逃げろ、何から?

出会い頭の事故であった。
誰もなんの下心も計略もない、単なる事故であった。




息がセッセッと細切れに切れる。つい今しがた吐いた大きな息の塊、あれはもう自分の後方に吹き飛んで行った。
靴紐はしっかりと足と靴とを縛り付けてくれていて、一歩地面を蹴り前方へと飛んでもゆるみはしない。虎丸のように毎朝靴紐を結ぶのが面倒だと紐を取っ払ってカポカポ言わせていないで本当によかった。ぶるんと大きく頭を振るった、汗が散る、散って、後方へ。
富樫はただ前へと走っている。
歯を食いしばって、
手をかたく握って、
ふくらはぎをひきつらせて、
前へ、ひた走っている。
もう冬だ。立派に冬で、木枯らしだって吹いている。銀杏も楓も桐もそれから桜、木々という木々の枝葉から葉を攫っていく。桜は今日も咲いているので花びらを持っていかれた。
富樫を攫おう、風はそう決めたわけでもなかろうが正面から吹いてくる。春の嵐とも、夏の熱風とも違う、しゅうしゅうと細く切れる冷たい風が吹いてきて富樫の学ランの裾をまくった。大きく学ランの裾は風を含んで膨らんで、おもりとなって富樫の疾走を妨げる。
富樫はただ前へと走っている。
前を目的地として走っているわけではない。
どこぞへたどり着きたくて走っているわけではない。
後ろから遠ざかりたくて走っているのだ。
富樫は吹き飛びそうになる学帽を手のひらでぐっと抑え、前へと突き出そうになる顎を引いて走る。
うおお、と大声を上げながら走りたいと富樫は思う。が、そうすると体力を失いそうで出来ない。
富樫はただ前へと走っている。
それはただの疾走ではない。
逃走である。

冬の風が富樫の頬を撫でる。頬は熱くてトマトのように赤くて弾けそうで、汗に濡れていた。風がしきりに冷やそうと吹き付けてくるのだが熱はまったく冷めない。
富樫はまた頭をぶるんと振った。振り切る、否定する、左右に振る。
(違うんじゃ)
誰に言いたいわけでもない、自分すら説得できるかどうか不安である。
走る、
走る走る。
ただ走る。走り続ける。
前へ飛ぶ。後ろを拒絶して前へ飛ぶ。後ろを振り向かずに走っていく。
どこへ行きたいわけでもない、ただ後ろを引き離したくて走る。



事故だった。
あれは完全に、誰の作為もなくまぎれもなく、誰もが事故だと口をそろえるような事故であった。
出会い頭である。
富樫が便所で小便を終えて、前かがみに出てきたところ。手は洗っていない。不潔だと言う様な奴はほとんどいない男塾である、さして気にせず便所から出てきた。
便所から出てきたというのにチャックがなかなか完全には上がりきらない。たった数センチではあるが、誰ぞに見つかったら何を言われるかわからんと唇をとんがらせてかちゃかちゃやっていた。このところの寒さのせいで、指先がなかなかうまく動かないのと、フンドシの生地をどうやら噛んでしまっているようでしぶとくチャックは上がらない。
くそ、と富樫は舌打ち一つしてはっと顔を上げた。
どんと誰かにぶつかった。それも、顔を上げたのと同時にぶつかった。
富樫が前かがみになっていたのもある、相手が富樫の顔を覗き込んで声をかけようとしていたのもあった。
どんとぶつかった、そんな拍子に口と口とがぶっつかった。がっつんと富樫の歯と相手の唇が痛そうな音を立ててぶつかる。
どう見たって事故である。
相手は桃であった。
「イッ、つ」
桃は唇を切ったようで、口を手のひらで覆った。すっと律儀に形を保つ眉がひそめられる。それを見た富樫はあっと声を上げかけて迷った挙句しまいには声を呑んでしまった。
謝るべきであった。前方不注意であったし、自分は何のケガもない。
「も」
桃、悪ィと謝ろうと思い相手の肩に手を伸ばしたところ、桃のまぶたが持ち上がった。口元は手のひらで隠されているので目だけの表情で富樫を見た。
微笑んでいる。
目にやさしいひかりをともし、目頭のあたりにうるみをもたせて微笑んでいる。
それだけで富樫は沸騰してしまったのだ。
沸点は低い、瞬間沸騰で頭の隅まで煮えてしまってなにがなにやらわからなくなってしまい、気づいたら手は既に行動を終えている。
謝るどころか、なんと富樫思わず桃の頭をどすんと手のひらでどついてしまった。
桃の目がぱちくりと瞬きを一つ、富樫、どうした?そう揺らぐ目で尋ねられた気がして富樫は自分の手を見る。じんじん震えるほどではないにせよ、まぎれもなく今桃の頭をはたいたのは自分の手であった。
逃げた。
頭を真っ白にして逃げ出してしまった。


