古女房の骨の行方
その広い背中を見続けて、追いかけ続けて早いもので二十年が経つ。
近寄りがたいほど立派で猛々しく、自分がまだヒヨコのヒヨコ、殻つきヒヨコだった頃から何も変わってやしないように見える背中。
つるつると禿げ上がった頭、太く張った首筋に自分のこさえたメシをかっこむ強い腕。あの強い腕で何度殴られたか数えるのも馬鹿らしい。
「ちと辛いな」
塾長の背中がそう言った。
味噌汁の味加減のことである。富樫は一瞬へェ?と間抜けな顔をしてからすぐに引き締めた、頭を下げる。頭を下げるところは見えてはいないだろうが、なんとなく頭を下げたくなった。
男塾塾長、江田島平八は朝飯を食べていた。肩書きや財産などから考えれば質素に過ぎる六畳間で、塾長秘書の富樫がこしらえる朝飯を食べている。
「申し訳ありません」
「うむ」
ついつい、最近の最近まであんまりにもあたたかかったために塩加減を強めてしまっていたのだった。暑がりで汗っかきの塾長には少し塩加減をきつめに心がけていたのがアダとなる。
塾長が軽く振り向いて、飯粒ひとつも残さない茶碗を差し出してきた。富樫はしゃもじを持ったまま待機しており、茶碗を受け取ると同時にオヒツのふきんを取り去り飯をうず高くよそった。手渡す。
北風、冬空と言っても差し支えないほどに冷え込んだ早朝である。
富樫はいつもの真っ黒いカラススーツに身を包み、求められるままに飯をよそった。朝から塾長は一升の飯を食った。
イボダイの干物に瓜の雷干し、ワカメの味噌汁だけでよくこれだけ食べてくれるものだと富樫は作り手の嬉しさに不思議さも感じている。
江田島平八邸に住み込んでいるのは当然ながら家の持ち主である江田島平八本人と、その秘書である富樫源次の二人きりだった。塾長本人はあまりこだわらなかったのだが、食事にせよ身の回りの世話にせよ全て目の届くところに置きたいという富樫の主張から、最低限の信頼できる家政婦を時折必要に応じて呼ぶ程度。
つまり、この広い屋敷にあってたったの二人きりなのだ。塾長は本を縁側で読んだり頼まれていた書き物をしたりする後は呼ばれて請われての外での講演が多い。富樫は常にぴったりと付き添って、塾長の誰より傍にあった。
ああこのでっけぇ背中、二十年経ったって、これから三十年経ったってきっとこのまんまあるんじゃろうなぁと富樫は信じている。
富樫が知る男の中で、一番の男の傍にいられるということは富樫にとってひどく幸せなことであった。
茶碗を洗い、塾長の書き物を鞄にまとめ、車を家の前につけたら今日も一日が始まる。
「富樫よ」
「はい」
後部座席より声をかけられた。バックミラーに視線を投げれば、いつも通り置物にしては生気がありすぎる腕組みしたままの格好で目を閉じている。
富樫は運転に気を集中させていた。初心者というわけではもちろん無い、秘書見習いになった最初こそぶつけないよう、撥ねないよう、道を間違えないよう常に必死だったが今ではタクシー運転手よりも道に詳しくなっている。だが後ろに塾長をのせているという緊張感には二十年経っても慣れたり薄れたりすることはない。
「今日の夕飯は桃が来ることになっておる。寿司でも取るか」
「はい」
前方に気を配りながら富樫は渋みのでてきた口元に笑みを上らせる。桃に会うのも久しぶりだった。
元気でやってんのか、まっさか風邪やなんや引いてやしねぇだろうが。
「富樫」
「あ、は、はい」
つい富樫は桃のことを考えていて、ひとつ曲がる角を間違えてしまった。それを咎められたのかと思ったが、塾長はもう何も言わなかった。
今日の予定、午前十時より日本男協会講演、昼食は極男連合会長副会長との会食、午後は全世界男同盟定例会議出席。
富樫はこの日、今年初めて車に暖房を入れた。
一日の予定を終え、家に戻ってくるともう既に六時を回っていた。冬の六時は既に真っ暗、風も冷たいのがぴんぴんと吹いている。
