虎丸と伊達と臣人2

馬鹿め。
笑った。
馬鹿め。
笑った。
馬鹿め、馬鹿め、
おまえは馬鹿だ。馬鹿だとも。
そうとも、それでもお前は、
いい馬鹿だ。
そう言って、笑った。





臣人はすくすくと、虎丸と伊達の愛情を受けてにょきにょきと成長していた。
虎丸は臣人のために赤石の元から三十センチ×二十センチほどの、幼虫一匹には大げさな大型水槽を借りてきて、それにたっぷりと自作の腐葉土を満たしてやり、毎日欠かさず霧吹きをして水分を与えてやる。といっても霧吹きなどという洒落たものは虎丸の身近に転がっていなかったので、口に水を含んで障子の張替えをするときのように噴いてやる。一度臣人が喜ぶかと思って砂糖水を噴いてやったら伊達に踵を落とされたことがあった。
「伊達、こりゃ何センチくらいあっかな」
二週間ほどで臣人はかなり育った。今も虎丸の手の平の上でうにゃうにゃと活発に身をよじっている。太さは大人の足の親指くらいになり、前のように伸び縮みしているというよりかは、ころころと転がって丸まっていることが多くなった。黄色がかった白い身体に一本黒い筋があって動いてい、その筋にはもりもりと食べた腐葉土が詰まっている。入れて出す入れて出す、あまりに単純な身体の構造に伊達は少々感動すら覚えた。
「九センチはあるだろうな。この本によれば、そろそろさなぎになってもいい頃だ」
男塾寮、伊達虎丸の私室…というより独房というほうがしっくりくる窓の小さく狭い部屋、虎丸はヘリが磨り減ってしまったボロ畳の上に寝っころがって臣人を手に乗せてだらけている。伊達は伊達で、そんな虎丸の背中にその自慢の長い脚を組んで乗せている。夏も始まり蒸し暑い部屋の中、図体のでかい男が二人くっついているので非常に見た目むさ苦しい。実際問題暑苦しい。虎丸もアチィアチィと文句を言ってはいるが、虎丸はさっさと学ランを脱ぎ捨てて褌一丁の満開の肌色模様である。対して伊達は腕まくりすらせず、壁によりかかった背中にじっとり汗を滲ませてひたすらに涼しい顔を作ろうと努力していた。みだりに肌を晒すのはよくない、そういう三面拳の教育はきちんと実っていた。
暑いんなら離れたらいいのではないかと、普通であれば考える。
そう、くっついているから実にべとべとと汗が浮いて暑い。離れればまだ少しは隙間に空気が通って涼しいのだ。虎丸は子供のように平素から体温が高い。近くに居るだけで富樫などは汗をかいた。
しかし離れられない。それはなにも世界の選択だというわけでもなく、一万年と二千年前から愛してるわけでもなく、
ただ部屋が狭かった。
大型ペットボトルを四本買ったのに、中ビニル袋一枚しかレジのおねぇさんがくれなかった時のようなものである。ギチギチプラスチック同士が擦れて鳴る、袋が伸びる、取っ手が千切れる。
さすがに部屋が壊れはしなかったが、この部屋に居る限り、腕を伸ばしても脚を投げ出してもどこか同居人とぶつかるのであった。
狭い部屋だ。だがその狭さを伊達は厭うてはいない。手を伸ばす脚を投げ出す、触れる。そうしたことを嫌ってはいない。

