パブロフの犬効果を狙う

俺のことを好きだって一言、言えばいいのさ。
そうすりゃすぐに春が来て、それからずうっと春のまま。

親友にして自分が知る中で、一番と言わざるをえない男は自信満々にそう言った。
「ケッ、うぬぼれてんじゃねぇや」
俺はそう言う。そうとしか言い様がなかった。
何をいきなり、秋の朝っぱらから言い出すんだと思った。大体タイミングってモンを知らねぇのかと思うような切り出し方だ。
俺は歯を磨いていたし、桃の野郎は顔をざぶざぶ洗ってそれで手ぬぐいで顔を拭いていたところだったのだ。
そんなタイミングで、「認めちまえよ」はねぇだろう。俺が仮に女だとしてもこれはねぇ。
いや、違うのか?
俺は迷う。
もしかしたらこんな言い方でも女はコロリと行くかもしれねぇ。
なんと言っても桃は顔が良くって顔が良くって、その上性格もいいし、強い。
でもって頭もいい。
惚れない女はいねぇとは言わねぇが、好きにならないにしても嫌う人間ってのはいないんじゃねぇかとも思う。
「あんまり見つめるなよ、照れるだろ」
涼しい顔してよくいうぜ、テメェなんかいくら見つめたっていやぁ、の一言で頭掻いて終わりだ。
それ以前に見つめてやしねぇ。絶対に違う。
「そんなタマかよ」
俺は桃に背中を向けて歩き出した。長い廊下の向こうで虎丸が朝っぱらから騒いでやがる。よくも腹が減ってるってのにあんなに騒げるんだか。
そうだ俺は腹減ってるんだよ。
今日の朝飯は何だ。
どうせロクなもんじゃねぇのは分かってるが、それでも何か腹にあったけぇもんを詰め込みてぇ。
桃のことをすっかり忘れていた。



昼飯前になれば気温も上がる。春のようにぽかぽかというわけではないが秋のすがすがしさはある。
富樫は机に突っ伏しながら、誰ぞが彫って開けたらしい机の穴ぼこに指を突っ込んでいた。
「あー…腹減ったぁー…」
結局朝はあまり食えなかったのだ。それというのも桃のせいだ、隣に座るとあれこれやくたいもないことを話しかけてくるのでそれにいちいちかかずらっていたらいつも三度はするはずの麦飯のお代わりをしそびれた。
桃のせいだ。
腹が鳴る。秋は美しい季節だとかテレビで言っていて、日光の紅葉が目のごちそうだとか。
そんなもんいらねぇや、俺は腹にたまるごちそうを食いてぇよ。
また、腹が鳴った。
「飯に行こうぜ富樫」
声をかけてきたのは桃だった。気がついた時には教室には富樫と桃の二人だけになっていた。薄情な友人たちはぼうっとしている富樫を置いてさっさと飯に行ってしまったらしい。
「おお、なんじゃ俺は置いてきぼりかよ」
「フッフフ、お前が何べん呼んでも返事しねぇからさ」
立ち上がった富樫、空腹すぎて脚がたたらを踏んだ。桃の手がすかさず身体を支えてやろうと腰に伸びてくる。下心があるのやらないのやら、富樫はそこまで勘繰る男ではなかった。
「うおーっ、と、やべぇやクラクラしやがった」
「俺に?」
「違わい」
ベシッ、と乱暴に桃の手を払った。あのまま腰を支えていれば疑いもしなかったというのにわざわざこういうことを口にする桃がわからない。いや、黙って自分が気付かないのを良い事に腰を抱かれ続けていたらそれはそれで嫌だがと富樫は混乱する。
「桃ォ、てめぇはそういう冗談を」
「冗談なんかじゃないぜ?好きだ富樫」
富樫の言葉を遮って桃は一息に言った。腹減ったな、行こうぜ、なぁ富樫、それらと同じトーンで告げられたいわゆる『告白』に富樫は拳を桃の面に目掛けてはなった。腹が減っていたし気が立っていた、ここのところ毎日のようにそうされているのだ。
「おっと」
当然だがその拳は桃の手の平に包まれるようにして受けられてしまった。そのまま手首を掴まれて引き寄せられる。いきなりのことで踏ん張りきれず、地引網にかかった魚の富樫は桃に鼻先1センチにまで顔を近づけた。桃の目がすぐそこにある、その目はいつだってきれいだと富樫はついつい思ってしまう。
「認めろよ富樫、お前は俺がきっと好きだ」
「ば、ばぁろォ俺ァ、」
富樫の口からツバが飛ぶ。桃は手で汚い奴だなといいながら拭った。
そのため緩んだのを見逃すまいと胸を突き放すようにして身体を離す。耳や首までごごーっと赤くなっている。
桃が男前過ぎるのがいけねぇんだと富樫は誰にでもなく言い訳をした。あんなふうに見つめられたりしたら誰だってそうだ、俺は悪くねぇと心の中で大声を上げる。
桃は笑っていた。
焦りがじんじんと疼いて大きくなる。もしや俺ァホモだったのかよ、富樫は盛大に焦った。

