油風呂には勝てれども

壁は薄い。築三十年は伊達でなく、本当に薄い。釘を打つのが恐ろしいほど。壁がぺらぺらのそのかわりに部屋はわりかし広くできているし膝を曲げないと入れない風呂だってついている。ボロアパートというにはしっかりと剛健に建っているそれの205号室が住まいだ。
二階建ての二階に住んでいるのだから上からの生活音はわからないが、横からの音は筒抜けといってもいい。風呂に入るのもトイレに入るのも、テレビをつけたのもわかる。
一番に部屋に招待してやったのは勿論虎丸だ。大男二人そろりそろりの猫背の格好で鉄製の足音を倍にやかましくする階段を抜き足差し足で上ってきて、部屋のドアをそうっとそうっと気をつけて閉める。
隣が帰ってきたら二人でぴったりと壁に耳をくっつけるのだ。
まだかまだかと虎丸と富樫、缶ビール片手に息をひそめて待っている。
と、豆をまいたような細かい水音が隣から聞こえてきて、二人そろって顔を見合わせてにんまりする。
下卑た、助平を絵に描いたような笑い顔を見合わせたのに冷めもしない。

待つ。待つ。喉をごっくり鳴らして待つ。
そうして、どうやら隣には部屋で待っていた女と帰ってきた男が抱き合い始めたようであった。待ってましたァと手を叩きたくなるような高ぶりを抑えて鼻息も荒く。

鼻にかかったような甘ったるい声。
窓を開けているわけではないだろうにもれる息遣い。
きしみ。
意味をもたない言葉。
長く細い絶頂のあえぎ。

これが毎晩だと富樫が言ってやると、虎丸は前かがみに便所借りるぜとズボンの前の高ぶりを隠しもせずにのしのしとトイレへ逃げ込んだ。
ガキかよ、バァッカと富樫は自分の高ぶりを棚に上げると虎丸の切羽つまったペンギン歩きを大声で笑って、それから隣のことを思い出して口を押さえたのも思い出のひとつだ。
こんな馬鹿をやっていたのを懐かしんだり大事に思ったり、それからもう味わえないのだと寂しく思ったりするのはもっと先であればいい。
もっとずっと先、あるいは死んでから。


次に呼び込んだのは桃だ。電話はまだひいていなかったので、外に出て公衆電話を使った。十一月の夜はひどく寒くて受話器が冷たかった。
あのどこまでも男前な、女から寄ってきそうなわりに興味のかけらも表に出さない男をからかってやろうと思ったのだ。まだ住所が決まっていないと言って連絡もしていなかったのでいい機会だったというのもある。
富樫も通いの見習い秘書だったし、桃も駆け出しの政治家ということで電話は事務所にある仕事用のものしかなく、電話に出た女に富樫は舌を噛み噛み素性を名乗った。
いぶかしまれたが、最後には納得してもらえたようでつないでもらえることになった。それか、駆け出しの若造の電話など一々かまってはおれぬということか。
「はい、剣です」
桃に名乗られたのがあんまりにも新鮮すぎて富樫は一瞬言葉を失う。チャン、と十円が音を立てたのであわてて言葉を発する。
「桃か、…俺じゃ、富樫じゃ」
電話口の向こうの空気がゆるんだように富樫には思えた。そうだったらいいとも思う。
「フッフフ、わかってるさ。…アパート見つけたんだってな、虎丸から聞いたぜ」
「ああ、そんでどうだ。今度あたり泊まりにこねぇか、どうせ寒い寒いちゅうても窓閉めてりゃ死にはしねぇだろうから」
「そうさせてもらうかな、…それなら今日行く」

今日。富樫自身でも信じられないことに社会人なので、小さな手帳を知りポケットから取り出すとぺらぺらとめくった。桃は昔っから予定という予定は頭に入れてしまうのだという。到底まねができそうにない。

「ああ、いいぜ。道はわかるか」
「虎丸から聞いてる…そういえば虎丸の奴やたらとお前の家はすごいと言っていたな」
例のセックス狂いの隣人のことだ。にたりと頬のあたりを持ち上げて笑いを深めた。
「まぁな、そんじゃ待ってるぜ」








