでるのだった」
「昔開拓民として移民してきてからずうっとね」
Vが笑った。
「私は母はイギリス人で父もイギリス人よ」
「え」
その答えはSの予想外だった。Sは肉らしい肉の見えないカレーをスプーンで上手にすくいながら口に運ぶ。まったく音を立てないで食べるVを眺めるSの前でどんどんミートソーススパゲティは伸びていく。
「ふふ、アメリカはこんなの日常茶飯事よ。どこで何がまざっているのかわからないんだもの、驚くことじゃないわ」
「ふうん…」
曖昧に答えていると、自分達の上官が食堂に現れた。一度ぐるりと見渡し、それからSとVの座っていたテーブルへと歩いてくる。Sにとってはまだなじみのない顔だが、上官の顔は軍に居る限り真っ先に覚えるべき顔であった。
二人そろって立ち上がり、敬礼。上官は眉一つ動かさず座るように手で指図した。着席。
「上官もお昼ですか?よかったらこちらに…」
「俺はいい。午後は俺は会議に出るので訓練を…いや、通常業務だ」
上官はどうやらそれだけをSとVに伝えにきただけのようであった。すぐに食堂を後にする。
Jという上官は律儀で、勤勉で、まじめで、努力家。Sは着任してたったの三日で培ったデータのうち、律儀という欄にプラス1をする。
外出くらい、メモに貼っておけばすむことだのに、この上官はわざわざ副官達に知らせに用もない食堂に来たのだった。それは今までSの上官になった人間達からすればありえないことである。
用も無い?
Sは違和感に睫毛をぱつりと打ちあわせて、平然とカレーを食べ続けるVにたずねた。
「上官って、お昼ごはん食べないんでしょうか」
「以前はね、私の前任に引っ張られてここで食べてたんだけど」
引っ張られて、そりゃあすごいなとSは手にしかけたフォークを再び置いた。すっかりさめて、油分がいかにもべったりと皿を汚している。
まずいミートソースよりも、その前任に興味が湧いた。Sの顔にそれはすっかり出ていたらしく、Vがくすくすと笑う。
「私もあまりよくは知らないのだけれどね、中々変な人だったわ」
「ヘン」
「そう、ほら、うちの上官の伝説って知ってる?」
「ええと、五人を一度のパンチで倒したとかぁ…そんなんでしたっけ?」
「正確には十人ね。マッハパンチのJ、だなんて呼ばれて恐れられてるの」
それは知っている。というよりもS自身が感じていた。無口で、仕事は有能かもしれないけれど面白みにかける上官。強い強いとは聞いていたけれど、上官よりも更に役職が上の人たちがあれほどまでに気を使うというのはそういうことだ、そう気づいている。
Sが聞いたうわさというのは他にもあった。たったの一撃で古木を砕き、飛んできた銃弾すら弾いて、飛ぶ鳥をパンチの風圧で打ち落とすマッハパンチ。
それが全て、尾ひれのついたうわさではないと言う事をつい最近確認したばかりだ。
「で、前任っていうのは上官との殴り相手ってところかしらね」
「ハァ!!?」
殴り、殴り相手!!Sはあんまりびっくりしたので大声を上げてしまった。食堂の視線がいっせいに集中する、Sは顔を赤らめてうつむいた。
声は口に手をやることで止めたけれど、飛んだ頭は中々落ち着かない。
だって、だって、だって。今言った、言いましたよねマッハパンチのJって、そんで?Sは回転数を増して混乱した。
「な、殴り相手って…リンチとかじゃ、なくって…ですよね」
「ええ、真っ向から拳同士で殴り合いよ」
「だって、マッハパンチ…その人も上官みたいにボクサーだったり、とか?」
一瞬考え込むように目を伏せ、Vは頬に手を当てて首を傾げた。ふっさりと髪の毛がまとまりある束のまま頬に落ちる。Sにはうらやましい艶のある、癖のないまっすぐな黒髪。
「そういう話は聞いたことがなかったわね、確かスラム育ちだってことくらいしか彼女言ってなかっ」
「彼女ォ!!?」
二度目の注目。
今度こそ、下を向くくらいじゃあ中々視線のチクチクはSの首筋からは離れない。平静を取り繕おうとフォークに手を伸ばし、つるつるくるくるミートソースを絡み付ける。
「ま、驚くわよね、普通は」
「あったりまえじゃないですか…どんなキングコングなんですかその女(ひと)」
「そうね、私と同じ黒髪で、私より十センチは背が高かったし、確かに鍛えられた体してたけど別に筋肉ムキムキってわけじゃあなかったわね」
Sの頭の中では黒髪のキングコングしか描ききれない。
巻きつけるだけ巻きつけたフォークをどうしようか迷った挙句置いて、つぶやく。
「なんでいなくなっちゃったんでしょうね」
食堂の窓からはマグノリアの並木が見える。
独り言に近いつぶやきだったけれど、Vの耳に届いていたらしい。彼女も集まってきた視線が気にならないわけでもないらしく窓の外に顔を向けながらつぶやきに答えた。
「L管理管の家に殴りこみかけた挙句、SPから本人まで満遍なく殴り倒した責任を取らされてってところかしら」