焦って、訳が分からなくなったせいで逃げた。
普段人でごった返す廊下は誰もいなくて走りやすかった。桃から逃げる。敵前逃亡は死刑と言うが、桃は敵じゃねぇと無理矢理にこじつける。
何故人がいないか、それはこの時間皆食堂にいるからである。
富樫は食堂に行けばもしや桃とまた会うかもしれんと食堂には行かなかった。
そのせいで、昼飯を食いはぐれた。

空腹は深刻だ、胃腸がそろそろ何か入れてくれと盛大に騒いで午後じゅう富樫を苛んだ。




授業に身が入るわけもない。隣には桃もいるのだ。
机に伏した富樫は何度目かわからないため息をついた。はぁーあ、あ、あふ。ため息は途中であくびに変じた。
あふ。
これだけ口を開けたら、ワニだと勘違いした小鳥がやってくるかもしれない。腹が減ったら眠くなるのは体力を消耗するのを避けるためだったか。
腹が減った。
この際なんでもいいから口に入れて、ひもじさをしのぎたい。食欲の秋なのだ。
と、となりの元凶を見やった。ジャンプを顔に載せてすやすやと眠り込んでいる。
チッ、いい気なもんだぜと富樫は一人毒づいた。自分はこんんんんなにひもじいのに、一人安らかにすいよすいよと眠っている桃に腹が立った。
しかも空腹の原因はその桃自身。腹が立ったのでそのジャンプを手で払い落としてやった。ジャンプが桃の顔の上から滑り、床に落ちる。
桃の目は開きはしなかった。
「………ケッ、」
悪態を誰彼かまわず吐き散らしたい気分になった。頬杖をつく。色艶の悪い頬の肉が手の平で持ち上げられて一層顔をブサイクにした。
桃は安らかに眠っている。ぐうぐうと子供のようないびきをかいて、頭をのけぞらせるようにして規則正しく寝息を立てて胸を膨らませている。
やめときゃよかった、富樫は即座に後悔する。どうして自分ときたらやらないとわからないのか、それは頭が悪いから。それは認めるわけにはいかない。
ジャンプが取り除かれたので、見たくないはずだった桃の顔がすぐ横の席にあらわれてしまった。
富樫は眼を逸らせばいいものをそれはしゃくだとわざわざ睨みつけた。
頬がいかにも柔らかそうだ。腹が減っているからか富樫はそんなことを思う。
腹が減っているから力も出ない。
脱力したまま富樫はその憎たらしい顔を睨んだ。
「………フッフフ」
寝息をもらしていただけの、薄く開かれていた唇が不意に笑みの形を作った。恐るべきことに笑い声まで立てている。
富樫はぎょっとして頬杖を外して背筋を伸ばした。
「お、起きてやがったのかよ」
「お前が日よけを外しちまったからな」
日よけ、ジャンプが床に落ちたため桃の顔にはほろほろ日光が注がれていた。夏のようにガンガンと眩しいものではないにせよ昼寝の邪魔ではある。
しまったな、富樫鼻の頭に皺を作った。これじゃ俺が、桃の寝顔見たさにジャンプのけたようにしか見えねぇ。
「認めろって」
「てめぇのそういう所が俺は嫌いだ」
くっくと喉を鳴らして笑う桃は意地悪そうだった、こんな笑い方をされると負けず嫌いの富樫はぐつぐつ煮えてしまうのだ。ちくしょう俺は絶対に認めやしねぇぜ。なぁそうだろう、そう決心すると腹がぐうと応えた。
空腹過ぎて、もうそろそろ富樫の根性も磨り減りそうだった。