「伊達ェ」
「なんだ」
「おもい」
言われるなりぎゅ、と伊達は殊更に脚に力を入れて虎丸の背中を圧迫した。こういう、無駄な意地悪を伊達は好んだ。
「おーもいって、言ってんだよッ!」
伊達の脚を乗せたまま、虎丸は亀のように短い手足をばたつかせて抗った。伊達の脚はびくともしない。腹筋を使って、脚が浮かないように押さえ込んでいる。
「………」
伊達は本から顔すら上げない。だが、ふくらはぎが痙攣するほど力を入れているのだから伊達が虎丸に気づいていない訳は無かった。ようは意地悪をしているのだ、虎丸は憤慨する。
「このヤロ、人を無視すんなッて言ってんだ!!」
「かまって欲しいのか」
間髪入れず、伊達は口を開く。普段きりりと横に引き締まっているか、皮肉げな笑みを浮かべている唇からは時折驚くほど子供っぽい言葉が飛び出すことがある。それは戦いの決着がついたときであったり、場が静まり返ったりしたとき、それから、
「だぁれがおまえなんかに構われたいかよ!きっしょく悪いコト抜かすんじゃねぇぜ」
虎丸をからかっている時。雷電などは最近伊達の表情が豊かになったと喜んでいる。人間臭くなったともいう。
「フン」
本を閉じて、ニヤリと頬のあたり引き攣れたその古傷の辺りに細かな笑い皺が寄る。そして、
「ほらよ」
伊達の足の裏が、寝そべっていたままの虎丸の顔面にべいと見舞われた。臣人がさすがにぼろりと畳にこぼれ、にじにじと這ってその場から避難を始める。
「て、てっめぇえええええええええ!!!」
ビニル袋ならぬ、部屋がひしゃげて破けそうな音を立てながら殺気にごうごうと膨れた。



臣人十センチ弱。もうすぐさなぎとなって羽ばたきの時を迎える。
梅雨も明けようかという七月上旬であった。














人と同じ部屋で眠るということは、実は伊達にとって非常に苦痛を伴う行為であった。
いつ寝首をかかれるかもしれない。いつ隣の人間がむくりと起き上がり、自分に向かってくるかもわからない。
人の寝息があるだけで、熟睡など出来るはずも無かった。これは臆病であるとか弱気だとかの話ではない。身体が拒絶するのである。
全ては育った特殊な環境が原因で、それも昔の話ではあった。それでも、
「いつでも手の届くところに槍が無いと、眠れる気がしない」
それから、
「部屋の外を誰かが通るだけで、目が覚める」
と、伊達は珍しく正直に虎丸に打ち明けた。話す気は、伊達本人には全く無かった。これは弱みだからである。弱みを他人に晒すというのはとても恐ろしいことだと伊達は思う。しかし、二人が同じ部屋になって五日目、就寝直前伊達が布団のすぐ傍らに愛用の槍を引き寄せているのを見咎めた虎丸が尋ねてきた。はぐらかそうにも、隣の男が満足に眠れていないようであるとは虎丸も薄々感じていたところだったので追及の手を緩めない。
とうとう驚くべき粘り強さに根負けして全て吐かされると、
「何でもっと早くにそれをいわねェ」
とぶんむくれて怒り出した。あまりにしつこかったのでそう正直に話したのだが拳であちこち凹んだ古畳を殴り、本気で怒っている虎丸を伊達は不思議そうに見ていたのを今でも覚えている。何を怒っているのか、どうして怒っているのか。
その時伊達は、『自分を信頼してくれない』と虎丸が怒っているのだと解釈した。
「これは何もテメェだけに限った話じゃねぇ、飛燕でも月光でも、雷電でも同じ部屋で寝たことはない」
「そうじゃあねぇ、そうじゃあねぇよ馬鹿。何で言わなかったんだ」
「言えるかこんなみっともない話」
「馬鹿」
虎丸はますます大声を出した。どんと二人の布団の隙間にのぞく畳を叩く。身体を起こしてあぐらをかいた虎丸に伊達もつられてあぐらをかいた。
向き合う。虎丸の顔から怒りは消えない。伊達は口を開きかけた。
が、途端にバツンと鈍い音がして、主電源ごと電気が消されてしまい部屋は真っ暗闇へ。午後十時、消灯時間であった。
途端に何もかも黒い中にごったにぶちこまれてしまい、虎丸の目だけが窓から漏れる明かりに光っているのが伊達には見えた。
「……馬鹿とは何だ」
「人が居ると眠れねぇんだろ」
「そうだ」
「足音も駄目か」
繰り返し、買い物のメモを確かめるように虎丸は聞いた。伊達はうんざりと頷く。
「……駄目だ」
「言えよ、馬ッ鹿だなほんとに、言ってくれりゃ俺一人どっかの部屋に入り込んだって良かったんだ」
ちゅっと鼠鳴きのような音がする。虎丸は舌打ちがへたくそな男であった。
伊達は伊達で一度言ってしまった、言わされてしまった恥だもうどうにでもなれと己の弱みをさらけ出して構えた。いいさ、馬鹿にしろ。するがいいさ。伊達は犬歯をむき出して、痩せた犬のように笑った。
ごそごそと暗闇の部屋の中で虎丸の動く気配がある。伊達は眼を凝らした。どうも何か支度をしているようだ、とおぼろげながら判断する。
何をしたいのか、どこへいきたいのか、どうしたいのか。虎丸の行動の理由はいつも伊達にはわかりにくかった。

