ささがき細切り、舌びりり。
わしの秘書なら、家事くらい出来なくてはな。
塾長が富樫にぶつけたのは言葉だけではない。真新しい雑巾もあわせて投げつけられた。
昨日富樫は一枚障子を破いたし、ジャガイモを剥くのに指を三度切った。
こういうことするために秘書になったんじゃねぇんだけどな。
富樫はぼやく。たらいには分厚く赤い皮が積もっていた。人参の皮は実とガッチリ結託してしまっていて、中々剥きづらい。無理に剥こうとすると実も一緒になって削げてくる。もういいやと富樫は削るようにして人参を剥いていた。
「あーッくそ、ちきしょッ」
鉛筆をナイフで削る要領でようやく一本人参を剥ききると、がっくりと頭を落とす。隣には人参よりも更に細い牛蒡が順番を待っていた。
「早ェとこ剥いちまわねぇと、夜が明けちまうぜ…」
午前四時、秋の早朝である。
富樫は人参牛蒡を剥ききるまでに合わせて三度指を切った。
先日のジャガイモよりは成長のあとが見られる。
「えーっと、たしかこれで、細く…」
一つ一つの工程を口で呟いて確認しつつ、まずは人参を細切りに。
手に馴染んだドスと違い、出刃包丁は中々言うことをきかない。つるんつるんと富樫の手の平から逃げようとする人参を捕まえてまな板へと押し付け、そうっとそうっと切っていく。時間をかけて、ゆっくりと丁寧に。
富樫はそういう作業には全く向いていない男だが、雇い主の塾長の命令となれば仕方がない。
ささがきを終える頃には、六時を回っていた。人参牛蒡を切っただけ。まだ飯も炊けていないし、味噌汁もできていない。
「あ、やべぇ!もうそろそろあのハゲ起きてきちまうじゃねぇか」
あのハゲ、目の前ではとても言えるわけもない。富樫は殊更に憎憎しげにハゲと呟くとエプロンをかなぐり捨てた。
嵐のようなイビキが家中に響いていた。
男塾塾長、江田島平八の目覚めも間近である。
目覚めであると書いたが、目覚めさせるのは塾長秘書見習い富樫の役目であった。
「これが面倒なんだよなぁ…」
ぼやいた。ぼやいてどうなるものでもない。
朝、七時十分前。
塾長、塾長、チィッくそ起きねえなチクショ、オイ、コラ、ハゲ。
ハゲ、のゲを言う前に飛んできた拳骨はまともに富樫の顔面を捉えた。富樫、鼻血を噴いて二メートルは飛ぶ。
ンだよ起きてたんじゃねぇかよ、クソ。
心の内は顔に出る。よたよたと布団の傍まではいずっていくと、塾長の馬鹿でかい目はぎかりと開いていた。しっかりと起きている。
「ぼはようぼばいばず」
もちろんおはようございますと富樫は言ったつもりである。平時であればそう聞こえる。
だが富樫の顔面は腫れあがっていた。ジャガイモにも似ていた。
「うむ」
一言答えておいて、塾長は布団を跳ねると起き上がり大きく伸びをした。富樫はその間に布団を素早く畳んだ。先日布団をそのままにしていたら「眠い」の一言で再びもぐりこまれてしまいそれっきり眠ってしまったのだ。客は怒るし塾長は「眠りすぎたせいか肩がこった」と文句を言って一時間も肩揉みをさせられたことは記憶に新しい。
塾長が起きたらすぐに布団を畳んで、食事の間に干す。それが一番いいということをようやく学んだばかり。
「朝飯は出来ておるか」
「まだです」
塾長の眉毛が生き物のように吊り上がった、口がむっと突き出される。富樫は一歩引いた。ついでに後ろ手で障子を開け、退路を確保。
「何をやっておるかッ!さっさと支度をせい、支度を――!!」
まさに銅鑼声、富樫は耳をくわんくわんと揺らしながら怒れる塾長から逃げ出して調理場へと戻って行く。
「わしが男塾塾長、江田島平八である!!」
庭にずいずいと出て行って腕を組んで朝の日課である。ちょうどきっかり朝七時。ある家ではこれを合図に子供は飛び起き、ある男はこれを聞いて家を出る。
富樫は必死に鍋へと味噌をブチ込んで味噌汁を作っていた。
そしてまた、縁側の上がり口に足を拭くための濡れた雑巾を出しておくのを富樫は忘れている。
六畳ほどの質素な和室に富樫は塾長と向き合っている。秋の太陽は大人しく差し込んでいて、いかにも洗濯物日和であった。
一人膳の上に並んだ朝飯を睨みつけるとかしこまっている富樫に問いかける。
