武将も小姓もどちらでも
ほんとうにおまえは、しようのない子だこと。
おまえはどうして、わたくしを困らせるのかしら。
よい子だから、わたくしに孝行してちょうだいな。
そのうちにと言っているうちに、わたくしなんて居やしないのよ。
まったく、娘というのはこれだから!
【ある母の口癖 より】
その日の富樫と言ったら、とにかく失敗続きであった。器用でないことは前提にしても、それにしても酷かった。
なにをぼうとなっているのかは知らないが、頼まれていた塾長の随筆の原稿を落としたり、折り返し先の電話番号のメモを無くしたり、講演先への道を間違えて
うっかり埼玉県まで行ってしまったり、
前々から塾長を好く思っていない危険人物を近づけてしまったり、最悪なことに凶刃を抜かせてしまったり、
さんざんであった。
「はあ…」
呼吸のほとんどがため息になっている。ため息は二酸化炭素が普通の息よりも多くて、ぼったりと床に固まって落ちるという話をいずこかで聞いたが、はたして
アレは真実だったろうか。ともかく富樫の足元には今見えないティッシュくずのようなため息がごろごろと転がっているに違いない。
背中を丸めて、壁に手をつく。出るのはため息ばかりだ、いっそゲェゲェと吐いてしまえば楽かもしれんと富樫は思ったが、腹にはもう一日半何も入れていな
い。入らないのだ。
男塾塾長、江田島平八。富樫が知る限り最高の男だ。卒業したらすぐに彼の秘書になるとひとりぶんぶんと息巻いて、卒業式の翌々日に押しかけた。その日でも
翌日でもなかったのは、酒が抜け切らなかっただけのこと。押しかけた相手はふふんと小馬鹿にしているのか面白がっているのか、それとも本気だとは思ってい
ないのか、どれともつかぬ笑いのまま顎をさすってよしと言った。そうして雇われた。
恩を感じている。最終的な学歴は高卒とするにはあまりにも粗末な頭のうえ、顔に大きな傷がある富樫を雇ってくれたことは本当にありがたいことだと心のそこ
から感謝していた。同時に、申し訳なさを感じてもいた。自分と同じくして卒業していった級友たちはみなそれぞれの道を新たに歩んでいるというのに、自分だ
けがいまだに男塾から離れられないでいる。混じる甘え、それが申し訳なくて富樫は時折頭を垂れた。一人まだ男塾にしがみついているその甘えに塾長をつき合
わせているようで、気恥ずかしくなった。
悩みは曇りとなって、富樫の頭を冬の雪空のように鈍らせている。
男塾塾長江田島平八の秘書となってまだ日も浅い。つい最近ようやく下働きの家事雑用から外出についていくことが出来るようになったばかり。
そして今日かけられた言葉がめぐる。
『遊びじゃないのよ坊や、お前のうっかりが彼を死の危険に晒すことを覚えておきなさい』
塾長のファンというよりも理解者の立場の女ははっきりと言った。富樫が一生かかっても弁償できないであろう着物をみっちりと着込み、年経てなお豊かな銀髪
を結い上げた老女といっても差し支えないだろう恒例の徒徒しい女は笑う。
『坊や、学校が恋しいなら一生閉じこもっておいで』
言葉は柔らいからかいを含んだものだったが、強烈な叱咤だった。老女が命を燃やすように、髪の毛を逆立てるようにして真実混じりけの無い怒りをまくしたて
ている。
殴られるよりも激しい烈烈たるののしりにも反論できなかった。
そのやり取りをしっかりと見ていた塾長は黙って手のひらの血をぬぐう。
富樫の不手際だった。最近ずっと『殺してやる』などの脅迫を手紙に電話に嫌がらせにと執拗に続けてきた男がいたことを知っていながら警備を怠り、挙句凶刃
が届く距離まで接近を許してしまったのだ。意味のわからぬ叫び声を上げ、飛び掛ってくる男を目の前にして何も出来なかった。体がすくんだのではなく、頭が
その事実を認識するまでに時間をくってしまったのである。濁った頭が晴れた時には、塾長の手が男の繰り出したナイフの刃を握り、男をアスファルトの上へと
組み伏せていた。
いくら男塾塾長江田島平八とはいえ、ナイフを握って無事であるはずもない。
テタ。
タト。
トト。
血液がアスファルトに滴った。真っ赤なそれ、富樫はああやっぱり赤も赤、濃いや、そんなことを考えている。
それすら、蒼白になって見ていた。
一部始終を見ていた老女が叫び声を駆け寄ってきてもなお、動けない。即座にしわがれた手のひらで頬を張られた。老女の力とはいえ、胆力を込めて頬を張れば
それなりの衝撃にもなりうる。富樫はようやく目をぱちぱちとさせた。