「んじゃ、俺は行くから」
臭い枕を抱え、虎丸はへたくそな敬礼もどきの礼をして部屋をどかんどかんと物にぶつかりながら部屋を出て行った。
「………おい、」
「おやすみ」
ぎち、と蝶番の錆びたドアが歯切れ悪く鳴って開き、ぎゅうと往生際悪く鳴って閉じた。
今思えば、伊達はこの時すまんとか、ありがとうとか言うべきだったと思える。だが悲しいまでに伊達だった。詫びてもいけない、礼を言ってもいけない。
しかたなく、伊達はおうと低く答えただけで終わってしまった。

久しぶりに伊達は満足に眠ることが出来た。夜中悲鳴を押し殺して目覚めることも、眼を血走らせて闇を睨むことも、息を乱してすがるように槍に手を伸ばすこともなく、意識を放り出して完全に眠ることが出来た。


早朝四時五十分、窓から入り込んだ朝日が伊達の瞼を優しく持ち上げていった。
ウムと呻き目覚めた時、びきびきに張って喋るたびに痛んでいた頭の皮がほぐれていたのに気づく。首と肩をつなぐ見事に盛り上がった三角地帯が鉄板になって、指を跳ね返して熱を持っていたのがなくなっている。目の玉をがんじがらめにする縄のようなものが外れて、視界の端に眼をやっても痛まない。
頭からつま先まですっきりしていて、頬に艶すらあった。よくもこの固焼き煎餅布団でここまで眠れたと伊達も自分で思うほどである。
柄にもなく深呼吸してみようかと思うほど身体が満足している。
布団の上で胡坐をかくと、何気なく伸ばした指先に昨晩出番の無かった槍が触れた。掴む。金属特有の冷たさがぬっくりと伊達の手の平の温度と混ざっていく。伊達は苦笑した。ああ、とため息が部屋に溶ける。いつもであれば、布団の中に引き込んで体温と同化している槍がひんやりとしている。この自分が疲れていたとはいえ槍に手を出さずに一晩を過ごせたことを嬉しくもあり、逆に牙を抜かれてしまったようで不安でもあり、苦笑となってその顔に表れた。
まだ手の平に馴染むまでには至らない槍が、自分を捨てたのかと責めているように思えて伊達は立ち上がる。まだ早い。身体を動かすとしよう。
せっかく柔らかくほぐれた身体には何も身に着ける気にならず、惜しみなくその引き絞られた肉体美を晒した上半身裸の姿で伊達は部屋を後にしたのだった。
伊達と虎丸の部屋は廊下の一番奥にあり、その隣三部屋は空室である。これは伊達が隣が空室ならさぞ静かだろうと踏んで選んだのであったが、イビキと屁がうるせぇとたたき出された虎丸が転がり込んできたのと、廊下の端に位置する二人の部屋の前には便所があってそのため夜中便所に行く塾生の足音に悩まされることになったのは誤算も誤算であった。