家中を回って雨戸を閉ざし、カーテンを閉めた。塾長が部屋着に着替えている間に熱い風呂を沸かす準備も抜かりない。塾長の入る風呂はとてもとても熱く、時折背中を流せと言われ長風呂の供をすると最後は決まってぐだぐだに煮えてしまう。油風呂の富樫でさえこれなのだ、一般人が入ればたちまちに火傷でも起こす熱湯風呂である。
「先に風呂にでも入っててください」
「うむ」
「桃を通すのは奥の間でいいでしょうか」
「うむ」
ちょうど塾長が着替えを終えて部屋から出てきたところに声をかけることが出来た。自分の手際に我ながらできた秘書だぜと富樫はひっそりと胸を自慢に膨らませる。
塾長は長風呂である。朗朗と太くよい声を浴室全体に響き渡らせ、知っている限りの歌を歌うのだ。富樫はいつも、その歌を聞きながら晩飯の用意をするのが日課である。だが今日は寿司を取るというので、代わりに皿や箸やコップを食器棚から三人分取り出して奥の間の卓に並べた。
馴染みの寿司屋に寿司の注文を済ませ、近所の酒屋までビールを三ケース取りに出る。本当ならうわばみの塾長がいるのだから三ケースではとても足りはすまい、けれども今日はもらいものの日本酒がだいぶあったのでそこまで頭数に入れた。
黄色のケースには茶色いビール瓶がずらり。ウッカリ持ち上げると腰を痛めそうなずっしりとした重みが腰にかかる。一ケースですらそれほどの重みがあるというのに、富樫はまとめて三ケース持ち上げた。さすがに首筋や額に青筋が浮かぶ、酒屋の店主はいいからひとつずつ運べと富樫を案じたが、言って聞く男ではないということも長いお得意様なので知っていた。
ガチゴチガチゴチ、ケースの中で瓶が揺れてぶつかる。
中腰よろよろ、足元探り探り。
背中を腰をきしませて、みちみち泣き出す腕を頼みに。
一歩一歩ビールケースを抱えて家に戻る。
空を見上げる余裕はなかった、が、見上げていたら驚くほどに空は冬の夜空であった。
真っ黒に群青をほんのり溶き混ぜた空の天蓋に青白い星星が散らばっている。もうしばらくすれば、空気も研ぎ澄まされてさらにキカキカと星を際立たせるに違いない。
だが富樫が見ているのはただ目的地である江田島邸のみ。前しか見ていない、下すら甘くしか見ていない。だから転ぶ。
今日転ばずにたどり着けたのはおそらく単に運がよかっただけのことであろう。もしくは酒の恨みは恐ろしいゆえ買わぬようにとの、空のかなたの彼の兄の祝福かもしれぬ。
台所の勝手口をこじ開け、いったんビールケースをゆっくりと下ろして入り込むとやはり家の中はほっこりと温かい。湿り気のある空気が満ちているのはきっと塾長が風呂を上がった後、ろくすっぽ体を拭きもせずにここまで全裸に近い姿で歩いてきて冷蔵庫から牛乳をぐいぐいと飲んだからに違いない。証拠に流しに空になった牛乳ビンが二本転がっているのだ。
ビールを運ぶ先の奥の間からドカンと家を揺るがすほどの大きな音がした。はっとして富樫はぺたんと底の磨り減った草履を勝手口に放り出して上がりこんだ。あわてていたためにビールケースの角に脛を嫌というほど打ち付ける。痛みを感じてはいたが、その場でおうおうと叫び狂うわけにもいかないので放置して音の源、奥の間へと駆け込んだ。
「塾長!!」
駆けつけた奥の間のふすまをビッシャーン!と開け放つ。そこには手紙の束を手に憤然と鼻息を荒げる塾長がいた。さっきの音は塾長のでかい拳骨で壁を殴りつけた時の音らしい。土壁にはしっかりと三十センチほどの穴が開き、夜風の入り口となっていた。
「ど、どうしたんですかこりゃあ…」
事の次第を問いただそうとしたところ、塾長の手にした手紙の束に視線が届いて富樫ははっと言葉と息を飲んだ。
手紙。単なる恋文やダイレクトメールの類ではない。
手紙には意思がこめられている。悪意がこめられていた。