走りながら、後ろの気配に耳をすませながら富樫は声に出さずに自分に言い聞かせた。
(女じゃねぇんだ)
その通りである。見てくれだって中身だって女にはなりえない。
(女じゃねぇんだ)
女ではない。だというのに。
(何で俺は逃げてんだ)
その答えを富樫自身も知らない。ただ桃のあの、不思議そうな目、微笑んだ目、切れた唇を見ていられなくなって逃げ出してきてしまった。
(これじゃまるで女じゃねぇか)
きゃあこれってキス?と真っ赤になって口を押さえて、そこから恋をはじめるような女のようだと自分を忌々しく思う。
そろそろ足にも疲れがたまってきて、自分の足同士がもつれあう。転ばないようにだけ気持ちを払って逃げ続ける。
(なんで俺ァ逃げた、そうだ、桃の野郎が笑ったりするからだ)

あの時確かに桃は笑った。その笑みが、富樫にどう見えたかである。
『気にするな』
の笑みには見えなかった。そう見えたんならその場で悪ィな桃と謝っている。
何に見えたか、富樫はかわいて張り付く喉をガラガラ鳴らしながら頭の中の桃を引っ張り出す。


『何意識してるんだ?』


そう問われたようで背中が冷えた。
そうとも、ただ口がぶつかっただけだというのに何を意識してるのかと見透かされたようで恐ろしくなったのだ。
富樫は疲れて動きの悪くなってきた腕を走り出したときのように大きく振った。
(別に、桃をどうこうしたいとか思ったわけじゃねぇ)
それは真実だ。真実だと富樫は思っていた。もう足も高く上がらない、心臓が破けそうで、酸素不足で涙が目尻に出てきた。
(だってのに、なんだって俺ァ逃げたんだ)
わからぬ。わかりたくないのか、それとも本当にわからないのかわからないまま逃げる。
(なんでだ)
寒々しい校庭の色味に欠ける風景がにじむ。息を大きく吸い込んでも、走り出した当初のように吐き出した息を置いてきぼりにしていないのでさっき吐いた息がまだ口元にわだかまっている気がする。どこか酸素が薄い気がした。
セイセイと喉が鳴る。

何故逃げるのか。
何故走るのか。
何故走らなければならないのか。

後ろから桃が追いかけてきているからでも、ある。

(あいつ、何でおっかけてくんだよ!!怒ってんのか、やっぱ)

申し訳なさは確かにまだ胸に残っている。が、立ち止まって振り向くタイミングはつかめないままもう富樫は男塾の庭を何周にも回っていた。いまさら何をどうしろと言うのか。汗だくの富樫に考える余裕はない。
桃は、男塾一号生筆頭剣桃太郎であれば富樫の根性補正をさっぴいたとしても、まだ富樫を捕まえられないということはない。だというのに桃はこれだけ富樫を追いかけ続けていて、捕まえる気配はない。

とうとう、富樫の足がもつれた。校庭の水っけのない土に顔から倒れこむ。立ち上がろうとしたが足がびくびくと痙攣を起こしていて言う事を聞かない。
「富樫、大丈夫か」
自分と違い落ち着いた、だがさすがに息の乱れを感じ取れる声がすぐ横から降ってきて富樫は首をすくめる。まず第一に富樫を気遣うその性根、それこそ富樫がほれ込む男そのものであった。が、顔を上げられない。うなだれた頭から兄貴の学帽が根負けしたようにとうとう滑り落ちて、白い土に汚れた。
爪の丸い指がその学帽を拾って、定位置である富樫の頭に返してくれるかと思いきやその指に掴まれたまま。

富樫はとうとう顔を上げた。
冬とはいえ太陽を頭の上に頂いた桃の表情は見えづらいが、やはり笑っているように、それも笑い出したくてたまらないというように富樫には見える。
その指先に学帽はひょっこりと捕らわれてしまっていて、風にふらふら揺らされていた。
桃の頬もさすがに赤みを帯びていて、二人してこの冬の寒さの中で湯気を立てるほど汗をかいている。
「足大丈夫かって聞いてるんだ、富樫」
「も、桃――」
何か言おうとして、笑みのかたちの唇の端に赤黒い塊を見つける。血である、さっき富樫が歯で傷つけた傷口。それを見たら口は自然と閉じた。
二人の間には落ち着きを取り戻そうとする呼吸音が風と一緒に流れ去っていく。
(こんな女々しいなんて、俺はどうしちまったんだ)
「な、何でおっかけたりすんじゃ」
口からようやく出てきた言葉ときたら富樫らしくもない、つまり男らしくない言葉。桃の笑みが小さくなる、ウン、と喉の奥で唸ったのが見えた。
「富樫が、逃げるからさ」
「ウウ」
いきなり逃げ出した親友を追いかけるのは当然に思えた。
「それに、お前もどっかケガでもしたら悪いだろう」
「俺は別にどっこも悪かねぇよ」
そうか、と桃はまじりけのない安心のため息をもらす。ハチマキにシミを作るほどかいていた汗を手の甲でぬぐいながら、
「ならいいんだ」
そう簡単に言う。
富樫には言葉もない。