ワックスもはげかかった木床に入り込んだ白っぽい朝日が眩しく、眼を細める。
と、部屋を出た廊下の先に見慣れぬ塊を見つけた。
彫り物のように切れ込んだ目が睨んだそれは間違いなく昨日自分が結果として部屋を追い出してしまった馬鹿野郎の姿。
「何だ、ありゃ」
昨日追い出してしまった手前、まさか行き場が無くって廊下で寝ていたのならさすがにすまない気もして、伊達は足音を荒げないようにして近寄った。
塊はぴくりとも動かない。ちょうど正面から光が入ってきていて、様子が中々わからない。
寝ているのか、と思えば、
「!」
黒い塊、廊下の真ん中に陣取って胡坐をかきうずくまっていた学ラン姿の虎丸の意識は既にこちらの世界になく、はるか彼岸へと旅立ってしまっていた。だが、首だけになって飛びかえった平将門のように、その両目はぐわっと見開かれている。黒目ばかりがぎろぎろとしていて、歴史資料集で見た金剛力士像のようなその異様な迫力にさすがの伊達もひと呼吸分ひるんだ。
が、
「おい馬鹿野郎」
すぐにそれが瞼にマジックで書かれた黒目であることに気づくと、驚いてしまった分力をこめて虎丸の背中を蹴った。座布団代わりにしていたと思しきぺしゃんこ枕から転がり落ちる。偽のマジカル黒目が消えて、薄茶色の目が現れた。そして、
「うおッ!!っと、こ、ここは、つ、ツーコードメだってんだい!便所なら二階へ上がれッ!」
挨拶代わりとは思えない言葉が飛び出してきた。唾も飛び出してきた。汚い、伊達は不機嫌に、だが黙って腕で顔に掛かった唾を拭う。
「寝惚けるな、もう朝だ」
朝と言うにはまだ大分早かったが。虎丸はアサ!!と妙なイントネーションで叫び、飛び上がるとガッツポーズをした。ヨッシャー!大声が廊下にッシャー、シャー、と反響してやかましいことこの上ない。伊達は耳を塞ぐ。
「うるせぇな、起きろ」
なんならもう一発尻でも蹴飛ばしてやろうかと脚を見せ付けてやると、虎丸は寝不足気味の赤目をこすって言った。
「へっへ、寝られたかよ?」
「あ?」
「虎丸様の寝ずの番だ、アリンコ一匹通しゃしなかったぜ!!」
わっははッ、と腰に手を当てて豪快に笑った。だからうるせぇって、と伊達はとりあえずごすんと尻を蹴った。頑丈が(だけが)とりえの虎丸にしては柳の葉っぱのように手ごたえ無くへちゃりとしなっていてぇなバカ、なにすんだと張りの無い声でぶうたれた。
そして伊達は気づく。虎丸がどっかり座って陣取っていたのは二階へ上がる階段の前で、座布団代わりの枕の側にでかでかと『つうこうどめ。べんじょは二階』と恐らく目玉を書いたのと同じマジックで書かれたと思われるチラシの裏が一枚落ちていて、虎丸の目が真っ赤に腫れていて、それで、



「寝ずの番だ?今の今まで寝てたじゃねぇか」
「ひでぇな、ちょっとだけだって、ホントにちょっと」
「………フン」


それで、
それで、
それで、お前は、
伊達は憎まれ口を叩いたきり、何も言えなくなってしまった。
馬鹿野郎を見たと思った。
そんじょそこらの馬鹿野郎ではない、本物の馬鹿野郎を見たと思った。
手にした槍は既に体温と同化するのに十分な時間をかけたはずなのに、なぜかまだ冷たく思われた。
それは伊達が少し熱くなったのかもしれない。