表舞台に立つ人間に対しては、それがどんな善人だろうがなんだろうが必ず批判というものが寄せられる。富樫は届いた手紙を一度は閲覧するのが日課である、なにもやましいものではなくカミソリや爆発物などが入っていないかどうかの検査が目的であった。さまざまな手紙があるがその手紙の中から、『意見』としての批判であれば抜かずにそのまま中身を塾長に手渡す。批判を聞けなくなったら人間はおしまいだと富樫は塾長からしっかりと躾けられており、それに忠実にしたがったまでであった。
殺、とただ一文字書かれた便箋。
胸の悪くなるような幼児ポルノや猟奇犯罪の写真。
ごく薄い酸をしみ込ませてある、触れると指先のかぶれる手紙。
どういう趣味かはしらないが精液がべっとりと内に満ちていた封筒。
血をつけたままのカラスの羽が詰め込めるだけ詰め込まれた定形外の郵便物。
今日届いた中で、悪質な、ただ相手を不快にさせるだけの手紙を富樫は手紙の束から抜いておいたのだ。抜いたものはすぐに焼却するようにしていたのだが、あいにく今日は時間がなく床の間の壷の中に隠しておいたのを見つけられてしまったらしい。
塾長がこういう卑劣なまねをする人間が嫌いだろうし、自分も嫌いだ。だからこんなものに煩わされてほしくない、富樫はその一念でその手紙を隠匿したのだがどうやら塾長は怒っているらしい。
「申し訳ありません、すぐに捨てるつもりだったんですが」
言い訳じみた物言いをしながら、富樫は撫で付けた頭に手をやった。もう公の場に出る職務も終わったことだし思い切り掻き乱した。
いらだっていた。せっかくこれから桃が来て、酒を飲んで、うまい寿司食って、きっと楽しくしゃべって楽しく過ごせたんだろうに。塾長はいつものようにわしが男塾塾長江田島平八であると吠えるだろうし、俺と桃はきっともう知ってるって顔でうんざり見てたりするんだ。楽しく。
それをこんな、自分で自分の名前を名乗ることもできやしねぇ卑怯モンの手紙で壊されるなんざたまらねぇ。なんと言えばいいものかわからなかったので、富樫はああううと口ごもる。
塾長がぎろりと切れ上がった目尻で富樫を睨んだ。すくみあがりこそしなかったが、胸はつかえる。
「手を出せい」
「は?」
「手を出せい、富樫」
言われるままに右手を出した。塾長の肉厚の手のひらが一回り小さい富樫の手のひらを掴む。
裏返し、関節を手繰り、手のひらを揉み、何か調べている様子である。
「何を?」
「異常はないか」
たずねながら、塾長は富樫の人差し指と親指の腹が赤く剥けているのを見つけた。酸にやられたのだとすぐにわかる。指先がじんと熱くなったので富樫はすぐに異常を察知し、すぐに洗い流したのだが赤くなってしまっていた。
「これはどうした」
「ああ、手紙に酸が…」
「次から、内容の改めは不要である」
きっぱりと言われてしまった。
富樫は青くなる。自分の手のひらごときで、こんな下種な手紙までも塾長が見ることになるのは避けたかった。
唾を飛ばしながら富樫は必死に声を張り上げる。掴まれたままの手のひらでもって、ぎゅっと塾長の手を握ってすがるように言った。
「こりゃ、俺の仕事です。塾長にこんなくだらねぇ手紙は見せられねぇ」
「わしがこんな手紙ごときで揺らぐとでも思うか!」
一喝である。富樫は上から押さえつけられたように一度首をすくませ、しかしバネがはじけるように負けじと腹からの大声で言い返した。
「揺らがねぇことぐれぇ百も承知で知ってらぁ、けどな、こんな腐れ手紙一秒でも目に入れるだけでアンタが勿体ねぇんじゃ!」
久しぶりに敬語を忘れて怒鳴った富樫の目は確かに熱く燃えていて、塾長の目には星星のように光って見えた。熱い、なんと熱いことか。
富樫の気迫を目の前でしっかりと受け止め、視線を合わせる。富樫の息が荒れて、肩も上下している。
