会いに、愛を、告げに
あなたって何人?
何度も聞かれた質問だ。なんだってこう人がどこの出身か聞きたがるんだろう。どこだってかまやしないのに。
だから答えは適当お好みで。相手が白人ならフランス系だというし、日本人なら自分は日系だと言う。
そう見えないねぇと言われたら、まあいろいろ混じってますからね、残念ですけどと答える。
それで終了。見た目で間違われるのはジャパニーズかチャイニーズ。
アメリカ人という人間はいないのかもしれない。みんなどこかしらから入り込んだり混ざった塊なんだろう。
きれいきたない関係なしに受け入れるこの国、アメリカという国は大雑把で広くて好きだ。
孕んで生んで捨てて、そんな最悪三連コンボの母親は日本人学生だったらしい。ふらっと異国の地で男に騙されて、しかたなく捨てたとか。拾ったマムは黒人、その太ったお腹が自分を守ってくれた。
頭のおかしいマム、貧乏なのに次から次へ捨て子を拾っちゃあ育てている。
マムの口癖はこうだ、脱脂粉乳でグタグタまっずいオートミールを兄弟分全員に取り分けながら歌うようにこうだ。
いいかいグッドボーイ、アンタの飲んだミルクを何倍にもしてアタシに返しとくれよ。
もちろんだぜマム。アンタにいつか、とびきりうまいフレンチを返してやる。うまいものがフレンチに直結するあたり、どこまでも貧しかった。
十二にもなれば食い扶持くらい自分で稼がなきゃならない。スラムに住む様々な人種の人間としゃべれるようになるうちに覚えた言葉で、観光客の通訳やガイドをする。ムシュウ、マダァムなんて上品さなんかカケラもない、おいオッサン程度の言葉だけど。ファック、ぶっ殺すぞ、そういう汚い言葉ほど耳になじむのが早かった。
こういうとき子供は得だ。にっこりスマイルでもってハローハローこんにちは、客のほとんどは日本人。彼らは金払いもいいし、ワガママも言わない。
けど、こんなことスラムの子供はみんな知っている。
客の取り合いなんて馬鹿らしいから、何か新しい商売を考えなきゃあいけない。
なんてったってマムの子供は十三人。うち十歳以下が四人。
考えに考えた末。
選んだ道は軍だった。スラムで暮らすうちに身についたのは語学だけじゃない。むしろ拳のほうだ。
気づけばパンチに関してはそこらのゴロツキにも負けない。
そんなら、このパンチを使えるところにと軍を選んだ。
マムは泣いた。半狂乱の大泣きだった。この大馬鹿野郎め、お前を殺すために育てたんじゃあない。
いい子だからおやめ、おやめ、セシル、ねぇったら。
セシル。それはマムの本当の子供の名前だったのだろう。
それでも、マムに大丈夫だから、自分は大丈夫、だからアンタにうまいフレンチを。マムは聞いちゃあいない、泣くだけ。
出発当日、マムは最後にためてた小銭を瓶に、作ったばかりのシャツを一枚渡して見送ってくれる。
映画みたいな別れの朝は、情緒なく晴れていた。
下品なピンクのアパートを背に、それでも少し泣いた。
一人減って十二人のセシル、マムを頼んだ。
「英語が下手だな」
上官殿はとがめるでもなく、眉をひそめるでもなくそう言った。ただ下手だと言った。
掘り込まれた目がこちらを見ている。
「そうっすか、上官殿は英語がお上手であります」
「そういうことを言えと言ったわけじゃない」
こちらの答えにいささか憮然として上官殿は唇をへの字に結んだ。思わず笑みがもれてしまう。
お世辞がお嫌いなこの上官殿は好きだ。名前をJと名乗った、当たり前だけど本名じゃないだろう。
理由は聞いていない。こちらは下っ端、相手は上官。
今まで何人か上官は代わったけど、この上官は気に入っている。がなるだけがなるメガホン野郎なんかより、静かだけど誰より強いってのはやっぱり格好いい。
背も高い、練習に訓練を欠かさないその低脂肪な体はきゅうきゅうに絞られている。
「上官殿」
「なんだ」
拳を作る。それだけで上官殿の顔がしようのない奴だとほころんだ。手合わせを挑むのは日課になっている。そのたびボッコボコにされて返り討ちにあう。
最初は上官殿も手加減してくれていたが、頼んでやめてもらう。噂のマッハパンチを全身で受けるのはなんだかヤミツキなのだ。手加減なんてしないでほしい。
「顔を殴られても泣くな」