「今日はどうだ」
聞かれたくない質問に、富樫はふてくされたように眼を伏せ頭を下げた。
どうだ、とは朝飯の出来栄えである。富樫がこの家に秘書見習いとして住み込み、塾長の食事の世話をするようになって毎日尋ねられることであった。
朝四時から必死に作ったのはきんぴら牛蒡、急いだため歯が折れそうなほど硬い白米、それから具を探すうちに煮詰まって苦いほど塩辛い味噌汁。結局具は苦肉の策で玉子を溶いて流したきりである。沢庵だけはそれこそ腐るほどあったので、ごまかしの意味を含めて小鉢に山と盛り付けられていた。
魚は間に合わなかった。
富樫は頭を下げたまま言った。
「申し訳ありません」
「塩辛いな、煮詰まりすぎである。玉子は溶かずともよい」
味噌汁について塾長は言った。富樫は唇を尖らせる。
「甘い」
きんぴら牛蒡について塾長は言った。富樫は見えないように歯をむき出した。
塾長はきんぴら牛蒡を箸でつまみ上げたまま付け足した。牛蒡はささがき、人参は細切り。兄の得意料理であった。作るところは山と見てきたはずなのにいざ作るとなると難しさを痛感する。兄のようには到底いかなかったが、それでも出来うるかぎり丁寧に作ったのではあったが。味付けに関しては見よう見まねである。だが、明日こそはなんとかなりそうだとほのかな自信はついていた。
「丁寧に切れ、火の通りが均等でない」
「はい」
毎日しているのに慣れる素振りもない正座に足が膨れて痺れ始めた。心折れて萎れた富樫はこっそりとふくらはぎをつねる。感覚がなくなりかけていた。ちぇ、明日を見てろよハゲ。富樫は毒づく。
「硬い、飯もまともに炊けんのか」
「……申し訳、ありません」
飯だけは明日、きちんと炊いておこう。富樫は決めた。大体最後に炊こうとするから時間がなくなるのだと自分を責めた。どうせ炊飯器まかせじゃ、夜からセットしとけばいいぜ。
「魚は」
わし、わし、と見る間に茶碗によそわれた飯は一口ごとに塾長の口へと消えていく。ずい、と差し出された空の茶碗はおしゃれな店の丼ほどあるものだが、それに富樫は傍に用意してあるお櫃から山と飯をうず高く積み上げた。
「間に合いませんでした」
正直に富樫は白状した。ぎろりとその目玉が富樫を睨む。首をすくめた富樫はしぶしぶこう言った。
「明日ァ、ちゃんとやります」
「うむ」
言ってしまったからにはやらねばならない。さて、アジでもイワシでもいいが失敗のなさそうなものを選ばねばなるめぇと富樫は頭の中の魚を検索する。
魚を焼いたことなど無いが、とりあえず干物ならだいぶ水分も飛んでいることだし、多少ナマでも塾長の腹ならば大丈夫だろうと勝手に決め付けた。
結局なんだかんだ言いながら塾長は朝から三合の飯を食らい、塩辛い味噌汁をまずいまずいと文句をつけながら飲み干した。
小言か解放されて後、背中を丸めて皿を洗いながら富樫は落ち込んで明日の朝を憂鬱に思う。
だが、まだ朝である。
富樫はこれから始まる掃除やら雑事やらに頭をしんしん悩ませた。
毎日毎日こうも文句を言われつづけては面白くないのが人の性。よくよく考えてみりゃ俺ァ秘書になるとは言ったけど家政婦するなんて言ってねぇや。あのハゲもしや家政婦代ケチって俺をこき使ってるんじゃねぇだろうな。富樫は疑いを抱く。トイレ掃除の最中であった。サンポールが目にシクシクと染みて、涙が頬を伝う。貰いモンの素麺があったな、明日の味噌汁はにゅうめんにしちゃろう。自然と献立を考えている自分がどうにも情けなかった。
他の塾生達が充実した毎日を送っていると思うとたまらない気持ちがした。
「あーあ、桃や虎丸はウマイことやっとるんだろうぜ」
先日会ったばかりの戦友虎丸は持ち前の世渡り上手さと愛嬌と機転で、金融業界の出世頭だと息巻いている。それが本当かウソか位見抜けない仲ではない、本当に虎丸ときたら出世しているのだ。だというのに飲み代はワリカンで富樫はケチくせぇやつだと文句を言ったけれど本心は、まだ対等だと言われているようで嬉しかった。
