眠れぬ夜に靴下を嗅ぐ
夜が長いとロクなことを考えない。
眠気という水を貯めるタンクにはきっと穴が開いているのだ、貯まる気配というものがない。わたしの目はさえざえとしている。
わかってはいたけれど、あんまり夜が急に長くなったのでわたしは思い出をそっと一つ引っ張り出して撫でてみた。
靴下の話だ。
暑い盛りを過ぎた今なら少しは笑えるものかもしれない。
シミ天井をぼんやりと見上げながらわたしは魂遊びを始める。
幼い頃、わたしは随分と寝汚い子供だったと思う。じいちゃんのうちに預けられてから、その眠たがりは始まった。
一日中寝ていたこともあったはずだ。じいちゃんは最初、あんまりわたしが寝るものだから何か病気でもあるのかと心配して医者を呼んだのだった。
結局ただ寝ているだけだと医者に言われてわたしはひどく叱られた。手加減はされていたけれど拳骨ももらったのを覚えている。
「オウ、目ェ瞑っちまってる間にもどんどんおもしれぇモンが通り過ぎちまってるぜ?」
そう言われても、わたしは眠い。世界の何を見ても眠気しかなかったのだ。
じいちゃんがせっかく作った焼きナスも、塩サンマの開きも、きのこ飯も何度も食べ損ねた。
きのこ飯は無精者のじいちゃんの得意料理だ。りこぼうやしめじ、くりたけを洗い、酒と醤油を混ぜたものにつけておく。それを茶碗に飯をよそった上にかけまわし、セイロでもって少々蒸し上げる。きのこの土臭いにおいがぷんとしてわたしは好きだった。今となってはそんな山きのこを採りに行くこともないだろう。たしかそんなきのこを持ってきてくれたのは面白い髪形の、雷電爺だった。面白い話を沢山してくれる愉快な爺さんだったけれど、その頃はほとんど途中で寝てしまっていた。もったいないな、と今は思う。どれもこれも面白い話ばかりだったのに、確か、ゴルフの起源は中国だったっけ。きのこはその雷電爺の飼い猿が集めてくるものだったと後でじいちゃんは言っていた。
じいちゃんはあの頃、たくさんうちに人を呼んだ。
白熊のおじさん、まっしろな頭の斬岩剣のおじさん。昔っから真っ白な頭だったって聞いて驚いた。
おじさんは庭の木蓮を真っ二つに切り倒す。
わたしは縁側で眠った。
チャンプのおじさん、目のきれいなマッハパンチのおじさん。日本語がとても上手くてじいちゃんより流暢に日本語をしゃべる。
おじさんはわたしにシャボン玉を吹かせ、それをすべて一瞬にしてパンチで割った。
わたしはストローをくわえたまま眠った。
つるつるのおじさん。生来目の見えない睫のおじさん。スポーツ万能で、その時はゲートボールの極意を手にしていた。
おじさんはゲートボールのボールのかわりにピンポン玉を空へと打ち上げ、三羽の雀を打ち落とした。
わたしは仰天して暴れるその雀を胸に抱いて眠った。
らせつのおじさん。指先だけで岩も砕けるムキムキのおじさん。おじさんは見かけよりとても紳士的でわたしをレディに扱った。
おじさんは人差し指と小指でもって、うちの柱を貫いた。
わたしはうちを壊す気かってじいちゃんが怒鳴っているのを聞きながら眠った。
どうしてテメエはそんなに眠いんだ、じいちゃんが聞いてわたしはなんて答えたか思い出そうと頭を巡った。
だって眠いんだ、わたしはそう答えた筈である。
なにもかもが眠かったのだ。今時の心理学のセンセイならばおそらくは、母親との離別が引き起こすストレスからの逃避だとか、そんなことを難しい顔で述べるのだろう。
実際そうだったのかもしれない。
「迎えにくるわ」
そういう母親をわたしは待とうと思ったのだ。さなぎを見て、ああそうしようと思ったのだ。
わたしはかたくなに眠った。