そんな事言われると、まだまだ自分は兵としてではなく女なんだと言われるみたいで悲しくなる。だけど後で思えば、これが上官なりの精一杯の冗談なんだとわかった。
冗談なら冗談ですよって顔して言ってくれないとわからないですよ、上官殿。
「ジブンの商売道具は上官殿と同じく、拳ッスから。ご遠慮は無用であります」
歩き出した上官殿について、小走りに追いかけた。イエス、今日はとってもチョーシがいいのであります。
黒髪の彼女はいい戦士だが、いい兵隊ではなかった。
体格としては170cmあるかないか、アメリカ軍の女性兵としては低い位である。だが、タンクトップから現れた肩は盛り上がって太く、Jと同じく打力を頼みに兵として女性ながら上へとのし上がってきた。女性ながら、というのははなはだ日本的な考え方ではあるが、この自由と平等の国アメリカでさえ兵士の多くは男性である。
Jが将校として着任して早々、彼女はボサボサ頭を逆立てながら上官殿上官殿と犬っころのように駆け寄ってきて勝負を挑んだのだ。
スラム仕込みッス、と言いながらJへと突き出して見せたその拳はきちんと指の背が平らに減っていて、使い込まれていることが見てとれた。Jは男塾の中では血の気の多いほうではなかったが、挑まれて勝負を逃げたことはない。
正面から受け止めて、正面から打ち破った。
鼻っ柱に打ち込んだJのマッハパンチに吹き飛ばされ、背中から軍庭に倒れこんだ彼女を助け起こしはせずにJは静かに見下ろした。倒れた相手にさらにリンチを加えて、自分に二度と逆らわなくするような上官も少なくない中、Jはただ見守っていた。悪くないパンチだった、それだけである。まっすぐに自分の目を見て、拳を放つ。そしてそれに自分も拳で返す。
口の重いJにとって、このやり取りは言葉のやり取りよりも雄弁な自己紹介になった。
それ以来なつかれたのだか目をつけられたのだかわからない状態で、彼女は毎日のようにJの元に駆け寄る。
「上官殿、上官殿」
高くもなく、甘くもない声でJを呼ぶ。振り向いてやると笑った。
ぼこぼこそこかしこ腫れた顔で笑うとジャガイモのようだとJは思い、だが女性の顔を見て笑うのはどうだろうかと迷う。結局本人が差し歯を見せて笑うのでJも恐る恐る笑った。口元がほころんだだけの笑いだったが、彼女があんまり喜ぶのですぐに強張る。
それを見て彼女はまた、笑う。
毎日殴り合って、飯を食って、また殴りあう。彼女の腕も少し上がった。顔も腫れた。
まだアメリカの治安が悪く、ほうぼうでテロや誘拐、強盗などが起こっていたときである。
所属は軍の二人だが、それでも戦歴は増えた。
最初の一月はなれないながらも敬語を使っていたがもうすっかり砕けて近頃では時々アンタ呼ばわりまでするようになり、気づけば、Jは誰より彼女としゃべる時間が増えた。
「上官殿の話が聞きたいっす」
「何故だ」
「アンタにキョーミがあるからに決まってるじゃないっすか」
腕立て伏せをしながら、スクワットをしながら、サンドバッグをたたきながら、何度も彼女は言う。
「好きであります、上官殿」
それが冗談だと思い、Jはそのたび馬鹿と言って顔を背けた。
「そういう冗談は止せ」
「冗談じゃあないっす」
真剣なようでふざけているようで、どうだろうかJには良くわからない。
ただ、目を揺らしながら笑って言う言葉、
「アンタの命令だけ聞きたいっす」
それはおそらく本当なんだろうな、とJは思う。
確かめるすべはなかったけれど。
「俺はこの軍の頂点を目指す。お前も来い」
いつだったかそう言った事があった。血の気の多い、若い二人である。ある理不尽かつ非人道的な上官を殴りに行った帰りのこと。
星がきれいならいいエピソードにもなるが、あいにくの土砂降りだった。上官は黒人差別主義者かつホモセクシャルで、何人も強姦したと言い回る卑劣極まりない男だった。
表ざたにならぬように、その階級を惜しみなく使う。
被害者の一人は、彼女の弟分だった。彼は健気にも彼女の元へ、通訳で初めて稼いだ小銭を見せようと訪れたその帰りのこと。
それを聞いた時の彼女の怒り方はすさまじいものであった。
あの野郎ぶっ殺してやる、ああ殺す、殺す、何度も殺すと繰り返して激昂する彼女にJは言った。静かな、しかし怒りに首筋に血管を浮き上がらせながらである。