握り合った手はどくどくどんどんどちらのものかわからぬほど混じって脈打っていて、どちらも熱い。
「ふ」
不意に塾長の顔が緩んだ。てっきり怒鳴られ殴られると思っていた富樫は虚を突かれて拍子抜けする。
「わぁっはっはっはっはっはっはっ」
巨躯を揺らし、背中をのけぞらせながら塾長は大笑いをした。その笑い方が心底嬉しそうに、愉快そうにしか聞こえない。
恐ろしいほどの肺活量を十分に活かして塾長は笑い続ける。
富樫は呆然とそんな塾長の笑顔を見上げていた。
呆れたような富樫の視線を受け止め、塾長はようやく笑いを納めるとふふふんとからかうように唇の端を吊り上げて間抜け面の富樫を見下ろす。塾生時代から比べたら多少渋くはなったものの、まだまだ血気盛んな男面である。その鼻息の荒さと無鉄砲さ、誰にも負けぬ根性を塾長は気に入っていた。
「まったく、かわいい奴よ」
「あ?」
いきなり何を、富樫の視線での疑問は分厚い面の皮に叩き落とされてしまう。よいよいと一人満足そうな塾長、唐突に尋ねた。
「富樫、お前わしの秘書になって何年になる」
「に、二十年…」
「お前、兄以外に身寄りはおるか」
身寄り、富樫にとって身寄りと言えば兄である。富樫は驚いていた、まさか塾長が兄貴のことを覚えていたなんてと驚いていた。
「いや…い、いません」
思い出したような秘書口調は富樫の舌の上で滑った。塾長は富樫の手を掴んだままどっかりとその場にあぐらをかいて座り込む。後は寿司と酒と桃を待つだけとなった卓のそばにつられて富樫も座った。
「二十年か…古女房じゃのう」
「は」
「この二十年、よくここまでわしを助けた」
「え」
「富樫よ、お前は立派な男よ」
目を落としそうなほど見開いて富樫は塾長を見ている、そんな風に人を誉める塾長がどうしても信じられない。それ以上に、自分が塾長に誉めてもらえるほどの人間かどうかも自信がどうしても持てなかった。
俯く。嬉しいやら信じられないやらで富樫は俯く。手放しで喜ぶには年を取りすぎた、持ち上げられて落っことされる痛みに耐えられるほど若くない。
自分がこんなに年をとるなんて驚きである、自分はそうだが、塾長もまさか年をとって変わってしまったのだろうかと疑問がわく。
「何を呆けておる。嬉しくはないのか」
「う、嬉しいも何も、まだ半人前で…」
分別に良識に、それから遠慮に謙遜も覚えた。どれも富樫らしくはないが、大人らしくはある。それが塾長の気には召さなかったらしい、つないだままの手にグキグキ力を込められる。いてて、と顔をゆがめた富樫に塾長は続けて口を開いた。
「わしの墓に、兄弟ともども入れてやろうではないか」
「は…か?」
今日はなんていう日だ、塾長が急に自分を誉めたと思ったら、次は墓の話だ。何かそんな、遺言みたいな。
困惑でぐるぐると回りだす富樫にはかまいもせず塾長は再び笑い出した。
「なんて顔をしておる、馬鹿者!二十年連れ添ったお前の忠義に報いて、最後まで面倒をみてやろうというわしの親心がわからんのか。もちろん兄貴も一緒じゃ」
「お、親心ったって」
どついて怒鳴って殴って蹴って、無茶しては振り回したこの直情的な秘書がけなげに思えたのだ。女っ気はないもののかわいげのあるこの、息子ほどに年の離れた秘書。その秘書はわかりやすく、嬉しさや戸惑いでごった煮になってしまっている。
まったくわかりやすい。わしとて何百年も生きられるわけではないだろうに、この年になってもまだわしが死をほのめかすたびに面白いほど揺らぎおる。だがその揺らぎこそ塾長が富樫を気に入っている要因でもあるので、塾長はどうじゃと意地悪く尋ねた。
「まあお前が嫁でも取って、富樫家をつがせるとでも言うのであれば必要ない話じゃのう」
「じゅ、塾長…俺ァその、俺なんかが…」
む、塾長の右眉が跳ねる。富樫の感情のシーソーが喜びに揺らいだのがはっきりとわかって塾長の顔に笑みがともる。