フッフフ、
フッフフ、
フ、
桃は上機嫌で校庭を歩いている。
ああ秋だなあ、どこかで焼き芋屋の呼び声がする。虎丸に後で教えてやろう、喜ぶだろうな。ぐんと伸びをしたら、寝ていたぶん耐えていた背骨がこっきこきと鳴る。
すがすがしい、胸に深く空気を吸い込むと土の匂い。
土の匂い、一口にそういっても春夏秋冬それぞれに違う。夏のあの青臭い鼻にむわっと来る草の匂い交じりのじくじく湿った土ではなく、枯れ草に枯れた土のかわいた匂い。
桃は足を向ける先を探した。ぐるりと校庭の真ん中で見渡してみると、伊達が木陰で本を読んでいた。行き先が決まった。
「伊達ー」
「あんまり面倒起こすんじゃねぇよ、馬鹿がうるさくてかなわんぜ」
本から顔を上げず、桃が側まで寄ってきた途端に突き放すような言葉が降ってきた。桃が首を傾げると、ちっと伊達は舌打ちして顔を上げる。
「わかってる癖にトボけんな。富樫が心配だ心配だって騒ぐ馬鹿がいんだよ」
馬鹿、伊達の言う馬鹿は虎丸だ。桃は笑った、俺の馬鹿は富樫だな。
「なんだってわざわざああやって逆立てるようなことを言うんだ?」
「俺は別に、事実を言ったまでさ」
桃は腰を下ろすと伊達のすぐ横に座った。ぴったりとくっついてくる、腕も肩も足もぶつかった。伊達はこの桃という男の『許せる距離感』における感覚の違いに戸惑う。体温の高い桃、伊達の二の腕がその体温を吸って少しだけあたたかくなった。
「富樫は早く気付くべきなんだ」
そんな言い方ってあるかよと伊達は奥歯の辺りでぐむと唸った。他の誰がそんな物言いをしたらたちまち叩かれそうなのに、桃が言っているとなるとそれがあながち間違いでもなさそうに思えてくる。
ああ俺もこの男に惹かれてしまっているのだ、伊達は今更なことにようやく気付いた。
桃だから、
そんな一言で全てするりと片付いてしまう。今更今更、恐ろしいやらものすごいやら。
「回りくどいことしやがって、さっさとくっついちまえ」
吐き捨てるようにして言った。吐き出したら自分がおせっかい焼きの仲人したがりのように思えて自己嫌悪。お兄様を演じるなんざ柄じゃねぇ、伊達は桃から尻をずらすようにして少しばかり離れた。
「まだ勿体ねぇ」
よりにもよってそんなことを、伊達はさすがに呆れる。呆れの中にわずかばかり、自分には到底いえそうもないセリフだといううらやましさも潜んでいた。
「てめぇはなぁ…」
「だって、付き合い未満ってなかなかいいものだろ?」
付き合うことが前提なのにも伊達はもう何も言う気になれない。確信だけがある。未来の結論だけがある。そして今目の前の男はそこまでの過程をいかにロマン溢れるものにしようかとそれだけ考えているのだ。
まったく自分によほど自信があるのか、それとも相手がそれだけ自分を好いているという確信が強いのか。
「毎日毎日冗談言うんじゃねぇって、富樫も酷いぜ」
桃はますます伊達に寄りかかってきた。大きな猫だ、伊達は左肩がずっしりと重たくなった。寄りかかっている桜の古木の幹が擦れて剥れぽろりと皮を伊達の開いていた本に落ちてくる。
木の皮を払い、桃のわき腹を肘で打った。
「冗談みてぇに言うからだ、軽いんだよてめぇの言い草は」
なんだって俺はこんなアドバイスをくれてやってるんだろう。つくづくに桃は応援されやすい男だ、まったくな。
「フッフフ、そのうち『冗談だから怒ってたのか』って言うつもりさ」
事も無げに言ってのけた。桃のクセ毛が伊達の頬に触れた、はっとする。いつの間にこんなに近づかれていたのか、相手に警戒心を抱かせないその手腕は生来のものだろうがなんにせよ得な男だ。
すり替えだろそれは、それは違うだろ。何が違うと説明するのも難しいが。
「てめぇ…それは違うだろ」
「きっかけになるんなら何だっていいさ、これで真剣に考えるだろう」
「そんなことばっかりしてると、今に愛想つかされるぜ」
いっそ尽かされてしまえ。
桃は一瞬きょとんとして首を傾げ伊達の顔を見ている。むず痒くなるような視線だった。
「読み違えることだってあるだろうしな」
「それはないな」
反論は敏速だった。思わず桃の顔を見ると真面目そのもの、
「ないっててめぇ」