そうして投げられた言葉だ。
『ここは学校じゃないんだよ、坊や』
隠し持っていたすべてを見透かされた気がして、富樫は口を押さえた。子供っぽい否定や下手な弁解などせめて自分の口からは聞きたくない。
塾長は一言、大事ない、と老女に言い、車だと富樫に命じて後部座席にさっさと乗り込んだ。富樫はうつむいて、はいと消え入るような声で答え、車を自宅へと
急ぎ走らせた。
シートベルトを締めるのにも手が震えておぼつかず、ハンドルを握る手指が真っ白だ、まるで力が入らない。奥歯をごりごりとかみ締めながら必死に意識を集中
させる。
どうにも自分が情けない、富樫は灰白の空をフロントガラス越しに睨み上げ、一度鼻をすするとアクセルを踏み込んだ。
夕方に近づいてから雪が降り始めた。
せつ、
せつ、
せつせつ。
ほそほそと音があるのかないのかわからない軽い丸雪が薄暗い灰白空からゆすり落とされてくる。
車を一旦家の前に停め、後方をろくに確認せずにドアを開けて飛び降りる。降りたとたんに足元がざりっと滑って危うく転びそうになって富樫は声をウッと漏ら
した。薄く黒々とぬれた道路砂糖をふるいがけした程度の雪だったが、注意力の落ちている富樫を滑らせるのには十分な力を持っている。舌打ち一つと同時に雲
よりよほど真っ白な息の塊が飛び出た。
後部座席のドアを開け、
「着きました、すぐに手当てを」
そう言う富樫をじろりと不要だと言いたげに目玉が睨んだ。ひるむ。自分がちっぽけな塾生だったころからこの目ン玉が苦手だったぜと思い出した。
しかし今俺はあの老女が言ったように『坊や』であってはならねえと肝を叱り付けて言葉を続ける。
「俺に出来ることをさせて下さい、」
後生だ、という目で富樫は言い切った。すがるようなその眼差しに塾長は折れた、折れてやった。
「……フン、風呂を沸かしておけ」
手を貸そうとする富樫を肘でどついてさっさと、ふらつきなど微塵もみせずに家へと入っていく。富樫はぼうっとなって、肩に髪の毛に雪を積もらせながらしば
しその背を見送った。
車が邪魔だと、そうクラクションが急かすまで富樫はそうしていた。
雪は降り続いている。
し、
し、
し、
し、
水気を無くした雪の大き目の塊が、さっき積もった上にのしかかる。下になった雪は溶かすまいと支えている。
富樫が車を車庫にやって家に戻り、風呂に熱い湯を張る支度を済ませるとようやく人心地ついた。自分の見慣れた家であることが富樫に安堵をもたらしている、
富樫は家の中だというのに吐く息が真っ白なのに気づいた。電気もつけていない、家に入るなり風呂場に小走りになって湯を張ったのは滑稽かもしれない。とは
思わない、富樫は目の前で精一杯になるほど煮え詰まっていた。
「塾長」
塾長の自室にどすどすと床を踏み抜く勢いで走る、庭に面した廊下は外となんら変わりない寒さで、庭にうっすら雪が積もっているのを横目に唇を噛んだ。寒さ
が厳しくていい、富樫はとりあえずの救急箱を抱えて部屋の障子に接し、声をかける。
「塾長、の、その、入ってもいいですか」
寒さにだ、と口ごもった理由を勝手に決めた。うむと返事があるなり、障子にかけていた手はすぐさま開け放つ。
たったの六畳ほどしかない質素としか言いようのない塾長の私室、ここも外と変わりない寒さである。富樫は自分を迎え撃つようにして座っている塾長に正座し
て頭をまず深く下げた。
「今日は本当に、申し訳ありませんでした!!」
指先まで力を入れて人に詫びるのはいつぶりだろうか、それとも初めてだったろうか。富樫の思惑など関係なしに、塾長はぐいと着ていた着物をもろ肌に脱い
だ。薄暗い部屋の中で、桃色にすら見えそうなその肌はまぶしい。
「手当てをするのだろうが、早くせい」
弾かれたように富樫は飛び上がり、救急箱から脱脂綿を取り出した。傷は手のひらだったので脱ぐ必要はなかったが、富樫は何も言わずに脱脂綿に消毒液をしみ
こませた。
塾長が富樫の目の前に手のひらを開く。
一文字の薄いが皮膚を切り裂いた傷、血が手のひらに広がっていた。それを見たとたんに泣き出しそうになってしまう、けれど女子供ではないので堪え、ピン
セットなどまだるっこしいと指でそのひたひたになった脱脂綿をつまみ、傷口に当てた。
しみるだろうか、上目遣いに富樫はほどけた前髪をジャマに思いながら塾長の顔を見た。
真顔であった。
「おい」
「え、はい!」
真顔が崩れて、フフフと鼻を膨らませて笑い出した。