まったく、犬コロのように懐きおって。なんじゃそのツラは、嬉しいなら嬉しいと言うがいい。
「富樫、俺とは生きるも死ぬも一緒だと言ったろう!」
ふすまが大きく、素早く両脇に開いた。たてつけを良くしようと富樫が蝋燭をたっぷりと塗りたくった効果である。
開け放たれたふすまから冬の夜の空気が壁の穴以上に更に入り込んできた。
もちろんそこに立っていたのは桃である。今日の客人なのだから、富樫や塾長が驚くことはまったくない。
が、富樫は飛び上がって驚いた。不貞を働いていたところに主人が戻ってきたかのように驚いた。このたとえはやはり適切ではない、どう適切ではないかと言えば、別に富樫は塾長と乳繰り合っていたわけではないし、桃がたとえ乳繰り合っていたとしても咎めるような立場ではないことが違っている。
寿司桶を片手に担ぎ上げながら、元男塾総代の剣桃太郎はむすっとした顔で立っていた。
おそらく富樫と塾長がわやくちゃやっている間に桃が来てしまい、待っていたところを寿司屋と出会って代金を払ってくれた上であがりこんだというのが正しいところだろうと富樫は読んだ。
「も、桃…」
富樫はぱっと塾長の手を離す。ちらりと塾長が富樫の顔を見たが、その視線には不穏な空気を楽しむような色が含まれていた。
さあ富樫、何か俺に言う事があるだろう、いくら俺がいないからって塾長の墓に入るだなんて言って、本当に!桃は直立不動で富樫を睨んでいる。
あわてて立ち上がり、桃に近寄るなり睨みのリクエストにお答えして富樫が言った言葉はと言えば。
「悪いな桃、寿司いくらだったよ」
一瞬、桃の顔に雷光が走ったように富樫には見えた。が、すぐにその色は消えたので見間違いだと思うことにした。
桃の顔が親しげにゆるむ。富樫の顔もつられてゆるむ。
次の瞬間、桃は塾長に尋ねていた。
「塾長!」
「うむ」
「富樫が死んだら、骨を自分にも半分分けて欲しいであります!」
仰天する富樫は声も出ない。塾長は腕組みをして顎をさすった。
「…と、言うと。わしが半分、お前が半分ということか」
「はい!骨壷を二つ用意して、骨渡しをしてもらった後交互に均等に振り分けてもらうとしましょう!」
「よかろう」
富樫は二度目の仰天をした。
「ちょ、ちょ、ちょっと待てやァ!!」
だが、そんな富樫の制止を聞くような人間はここにいない。
寿司桶を富樫に押し付けるとずいと大またに奥の間に入り、塾長と向かい合って桃は座る。桃はまっすぐに要求した。
「俺は、どうしても頭の骨だけは欲しいんです」
「いきなり大きな要求をするのう、が、仕方が無い」
桃は膝を正すと頭を下げた。塾長は顎をさするとお返しのように言い出す。
「ならばわしは、喉仏をもらおう」
「俺も欲しいです。富樫の喉仏」
食い下がった桃に塾長はきっぱりと言い放つ。
「先ほどお前は、頭の骨だけと言ったじゃろうが」
「むっ…」
さすがに黙る桃をにやにやと見遊びながら塾長は富樫、と富樫を呼んだ。あわてて寿司桶を卓に下ろしてラップを引き剥がすと素早く塾長の隣に控える。
「酒だ」
「はいっ」
塾長の声に打たれたように我に返った富樫は酒を取りに、台所へと急いだ。板張りの廊下を駆け抜けていく、その足取りに迷いは無い。
「お、俺はまだ死んじゃいねぇぞぉっ!!!」
電気も点けていない台所でようやく気づいた富樫はその場で絶叫した。
その声を聞いて塾長と桃は早々と自分の好きなネタの寿司をほおばりながら、顔を見合わせてくっくと喉を鳴らして笑った。
開け放たれたふすま、穴の開いた壁、注ぎ込まれる冷気。
ふてくされながらも二人の身を案じて火鉢を用意して奥の間へと戻る富樫は、やはりよくできた古女房かもしれない。
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