直後のSの絶叫は、二人がこれ以上食堂に居られないようにするには十分であった。
この寒いのにとVは肘でSを小突き、何も言う事が出来ないSはサンドイッチをおごらされることになる。
秋冬は銀杏の下でトレーニングをすることが多かった。
Jの振るう拳は空気を切る音がする。以前銀杏の木の下で、落ちる葉を一枚一枚拳の風圧で微塵にしてしてみせたら首まで熱くなりそうなほどすごいすごいと言われたことを思い出す。
『上官殿、どうしてそんなに速い拳が出せるんでありますか?』
『訓練だ、それから…』
『それから?』
『思い込みだ』
誰かが聞いたら笑うだろう返答だったが、彼女はひたとJを見据えてうなずいた。身なりをあまり気にしない彼女らしく、髪の毛に砕けた銀杏の葉が絡んでいる。何の気構えもなくJは無造作に手を伸ばして取ってやった。彼女はありがとうございます上官殿と差し歯を見せて笑いながらへたくそな英語で言って、
『惚れ直しました』
とやけにあっさり言うものだからJは顔を険しくしてしまう。タイミングが悪い女だとJは心中でむっとしていた。
沈黙するのもしゃくだったので何か言おうとしたのだが、Jの口は重い。だというのに彼女はすらすらとJが言おうとしていた言葉を継ぐ。
『自分がどれだけでも速く拳を震えると信じ込めば、それに近づけるってことっすかね』
『そんなところだ。…おい、』
『なんっすか上官殿』
『少しは速くなったんだろうな』
『モチロンであります、今日こそアンタからダウンを奪ってみせますよ』
彼女は拳を突き出した。日に焼けた腕、柔らかく握りこまれた拳はJのものよりもだいぶ小さいが、だからといって重ねた戦歴は明らかだ。
Jはその拳を掴んだ。サンドバッグ相手に何度も打ち込まれたらしい拳の皮膚が硬く厚くなっていて、乾燥し始めた空気のせいもあってかところどころヒビが入っている。彼女は苦笑した。
『心配しなくたって、ちゃあんとトレーニングくらいしてるっす。そんなに信用ないっすかジブンは』
『そうじゃねぇ、テーピングくらいしておけ』
拳を掴んだままJは空いた手で自分の尻ポケットを探り、自分のテーピングを取り出す。彼女は目を丸くしていた。
『あ、その…』
『どっちだ』
どっちだ、と聞かれてもと彼女は珍しくうろたえている。
『利き腕だ』
『ひ、ひ、左っす』
そう答えるとJは手早く彼女の左の拳にテーピングを施した。彼女の拳を締め付けず、しかしほどけぬようにきっちりと巻きつけられたそれを彼女はじっと眺めている。
『右は自分でやるんだな、両方やってやるほど俺はお人よしじゃないぜ』
照れている。
Jは背中を向けて、再び木の葉を打ち抜いている。
彼女は大声でJを呼ぶ。
「エンゲージってことにしてもいいっすかね!ちょうど左手ってことで!!」
「馬鹿が。…俺からダウンを奪えるようになってから口をきくことだ」
背後から即座に奇襲。
だというのに、確実に精密に彼女の顔面を振り向きざまに放たれたJの拳は真正面から捉えた。男だろうが女だろうが、向かってくるものにたいしては誠意を持って勝負するというJの美学にしたがって、彼女の右頬は脹れに脹れてますます化粧やドレスの似合わない女になった。最初から似合うような外面でないことは、Jだけでなく彼女も承知なので問題はない。
その後、奇跡の1ヒットをJの腹に取った彼女は、その褒美に毎日Jのテーピングを巻くことを勝ち取った。
スラムを駆け回る子供となんら変わりない喜びっぷりに、Jはとうとうその英語以上にへたくそなテーピングを巻いて毎日トレーニングすることを承諾せざるを得ない。
今のJの拳にはきっちりとしたテーピング。
あのゆるゆるのテーピングよりはるかに几帳面で、正確なテーピング。
彼女がいない今、一度くらいあのゆるゆるでも我慢ができそうな気がしていた。
「春か」
まだ春は来ない。見上げた空には桜吹雪のかわりに、粉雪がちらついていた。
「じゃあ、上官はその人が戻ってくるのを待ってんですかねー」
「さあ、恋愛じみたことは聞いた覚えはないわ」
Sが詫びにと二人分買ったサンドイッチを、寒い芝生ぞいのベンチで分け合う。ついでで買った熱いコーヒーには砂糖とミルクをたっぷりと入れて、背中を丸めてすすった。息が真っ白く大気に膨れた。
「ふうん、つまんないなぁ…」
「戻ってこられるかはわからない。そういう部署に行ったから、彼女」
Vは広い芝生を全て見渡そうとするように遠い目をした。
「それを上官は?」
「言ってない」
「言わないんですか?」
「だって、激戦地に行くってわかったら…言えなくって」
Sはそう、と言って、Jが見上げているのと同じ灰色に沈んだ空を見上げた。
粉雪。
「春は遠いんですねぇ」
「そうね」
粉雪。
粉雪。
春はまだ遠い。
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