「馬鹿だ」
「なんだよー眠れたんだろーが虎丸サマのおかげで」

礼は言わない。謝罪もしない。馬鹿め。
伊達は殊更に馬鹿にしたようなため息をついて、首を大げさに左右に振った。馬鹿め。
「昨日のアレは」
「アレは?」
寝不足の馬鹿の声はいつものドラを鳴らすようなうるささがない代わりに、ぬいぐるみがしゃべっているようでくぐもって聞きづらい。
唇の右端だけを意識して吊り上げる。それだけで一層男前が皮肉たっぷりに変わっていった。口を開く。
「嘘だ」
「うそォ!!?」
馬鹿は疑わないから馬鹿である、という言葉を体現するようにその馬鹿は仰天し、アゴが外れ目がこぼれ落ちそうなまさに『仰天』を伊達に見せた。
槍を肩にかつぎ、虎丸に背中を向けて部屋へと戻り歩き出す。虎丸はひっくり返った声で呼び止めた。
「お、おい伊達ェ、うそ、うそってなんじゃい!!」
歌舞伎絵の見返りのように、首から上だけを振り向かせて伊達は冷たく言った。嘘は嘘だ、馬鹿。せめて馬鹿とは言わないでやった。
「だから、なんで嘘なんかついたんだって!」
「イビキがうるさいんだよ、お前は。イノシシと寝てるみたいで眠れやしねぇ」
「い、いのしし…」
「馬鹿は風邪ひかねぇとは言うがここまでする馬鹿だったとは思わなかったぜ、仕方ねぇ、息をしないってんなら部屋で寝てもいい」
「なッ……、な、なにをえらそうにタレとるんじゃい!!息せにゃ死んじまうだろうが!!」
キャンキャンようやくいつもの様子で吠え出した虎丸を伊達はきれいに無視した。
もう顔を虎丸に向けるわけにはいかなくなっていたのである。鏡は無いがきっと、伊達男は伊達男でも、伊達臣人にあるまじき顔をしているに違いなかった。
今度こそ歩き出す。


「馬鹿め」
恐らく廊下の上で書いたのだろう、ところどころ木目にマジックを突っ込んでしまったらしく穴だらけのチラシに眼をやり、もう一度伊達は馬鹿め、と呟いた。
そして、本当にいつぶりかに笑った。
もちろん誰の目にも留まりはしなかったが、確かに笑った。
