眠ることでじいちゃんを拒絶し、世界を拒絶したのだと格好をつけてみるけれど要は子供がさみしくて心細くて拗ねていただけのことだ。
そうしているうちに、桃さんがやって来た。
じいちゃんはいつも困ると桃さんに頼るのだ。じいちゃんは桃さんと居ると急に兄貴ぶる。何故か聞いたら俺のがアニキ分だと言い張る。
子供心にそれはないだろうと思ったが言わなかった。良く寝るわたしでよかった。
桃さんも桃さんで、そんなじいちゃんの見栄に気をつかってかうちに来る時はよく甘える。富樫、富樫、なあ、そう桃さんは用もなくじいちゃんを呼ぶ。
そして何の用もないと分かった時のじいちゃんの顔ったら酷いものだ、しかたねぇな、いつまで経ってもテメェはよう。なんだその顔。子供心にだめな大人なんだなあと思ったものである。桃さんは笑顔だ。
わたしは半ば夢うつつ、とろとろにとろけていた。
じいちゃんがわたしのことを桃さんに訴える。じいちゃんはなんだってあんなに話すのが下手なのだろう。口下手なのではなく、話すのが下手糞だ。
あっちへこっちへ散らかって、どうにも要領を得ない。
桃さんはそれじゃあと言って、じいちゃんに耳打ちをした。
「あれか!」
「あれさ。フッフフ、俺も昔はよくやられたな」
そういう会話をしていたのだろうという、想像である。このあたりでわたしは間違いなく眠っている。
鼻の奥に、タバスコにヒタヒタ漬けて置いた髪の毛ほどの太さの針を突っ込まれたような。
目にメンソレータムぐりぐり突っ込まれた上鼻の下にムヒ塗られたような。
刺激。なるほど刺す激しさ。なるほど、刺激だった。
寝ていたわたしの鼻になにかやわらかいものがかぶせられて、ひと呼吸した時だ。
もうそれは刺激。鼻の奥がギャーで、目がヒィーだった。
「ぎゃあ」
だとか叫んで飛び起きたのだと思う。確実に泣いていた。じいちゃんは桃さんとハイタッチをしていた。
憎たらしい笑顔だったのがよくよく涙でにじむ目に焼きついている。
「な、凄い効き目だろう」
桃さんの言葉にじいちゃんはううんと腕組みをして、
「そんなに俺の靴下ァくせぇかよ」
ともらした。
靴下!
わたしの顔の上にかぶせられたあれは、じいちゃんのくさい足に耐え続けた靴下であった。
叩き起こされるという以上の表現をわたしは知らないけれど、最上級というものが日本語にあるのなら間違いなくそれだ。
マキシマムに臭い、臭いを超越した匂いというべきである。兵器と言ってもいい。
心理学のセンセイならきっと「会話やふれあいを通じて心を少しずつほぐしてあげること。決して焦らず」なんて悠長なことを言うんだろう。
じいちゃんは違った。思い切り力技でわたしの目をこじ開けてきたのだ。
後で涙の止まらないわたしに桃さんはアメをくれた。べっこうアメ。
「俺も塾生時代、寝坊していたら顔を踏まれたものさ」
「………うううう」
「寝ていると、こう、ギュウ、とな」
最近はきちんとそれでも靴下を洗っているので、昔ほど臭くはないさと桃さんは言ったけれど、その当時の匂いははるかかなたに想像は不可能だ。
わたしは布団の傍に放り出したままの脱いだ自分の靴下を拾ってにおってみた。
履いていたローファーの、革のにおいがする。まがりなりにも女子高生だ、毎日履きかえているし、足だってゴシゴシ洗っているのだ。そんなに匂ってたまるか。
全盛のじいちゃんの足に顔を踏まれたという桃さんの苦しみは、どうしても想像できなかった。
いくら夜長とはいえ、すこしばかり貯まった眠気がある。
眠気を抱えてわたしは体を丸めた。
雨音がする。
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