桃とはしばらく会っていない。だが政治家としていいスタートを切れているということは虎丸や他の塾生からも聞いているし、何より富樫自身が誰より信じている。あいつは大丈夫さ、絶対。
だというのに自分はどうだ、富樫はサンポールの蓋を閉めて水を流した。泡と汚れとそれから涙が下水へごうごう流れ行く。
だというのに、自分は毎日飯炊きに掃除だ。
このままでいいのか、富樫は珍しく真剣に考え込み始める。
と、
「富樫、茶が切れておるぞ」
叫んだわけでもないのにこの声量。富樫は頭をぶっつけられたように声に打ちのめされ、それから綺麗ピカピカになったトイレを出て調理場へと走った。
チクショウ。
チクショウ。
その日富樫は茶がぬるいと言って叩かれ、それから魚がコゲていると叩かれた。
飯炊きだけは、どうにか上手く行ったのが幸いである。
その日富樫はなにもかも悲しく面倒になってしまって、少し心の中でだけ泣いた。
「あらお兄さん、毎日毎日大変ねぇ」
庭に出て洗濯物を干す富樫へ塀越しにそう声をかけてきたのはつり目の、若い女だった。細くなよなよとした女だった。
「誰だよテメェはよ」
「あら嫌だご挨拶ね、お兄さんのトコのセンセがゴヒイキにしてくだすってるのに」
「あん?」
「『きよら』の仲居やってるのよ。会ったことだってあるわ」
拗ねてみせる女の顔を覚えるのは難しいことだった。富樫のように元々女に縁のない男にとっては特に難しい。女の細い目がさらに細くなって微笑みの形を作った。
きよら、という近所の古料亭を塾長が気に入っているのは事実で、自分も何度か連れていかれたこともあった。
富樫は悪かったよと詫びて、それから尋ねた。
「で、何か用か」
「ええ」
女は木塀越しに木製の岡持ちを掲げて見せた。
「ウチ、仕出しもやってるのよ。お兄さん毎日毎日飯がまずいって怒鳴られてるの聞こえたからサ、ウチの店が仕出し持ってきてあげようかと思って」
富樫は思わず洗濯物も放り出してかがめていた腰を伸ばす。本当かようと怒鳴ってから女の顔をまじまじと見る。食いつきかけて、すぐに首を左右にぶるぶると振った。きよらと言えば老舗の料亭、秘書見習いごときが毎日仕入れられる値段であるはずもなかった。
「俺ァそんな金もってやしねぇぜ?テメェんトコの料理毎日出前なんてサイフが持たねぇや」
「だからァ、お兄さんトコのセンセイに毎度お世話になってるって言ってるでしょ。ウチの女将さんがそうしておやりって言うから来てあげたんじゃない」
「ほ、ほんとかよ」
女の頬が膨れた。もともと細い女だったので大して膨れたようにも見えぬ。
「ウソだと思うんなら女将さんトコ電話して聞いてみなさいよ、ホラ」
木塀の上から女の折れそうなほど細い腕が伸びて、紙切れを出してきた。受け取ってみるとそれは流麗な文字で『きよら』と書付られた箸の袋で、下に電話番号が並んでいた。どうよ、と言いたげに女は胸を張った。
「明日ッからでいいのね?」
「あ、ああ…」
見覚えがある箸袋に富樫の顔から強張りが解けたのを見計らい、女は確かめるように尋ねた。気圧されたように富樫は頷く。
女はそれじゃ、と一度は背中を向けたが振り向いた。
「そうだ、アンタんトコのセンセイ食べられないモンは?」
「ねぇよ、出されりゃ石だって食うぜ」
思わず答えた時には女は随分離れたところにいて、それじゃあねと大きく声を上げてて手を振った。
それをぼっと眺めていた富樫は虚ろに、買ったアジが無駄になっちまったなと頭をかいて空を見上げた。
秋だというのにどうにも鬱鬱とした空で、ちっとも晴れやかでない。
『ハイ、きよらです』
電話に出た声は太く、男のものであった。
「とが、いや、江田島だけど」
『ああ、ウチのモンが今日行きましたか』
太い声が明るい声音で尋ねてくる。富樫は胸を撫で下ろした。
「おう。あのよ、本当にそれでいいのか」
『もちろんですとも。先日も江田島様には大変お世話になりましたので』
「……そんなら、頼まァ。あの」
『それでは明日朝六時に、ウチのモンがお伺いいたします』
「じゃ、じゃあそれで」
『かしこまりました』
電話は切れた。
富樫は久しぶりに夜、米を研ぐことも鍋に味噌汁のために水を張ってニボシを入れることも、そして冷凍にしていたアジを解凍することもしなかった。