「な、なんじゃ桃、悪ふざけをやめねぇか」
「悪ふざけ?」
富樫は背中を壁にべったりとくっつくほど押さえつけられている。もちろん押さえつけたのは桃で、笑顔ではあった。
ちょうど隣の部屋で男女が絡み合い始めてすぐの出来事であった、富樫がごくんと生唾を飲み込んだと同時に桃の手のひらがずいと伸びてきて肩をつかむ。
律儀に富樫がすすめるままに壁へ耳をつけた桃の目は蛍光灯のあおじろい光のかけらをいくつか落としてきらきらしていたが、憂いの影がある。
桃の唇が何事かつぶやいて、富樫がそれを聞き取る前に桃は体ごと富樫の体を壁へ押し付けていた。軽い冗談では説明のつかぬ力が肩を掴む手や、全力で押してくる体に張られていた。
「悪ふざけでお前はこんなことができるか?」
もう桃は笑っていない。富樫を壁に標本にするように、ピン代わりの腕に力をこめている。富樫が傷みにうめいた。
桃の目に色の影がある。この目が富樫は好きでなかった、自分を要求する目が好きでなかった。
「ふざけてねぇんなら余計に悪ィや」
「富樫」
桃は子供のようだ。
真剣にまっすぐに富樫を目で圧す。
ああ、たまにこいつは面倒なんだった。富樫はため息をついた。
「もう女がいねぇって訳じゃねぇだろ、なあ桃、もうこんなんしなくたって、」
俺で、なくったって。
最後まで言わせるほど桃はおろかではない。
この馬鹿を、卒業したって信じられないほどの馬鹿には行動でいくら示してやったってわからないのだ。
ならば口で言ってやらなければならない。

「お前でじゃねえ、お前がいいんだ」

富樫はぽかんとしている。ぽかんと開いた口に唇をいつもより、塾生時代よりも強く乱暴にぶつける。舌を入れてやろうかと思ったが、輪郭をなぞるだけにとどめて富樫の反応を待った。
まるで木偶だ。
何を驚くことがあるんだ富樫。俺がお前にこうするのを嫌がらせだとでも思ったか。

「久しぶりに会えるからって喜んだのは俺だけか?…フッフフ、とんだ馬鹿野郎だったな俺は、完全に独り相撲というわけだ」
「そんなこと言ってねえ」

いいからちょっと退けと怖い顔で言いながら富樫は唇をぐっとぬぐう。そんなに嫌か、だけどな富樫、お前が嫌がる顔はわりと気に入ってるんだ。
うん?そんなこと言ってねえ、ということは?
「じゃあいいんだな」
「う」

一際高い女の声が隣から聞こえてきた。
もう俺は行動に移している。ものすごく久しぶりなものだから丁寧にしたい、やさしくしたい。けれどたくさんしたい。

「会いたかった」
「そうか、よ」

学帽をしなくなった富樫も富樫。あ、少し痩せたかお前。わき腹にアバラが。
俺も少し痩せた。気づいたか?髪の毛も切ったんだ。

「お前も俺に会いたかった」
決め付けてやる。あんまり富樫を追い詰めるのも酷だ。なに時間はまだまだ嫌というほどあるんだ。
たまにぼんやりと考えてくれ。待っててやるから、気持ちは。だけど俺もあんまり我慢がきくほうじゃないんで先にこっちは。
「なんじゃそりゃあ、テメ勝手に、い、言って」

富樫は笑わず、少し顔を赤らめる。そうさ、それでいい。髪の毛が少し伸びたなお前は。
髪の毛の匂いがあのレモン石鹸でないのが驚きで、新鮮でもある。男塾時代は誰もが同じ匂いをさせていたのに、富樫の匂いは違う匂いだ。

「も、も、桃」
「ああ、富樫」

名前を呼べ。もっと呼べ。眼を閉じたってどっかに行ったって忘れられねぇくらいに俺の耳に染み込め。
富樫を行き渡らせたい。だけど俺全部に行き渡らせるにはまだまだ足りない。

くれるのか。もらおう。全てだ。残さない。
お前は男塾時代からそうだった。疑わない、俺を信じる。
だから好きだ。
お前も俺が好きだ。お前が知らなくても俺は知っている。


「隣から声が聞こえるって?」
富樫を見下ろして、俺は汗をぬぐう。体全体がかっかと熱い。部屋は隙間風のせいで寒いままだけど、俺と富樫だけはとりあえず熱い。
富樫は赤いんだか白いんだか判別できないぐらいにぐるぐるめまぐるしい顔色で目を白黒させた。
何を俺が言いたいのかわからないのか、返事は瞬きのみ。
わからないか?まったくしょうのない奴だよお前は。
はっく、富樫は喉の奥で叫んだ。八苦、八九。

「逆に隣へ聞こえるってことさ…堪えろ」
鏡をじろじろ見る趣味はねえ、が、きっと今俺は笑ってる。
がっと目を落としそうなほど富樫は驚き見開いた。
俺は富樫の口を一度だけやさしくやさしく塞いでやって、それから。

離す。
モクジ
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