富樫はますます申し訳なくなった。
「悪かったな…ソノ、おめぇがいきなり笑うから、ちっとびっくりしてよう」
「笑う?」
「ああ、笑ったろ。…なんでだ?」
緊張も、さっきまでのこだわりもなんとなく溶け出してきていて富樫は大きく息をひとつして肩の力を抜いた。校庭に学ランが汚れるのもかまわずあぐらをかく。足は酷く痛んだ、肉離れか何かとりあえず軟弱だといわれてしまうような何かを起こしているらしい。
秋の空から青味が抜けて白くかわいている空、一つまぶしい太陽に目を細める。

「いや、覚えてないな」
その答えは富樫にとってとても嬉しい、受け入れたい答えだったので、そうかよ走らせちまって悪かったなといつもの富樫らしい口をきいた。
汗をかいたからだに、さっき振り切った寒さが遅れてやってくる。
「あーあ、足がイテェ」









「……で?」
風呂をあがるなり毒づいたのは伊達であった。イライラしてるな、と桃は冷静に観察する。原因は桃にある。
風呂の最中気の無い伊達に今日の顛末を話して聞かせる桃に、伊達はイライラを募らせていた。
伊達も桃も風呂場を出たばかり、隙間風の差し込む寒い脱衣所で湯気を立てながら寝巻きに着替えながら向き合う。
「で?って冷たい奴だな、富樫の顔ったらなかったぜ。ウサギのように逃げていくんだ」
「それはさっきも聞いた。見てたってんだよ、お前と富樫がぶつかるところからな」
別に見たくて見たわけじゃないがなと言いおくあたりが伊達らしい、桃はふうんと湯上りの髪の毛を手ぬぐいで雑に拭いて相槌をうつ。
桃は声も気配もなにもかも弾ませて、伊達の肩を叩くと脱衣所を一足早く出て行く。伊達はうんざり顔で見送った。
「富樫の奴肉離れだとよ、今日の晩あたり熱を出すかもしれないな。冷やした手ぬぐいでも持っていってやろうか」
解放された伊達、見たくもないが一部始終を見ていた手前である。

何が「覚えてないな」だ。
毒づく。
あれはどうみても、「もうけた」だ。口がぶつかっちまったあたりまでは事故だというのが伊達にもわかった。
が、あの後富樫をおいかけまわす桃のはつらつぶりときたら!わざわざペースまであわせて、富樫が立ち止まるまで追い掛け回し続けたあの行動を伊達は根性悪と評す。
桃はそう仕向けた意識はないだろうが、このところ富樫が桃を意識するようになったのが嬉しくてしかたないらしい。
まあ、俺には関係の無いことだが。伊達はそう締めくくって、手ぬぐいを持って自室へと戻る。
伊達が入ろうとしたところに、同室の虎丸が出てきたのと鉢合わせになる。虎丸は風呂でもないのに手にタライと手ぬぐいを入れてどこかへ行こうとしていた。
「おお、伊達ェ!富樫のヤツ肉離れだってんで、今日は虎丸サマが看病でもしちゃろうと思って」
「あ?」
「桃一人じゃ大変じゃろ、だから俺もあの部屋に泊まりこんでやるんじゃ」

馬鹿野郎!!伊達は闘気を全身にめぐらせながら怒鳴り、まるっきりわかっていない虎丸の尻をびゅんと蹴った。虎丸は尻を押さえながらなにがなにやらわからずにしきりに伊達の悪口を言ってうらんだが、
「馬に蹴られるより、もっと酷いことになるのを助けてやったんだ。ありがたく思え」
そう必死に意気込んでいわれて、なんとなくおうとうなずいてしまった。涙目で。
伊達が自分を思ってくれたということだけは伝わったので、その他は些事だと思って気にしない。そういうところが虎丸のいいところであった。



その夜、一号生富樫源次はひどい高熱を出した。
が、一号生筆頭の献身的な看護によって回復の状態にむかいつつある。
モクジ
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