「おはようさん」
女が差し出す木製の岡持ちを受け取りながら、富樫は頭を下げた。
「悪ィな」
「それじゃ」
女はそっけなく手を振って、朝靄に消えて行った。
今日も晴れない。うすら曇りの朝である。
調理場に戻ると岡持ちから料理を取り出した。
さすがに料亭の料理、見事なものである。だがあまりにも見事すぎた。
黒椀に白い飯、化粧塩の見事な鮎焼き、生麩と豆腐のすまし、昆布の佃煮、そして、
「きんぴらじゃねぇか」
針のように細い牛蒡と人参、それに牛のそぼろ入りのきんぴら牛蒡が入っていた。鷹の爪が散らしてある。
「へぇえ、こりゃ豪勢だな…」
湯気こそ立っていないものの、見るからにうまそうである。富樫は思わず箸を用意して、そっときんぴらをつまみ上げた。
蛍光灯にすかしてみる。きんぴらだけは上手く作れるようになりたい、富樫はつぶさに眺めた。
「こんな細切りにするモンか?兄ちゃんのはささがきだったけどな…これなら人参もささがきに揃えちまうほうが良さそうだぜ」
共に細切りにされたきんぴら牛蒡はいかにも料理人の手によるものに見えた。兄のあの太い指のこしらえる甘辛いきんぴらが無性に懐かしい。
一口だけ、富樫は口を開くとそのきんぴら牛蒡を舌に乗せた。
びりり、と痺れる。結構唐辛子利いてんなぁと富樫は眉をひそめる。ろくすっぽ噛まずに飲み込んだ。
「なんでぇ、これのどっこが料亭の味だよ」
兄のどころか、先日作った自分のほうがまだましだとすら思える。先日から何度も改良に改良を重ねたきんぴらは塾長の文句も減ってきたくらいの出来栄えになってきていたのだ。壁の時計を見上げる、塾長の起床時間が迫っていた。
「あーあ、それじゃそろそろセンセイを起こすとすっかよ」
足を一歩踏み出しかけて、そのまま前のめりに倒れた。顎をしたたかに調理場の冷たい石床に打ちつける。目から火花が出た。
え?
え?
足、痺れていたか。
昨日、疲れていたか。
頭、ぼうっとしていたか。
どの問いにも当てはまらない。誰も見ていないのに転んでしまった恥ずかしさ以上に、転んだ瞬間とっさに動く気配すら見せなかった両腕。
そして今、全身を襲う激しい震え。まだ初秋だというのに酷く寒い。寒い。指先の感覚が失われた。
「オォ゛ェッ」
喉の奥をごぼっ、と鳴らし、口から胃液と泡が飛び出て富樫の顔と調理場の床を汚す。
毒だ。
酷く冷静に毒だと断じた。
ああやっぱりな、俺って奴ァ。
だよな、そうだよな、こんな秋に鮎だなんてよう。探偵が言いそうなことを脳裏で呟く。薄ら笑いすら浮かんだ。
ビクン、ビクンと身体を痙攣させながら富樫が最後に滲む視界の向こうに見たのはやはり兄の顔だった。
しょうがねぇやつだな。兄は笑ったような、怒ったような。ヘヘッ、やっぱり俺ァ駄目だぜ、あんちゃん。
真っ暗になった視界の向こうから、地響き音が近づいてきた。
もう富樫は眼を開けない。
誰かが名前を呼ぶ。
答えない。
ただ富樫が告げたいのは謝罪だけ。
「お目覚めですか」
問われてはじめて、自分が真っ白な病室に居ることに富樫は気づいた。
「ウッ!?」
布団まで真っ白、その真っ白を蹴り飛ばすと白衣の医者が肩を押さえ込んでくる。突如ぶり返してくる吐き気と頭痛に、抵抗する力は残されていない。
「いけませんよ、」
そう言う初老の医者は白衣だけでなく頭まで真っ白で、どこもかしこも白く富樫の頭痛をさらに酷くした。
「こ、ここァど、どこでぇ」
舌が酷くもつれて聞き取りづらい、富樫は目で訴えた。医者はハイハイと鷹揚に頷いて、
「病院ですよ」
分かりきったことを笑顔で言った。富樫はそうじゃねぇんだと叫ぼうにも叫べず、まだ残る寒気と震えに襲われながらただ首を振った。
「富樫!」
突然病室のドアが大きく開け放たれた。同時に入ってきたのは剣桃太郎である。富樫はもも、と回らない舌で必死に呼ぶ。誰より会いたい顔のうちの一つであった。
「後は俺が説明します。…もう大丈夫なんですね?」
医者は桃の耳に何事か小声でささやくと、それじゃあお大事にと取ってつけたように明るい声で挨拶を済ませると出て行った。残されたベッドの上の富樫は急に気まずさを覚える。こんな失態つきでの再会は富樫の望むところではまったくない。