布団は一つ。枕は二つ。
なにやら艶がある響きだがなんのことはない、一組の布団を丸めてドア下の隙間に突っ込んであるのだ。
その布団の上で虎丸は息を殺して伊達の耳にかすれた小声で囁く。美女ならばかぐわしい息もうなじをくすぐろうかという距離だったが、残念ながら虎丸のため夕食後に食ったかき氷のイチゴシロップの安っぽい香りしかしない。
「まだか」
「まだだ」
ひそやかに会話する。虎丸の声につられて伊達も小声となった。
この暑いのに掛け布団をしっかり頭まですっぽり被って、目だけキカキカ覗かせている。合計四つ、虎丸と伊達の目が布団の中で光った。
当然ながら恐ろしく蒸し暑い、この夏真っ盛りの時勢に大の男二人が一つの布団に納まっているのだ。流れる汗で太腿の内側や二の腕がくすぐったい。
当初、伊達が寝巻き兼用の学ラン姿で布団へ入りかけたのを虎丸が必死に暑いって暑いよ、絶対暑いって脱げ脱げ脱いじまえフンドシいっちょなら少しはすずしいってなぁ脱げよ俺も脱ぐ、っていうかもう脱いでると説得し、今や布団の中は熱気ムンムン桃色肌草子満開の、絶賛褌祭りの最中である。
「なあ、電気つけていいか」
「駄目だ、」
短い言葉を交わしながら二人が見つめる視線の先には、臣人の水槽がある。三週間前ごろから臣人が地上へと姿を現さなくなったので、そっと水槽を持ち上げて下から横からぐるぐると覗いてみると、どうも空洞が出来ているようであった。さなぎだ、と虎丸は興奮気味に叫び、ドア下に突っ込んだ布団の片割れだった掛け布団を水槽にかぶせる。少しでも静かに羽化を迎えられるようにとの気遣いで、雷電の話に寄れば今日当たり羽化する予定だとのことであったので、二人息を潜めて羽化を見守っている。
伊達はめまいを覚えた。肌という肌同士が触れていて、汗でぬめる。触れ合った肌が擦れる。脚と脚が絡まって、脛毛がちりちりとひっかかる。
ああ。
「まだかな、」
「まだだ、少しは待て。静かにしてろ」
さっきから何度目のまだ?だ。子供かテメェは。いいから黙ってろ静かにしてろ喋るな、喋るなって、息がかかるんだよ息が、だから黙れ、
伊達はめまいを覚えた。ちぇっと拗ねて黙った虎丸がすることもないので自分を見ている。至近距離で見つめている。睫ならぬ眉毛が触れそうな距離でじつと見ている。
「………」
「………」
耳鳴りがしそうな沈黙が渡る。
臣人が出てくる気配は無い。静か過ぎて静か過ぎる。おい何か言え、さわがしいのがお前の仕事だ、何か言えったら。
伊達はめまいを覚えた。何度目かのめまいだった。酸素が足りていないんだ脱水症状だと軟弱なことを考えてしのぐ。
「何か言え」
沈黙にたえきれずそう言った。虎丸がんん、と低い声で答えるまでに少し間が有ったのを聞き、眉間に皺ができる。まさか、まさかだろうがてめぇ眠いなんてことねぇな。おい。こら。
隣で膨れ上がった剣呑な気配に、虎丸はあーうーと慌てた。何かあったっけ、何か、ええと。


「寝られるようになって、よかったな」
思い出したように言う虎丸に、おうと答えかけて伊達、固まる。
え、
「おい、」
「あ、シッ!!」
きつく問い詰めようとしたところで鋭い声が飛ぶ。暗闇の中、目線が水槽へと向けられる。
息を飲んだ。




















ぐるり三方、伊達と虎丸のいる布団に向けて以外を取り囲んだ水槽のちょうど真ん中あたりの土がもくりと膨れ、崩れた。
そこからまだ完全な茶色とはいえない、爪で触れたら傷をつけてしまいそうに繊細な茶色の、小さな角が現れる。
時間をかけて、もくり、もくり、と、じれったいほどの緩慢さで土が膨れては崩れていく。細い、折れたひじきのような触角が覗く。
小さな小さな角が見えて、次いでずんぐりとした頭。節くれた前足が土を頼りなげに掻いて、丸い胴体を地表へと引っ張り上げる。

どれだけの時間がかかったか、ようやく身体全部を地上へあらわすと、臣人はじっと動かないでいる。
水槽へ差し込むかぼそい月の光に、静かに瞑想しているように見えた。

そして、よろよろと左右にぶれながらも歩き、たった三十センチしかない水槽を苦難の末横断し、虎丸が用意していたとっておきのスイカへ取り付くと果汁を吸い始めた。

ああ、
ああ、

おいしい。
臣人が言ったような気がした。

虎丸はすっかり母親の如き心境になって、臣人、臣人、めでてぇじゃねぇかよくがんばったなと布団でぐしりと目尻を拭いた。
伊達も母親で、これから色々あるだろうがせいぜい俺の名前を持つのならがんばるんだなと布団を握り締めながら力強く応援する。

と。









「おい」
「あン?」
伊達はまだ感動に打ち震える虎丸の頭をはたいた。臣人を指差す。スイカに抱きついたまま動かない、離れようとしない。
「ありゃメスじゃねぇか」
「あ、」










オスかメスか確かめてから名前をつけろッ!
虎丸はフンドシ一丁のまま、窓から蹴りだされた。




モクジ
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