「拳を振るうということは、心を振るうということだ。お前にできるか、卑劣漢の心を砕けるか。ただ怒りを晴らしたいだけで、その拳を使うな」
そうでないなら、俺も協力しよう。
Jの申し出に彼女は涙を拭い、大きく頷いた。
月のない夜、土砂降りの雨の中彼女は手にテーピングを施し、銃を腰のベルトにさした。Jは首を横に振る。
「拳だけだ、これから俺たちは虐殺に行くわけじゃない」
防弾チョッキもなく、二人上官の私邸に乗り込んだ。
闇討ちであった。寒い冬の午前一時。
さすがに子飼いの部下を大勢連れているだけあって二人とも無傷では済まず、大立ち回りをやらかした後というのもあり、二人もたれあうようにして宿舎へと戻った。
雲は薄くなっているが、まだほそほそと雨は続く。雲の隙間にひそかに月があかりを落としていた。
雨がひどく傷にしみるし、足取りも重いのでJは何か話題を探して押し黙る。
見当たらない。
Jはあまり自分からはしゃべらない男だった。別に、しゃべると中身が減るとか、そういうことを考えているわけではない。
ぼつりと、彼女は言った。頬を殴られているため聞き取りづらくくぐもっている。
ベッ、と血の混じった唾を吐いた。折れた歯が混じっていた。
「上官ろの」
「ああ」
「上に行ってください、アンタならいいです、安心・れきます」
言葉に詰まった。
見開いた目に雨粒が入って、視界が滲んだ。
「はじめてアンタを見て、なんてカッコイイんらって思ったんれす。一目ぼれっちゅうヤツ」
どう答えたものか、Jの逡巡もお構いなしの様子で彼女は短く逆立った髪の毛を振った。
へへへ、と彼女は笑う。腫れているのでどうにも不気味な笑いだった。
Jは尋ねた。湧いた疑問をそのままに口にする。
「お前は俺と来ないのか」
だって今までずっと同じ部隊で、Jが上官で、彼女は兵で。
これからだって、ずっとそうなるとJは思っていた。それなのに彼女が急に行ってらっしゃいさようならというようで不思議だった。
思えば命令らしい命令はこれきりである。
「来い」
その時の彼女の顔が、ぱっと火花と散って目の裏側に焼きついた。その顔を占めていたのは喜びひとつ。
決して美しくもなければ若くもない、ただの腫れた顔の女の笑顔だ。それがこんなにもはっきりと残る。
「アンタと、どこまでもいけたらいいなぁ」
発音の下手糞な英語だが、ありがとうは真摯に響いた。
雨はまだ、止まない。
結局それきり責任を取らされる格好で彼女は別部隊への転属となった。話をすることすらかなわなかった。
Jが口を出す暇もなく、全ては片付いてしまっていて、Jが振り向いた時すでに側に彼女はいない。毎日、朝食前のスパーリング相手はサンドバッグ相手になる。
あの下手糞な英語に、とってつけたような敬語が耳からたちまちすり抜けてJの元に残ったのはあの夜の笑顔と声のみ。
珍しく、Jは能動的に彼女のその後を尋ねた。尋ねられた新しい副官は生真面目に、そういうことはお答えできかねますと一言で片付ける。
まあいい、拳を使い続けるのならいつか、いつか会えるだろう。
Jは久しぶりに神への祈りを行った。父の死、男塾への入学、そしてアメリカへの復帰。そのめまぐるしい時間の中で忘れていた祈りの動作、自分への祈りではなく、あの女にどうか祝福を。
朝食を前に、目を閉じてずいぶんと長く祈りふけっていたその姿はさぞ信心深く映ったことだろう。
新しい副官は軍の学校を卒業してから入隊した事務職肌で、あの粗暴な物言いも何もかもと逆だった。
春ももうすぐ、春ももうすぐ。
それから三回の冬を過ぎて、J以外のほとんどが彼女のことを忘れかけた頃。
「長官」
Jの役職はアメリカ国防前線部隊統括省長官という、一度では覚えられないような役職になった。役職名が長くなったということは、出世したということ。
そして、口下手で世渡りもうまくないJが出世したということは、それだけ実力があったということと、人材不足だったということ。
長官になって三ヶ月。忙しい日々だった。Jは知る。役職を得るということは、自分ひとりの問題ではなくなり、責任がついて回る。