「……仕事は」
「馬鹿、それどころじゃないだろう!お前が毒で倒れたって聞いて」
桃はシャツの襟を緩め、撫で付けた髪の毛を乱して富樫の横たわるベッドのすぐ横の丸イスに腰を落とした。はぁ、と深いため息をつく。桃の顔には深い疲れが目の下に濃く浮かんでいる。自分のせいで桃の仕事を中断させてしまったのかと思うとやりきれない。富樫は桃の怒鳴り声に肩を落とした。
「……もう大丈夫だからよ、戻れや」
「そうはいかねぇな。塾長からの伝言もある」
塾長。
富樫がもっとも聞きたくない名前だった。顔に絶望が浮かぶ。
そうだ、もしあの時自分がツマミ食いをしなかったらあのキンピラは塾長の口に入っていただろう。そうしたら今ここに居るのは自分ではなく―――
「塾長はさ、今まで家の中のことは殆ど自分でやっていたんだそうだぜ」
はっとして富樫は思考の渦から浮き上がった。顔を上げようとして、再び真っ白なシーツに包まれた自分の胸に視線を落とした。
まだ桃の顔をまともに見る決心はつかなかった。
「男塾でも、心底信用できる教官達が作るメシ以外は口にしていなかった。外食も懇意にしている料亭にしか行かないし、塾長を狙う奴はゴマンと居るってことだな」
桃の手が伸びてきて、富樫の冷たい手をぐっと掴んだ。富樫の手は冷え切っているが、桃の手は熱いまでにあたたかい。
「お前が秘書見習いとしてあの家に住み込んでから、お前の作る飯はどうだった」
「……食ってたよ」
か細くって、こんなの自分の声じゃねぇや。かろうじて富樫は声の波を平らかにする。
「食ってた、まずいだの、塩辛いだの文句ばっかりつけやがって…」
「ああ」
「褒められたコトなんざ、一度もねぇや」
「…ああ、」
「馬鹿みてぇに何杯も、三合炊いたって間に合やしねぇ」
「………」
「残した事は、一度も無かった」
まずいまずいと言いながら、
塾長は自分の作るものを必ず食べつくしてきた。
「きんぴらをよう」
桃の手は富樫の手を握ったまま、体温を分け与えてくる。細く開いた窓から入り込んだ風は乾いていて、東京都だというのにどことなく土のさびしい匂いがした。静かに桃は頷いて続きを促した。
「きんぴらだけは、食えなくもないとか抜かしやがって」
「ああ」
桃はスーツのポケットから、なにやら墨で黒々書き付けられたA4サイズの紙を取り出した。
「塾長からだけど、読むか」
「……ああ」
クビだと言われたって仕方が無い。富樫は死刑宣告を聞くように天井を仰いだ。
「読むかっていうか、見るか?」
「は?」
『わしが男塾塾長 江田島平八である』
わかりきっていたような、なにもわからないような。
眼を落とさんほどに丸く見開いた富樫に、桃は微笑む。
「此度の、身を挺しての毒見ご苦労であった。今後も精進せいとよ」
「違う、俺は」
桃は富樫の口を手の平で塞いだ。ウインクを一つ。富樫はこの桃という男以上に綺麗にウインクを出来る男を知らない。
「そういうことにしてくださったのさ、塾長はさ」
「ふが」
「ああ、それからそのニセ仲居にニセ料亭は責任持って潰しておくようにって」
「ふ、」
「俺も体がなまっていたところさ、行くか」
手を口から離される。富樫の目にいつものあの、ギラついた光が一つ宿った。
「おう、俺をコケにした借りァ返すぜ」
「そう来なくちゃな」
富樫は後日、『都内暴走巨人の謎!北京原人の生き残りか!!』という太文字からなる見出しに始まる記事を雑誌に見つけて頭を抱えて愕然とした。
某月某日早朝、二メートルはありそうな禿頭の異形なる大男が死体らしき男性を抱え、ガラスを割らんばかりの大声で吼えまわりながら信じられないようなスピードで街を駆け抜け混乱に陥れたとのことである。それにより三台もの玉突き事故と、一時間以上になる電車遅延を引き起こしたという。尚、その大男は全裸かつ素足で、病院をしきりに探していたという目撃証言が上がっていた。
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