「俺が富樫のことで間違えることなんかありゃしないさ」

当然だと、
むしろそんなことあるわけもないと、一号生筆頭は言い切った。意気込みのようなものはない、ただ当たり前の事をいうように言った。
伊達はあっけにとられて、じゃあなと桃が言って去っていくのをただ見ていた。
やっぱりただモンじゃねえやとしか言いようもない。
ただただ、疲れた。
富樫が哀れにも思える。
が、よくよく考えてみればどうでもいいことにも思えてきた。
伊達だって本当はわかってるのだ。が、あんまり桃がいろいろ根回しをするものだから。
もしかしたら本当は桃だって、少しばかりは不安なのかもしれない。
絶対に両思い、わかってるわかってると自分に言い聞かせながらもそれでも最後の0.1パーセントが不安で小細工をするのだ。
相手は富樫だ、絶対の通用しない男。
そんな男相手だ、我らが筆頭だって本気の本気になるのだろう。
伊達は空を見上げて呟いた。
憎たらしいほど空が高い。
なぜ秋の空は高いのだったか。ただホームランボールがどこまでも飛びそうな空だ。
そんな空へ餞別のようなことを呟いた。
「あきらめな富樫、てめぇは多分、桃が好きだ」








「富樫、今日は俺のせいで飯を食いそびれさせて悪かったな」
富樫は返事をしない。外に出て動けばまた腹が減る、富樫は自分の部屋で腹をぐうぐう鳴らしていた。
「悪かったって」
「うるせぇや」
本音を言えばいつまでもこうして拗ねていたってよかった、が、あんまり拗ねているとそれだけ気にしているということにもなりかねない。富樫は仕方なくもう気にしてない証に桃へ向き直った。桃がほっとしたように見えて、ああ俺やり過ぎたかなと富樫はさっそく桃にたぶらかされかける。
人たらしだ、剣桃太郎という男はまったくたいした人たらしだ。
桃は膝でにじり寄って、富樫の側に近づいた。富樫はここで避けるのも露骨過ぎるかと思って後ずさりしそうになるのを耐えた。
「その代わりと言ったらなんだが、飯より腹に溜まるモンを教えてやろうと思ってな」
「ああ?」
「これだよ」

桃はまばたきよりなお速く富樫の顎に手をかけた。
富樫が悲鳴を上げる暇もなかった。
モクジ
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