やりたくない仕事も、したくない粛清もやらなくてはならない。なるほど、世の権力者達が手下を従えるのも道理であった。
しかし、あくまでJは自分でできうることは全てやってのけていく。日本に残した親友達と交わす、国際電話での会話が楽しみのほとんどで、拳を交わす相手はそうそう現れない。
「ああ」
事務官が電話の子機を手に走ってきた。受け取り、受話器を耳に当てる。
「ショーシンおめでとうございます、上官殿」
ノイズの嵐の向こうから聞こえてきたのは彼女の声。間違うはずもない。
だが、重い舌はなにか気の利いたことを言おうにも回らない。
「もう俺はお前の上官じゃない」
突き放すような物言いになってしまった。だというのに、ノイズの奥で彼女は笑っていた。
「いいっす、今はそれで。そのうちアンタ、この国全部の兵の上官になるんすから」
相変わらず英語が下手だ。電話が遠い。
「今どこにいるんだ」
「U国っす。今から、ジブンは先日の大規模テロリスト集団の制圧および、掃討にあたるんす」
はっとした、それは先日Jが横から来たその書類に承認印をついてそのまま流した書類の作戦であった。
思いもよらない形でJは自分が彼女を死地に追いやっていることに気づかされる。U国は現在テロと内乱の渦、毎日のようにJの耳にも訃報が届く。
行くなとは言えない。Jの立場も、戦士としても言えなかった。
「死ぬな、生き残れ」
行くなと言う代わりに、生きろと言うしかない。彼女は電話口の向こうで含み笑いをする。また顔面が腫れているのかもしれない。また何も考えず、ただ拳を交わしたい欲求はつのった。
「上官殿、変わらないっすね」
「お前も変わらないだろう」
きいいいん、と耳の奥が痛くなるような飛行機の発着音。
彼女を呼ぶ声が電話の後ろから聞こえた。うるせぇと怒鳴る声。
「上官殿、最後にジブン、アンタにこれを言わなきゃあと思って」
「何だ」
最後なんていうなと、何を馬鹿を言う、帰って来いと。あふれては言葉が全て青白い床に落ちていく。
どうしてここにお前はいない、俺の気持ちなど、拳を一つ交わせばすぐに伝わるのに。
どうして言葉でしか伝えられないんだ。
久しぶりにJは己の拳を固めて見下ろす。もちろんトレーニングを欠かしてはいないが、人に向けて拳を振るったのはずいぶん昔に思えて悲しみすら覚える。
「上官殿」
「ああ」
「好きです」
「知っている」
返答は即答だ。そんなこと知っている。とうの昔に知っている。
いまさらそれを言いにわざわざ電話をかけてきたと思うと腹も立つ。Jは続けた。
「毎日言っていただろう、自分で」
「そうでしたっけ」
「ああ」
こうしている間にも、どんどん彼女はJから遠ざかり、死地へ近づく。何か言ってやらなければ、
「トレーニングはしているか」
違う。自分で言っておいて赤面した。こんな近況報告をやり取りしたいわけじゃない。
「欠かさないっす。飯ァ抜いても、トレーニングだけは。アンタが言ったんじゃあないすか」
「ああ」
「アンタの言ったこと、ジブンは守ります」
「ああ、それなら」
それなら。
「それなら、帰って来い」
そうしたら、
「そうしたら、また相手になろう」
そうしたら、二人でまた拳を磨こう。楽しかったあの時のように。
今になっても彼女を抱きしめたいと思いつきもしないが、誰より顔を見たくて誰より拳を交わしたい相手だった。
長い沈黙。ひっきりなしに彼女を呼ぶ声。
「何年後かわかりませんけどね」
ようやくの声。Jは受話器を握る指に力をこめた。
「会いに行くっす。アンタに」
季節をいくつも飛び越えた春。
この国だって、どこだって桜はきれいだ。男塾と違って春にしか咲かない薄紅雲。
「ああ」
「会いに行き」
電話は切れた。つながりは切れて、約束は結ばれた。
数回の春を越えて、
「覚えた限りの言葉で『アイシテル』言いに来ましたよ上官殿。さあ、最初はジャパニーズで」
約束どおり春。利き腕一本の隻腕となった彼女は春の桜を背負って、Jの元に会いに来た。
会いにいくよ、
会いにいくよ、
会いに、
一番に交わしたのが抱擁でもなくキスでもなく、磨きぬいた拳同士だったのがなおJらしかった。
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