「こそばゆいではないか、馬鹿モンが」
力がするすると抜けていく、情けないやら強い塾長がうれしいやら、許されたのか不安になるやらまぜこぜになっている。
消毒を終え、傷に大型のカットバンをべったりと貼る。もし万が一にでも翌朝膿むようなら病院だ、それとも医者を呼ぶか、そこまで富樫は考えている。
突然隣にあったはずの大きな気配は動いた、立ち上がっている。
「風呂だ、まさか水風呂ということはあるまいな」
太い眉を持ち上げながら睨み下ろされて富樫は跳ね立った。先日うっかり水風呂に塾長を入れてしまい大目玉をくらったばかりだったのである。
「いやっ!今日ァちゃんと熱熱です!」
「ならばよい、おい――」
背中を流しますの一言も言えんのか、気の利かん奴だ――
そうからかわれて富樫は救急箱を蹴倒すほど慌てて部屋を飛び出してついていく。
どう考えても塾長の趣味ではなさそうな冬薔薇が一塊、雪を被っている。
雪は勢いを増したようで、風に斜めにつんのめりながらすとすとと落ちてきていた。
少々、熱すぎたかもしれねえ――
温度設定をあまり見なかった、が、これはおそらく50℃近いのではないかと見てわかるほどに風呂は煮えていた。外の寒さも手伝って、檜づくりの湯殿一杯に
湯気が真っ白く立ち込めている。もともと塾長は熱い風呂を好む性質ではあるが、行き過ぎだ、富樫は慌てて水を蛇口からひねり出した。
「うめるな」
そう言われてしまえばうめるわけにもいかぬ。最初は背中を流すだけだと服を着ていたのだが、『無粋』の一言で片付けられてしまって富樫も全裸である。
塾長は富樫に背中を向けてどっかりと風呂椅子に腰を下ろした。椅子から体がはみ出ている、椅子が小さいのではなく塾長が大きいのは明らかである。
「流せ」
富樫は言われるまま手桶に熱い湯をくみ上げ、背中にそろそろと流した。背後に回って流すので、富樫にもばしゃばしゃと熱い湯がかかる。正直に言えば悲鳴を
上げそうな熱さだった。だが油風呂の富樫と言われた富樫、こんな熱さでネを上げるわけにはいかぬと気張り、何度も背中に湯をかけていく。
湯が湯殿の床に落ち、新たな湯気を巻き起こす。もうもうとした湯気で息が詰まりそうなくらいだった、富樫は手ぬぐいを湯に濡らすと真っ白い石鹸をこすり付
けて泡立てる。ぶくぶくと手のひらに膨れたのを見計らって、大きく広い背中をごしごしとこすった。
広い。
わかってはいたが、広い。富樫は改めて塾長の大きさに舌を巻く。
こすれどもこすれども。
と、背中が大きく揺れた。なんだ、と顔を上げる。
「わっはははははっ!なんじゃその力のないこすり方は!ソープ嬢ではなかろうに」
かっと顔を赤くした。そんな軟弱な言われようには断固反論すべきだ、言葉ではなく行動で。
持ち前の負けず嫌いを発揮した富樫、湯気と熱気にボウとなりながら削れろと力を込めて背中をこする。
肩甲骨、背骨のトツトツ、後ろにまで筋肉の分厚く張り出した首、もりもりとたくましい肩、それから禿げ上がった頭!
頭をゴシゴシやった時にはさすがに怒られた。
これ、と苦笑をにじませて言う言い方が少しばかり爺くさくって、富樫は目じりを下げて少し笑った。
頭がくらくらする。
富樫は塾長の背中を洗いながら、熱い息を吐いた。
「あれはああいう女だ、ワシが好きでたまらんのだ。フッフフなかなか愛いだろう」
独り言かと間違うような小さな声だったが、富樫はううとだらしなく答える。
「貴様一人甘えるくらい、なんということもない、ワシをなんだと思っておる」
うう、うう、富樫はもう手ぬぐいを上下させるだけで精一杯である。もうよい、の一言がもらえるまではがんばろうと思っているのだが、なかなか許しは訪れな
い。不手際を許されるまではまだ足りない、そう思うと富樫はがんばり続けるしかない。
「くだらん事を考えている暇があったら、もっとうまい飯を作れ」
塾長の声が満ちる湯殿、富樫は背中に一つ黒い黒子を見つけて意識を叩きなおす。ひとつ、ふたつ、数えながら相槌を打って自分を保つ。
「…はい」
「よし、久しぶりにあれが飲みたい、付き合え」
あれというのは塾長秘蔵の日本酒である。日本酒にしてはえらく辛いので、酒が嫌いではない富樫でも舌を突き出しながら舐めるようにしか飲めない。
「…はい、」
「つまみは任せる」
「…はい、」
「貴様なんぞ、息子も同然。息子が頼りないのは世の常じゃ」
わっははははっ、今度こそ鐘を叩くような笑い声に頭をしたたかに割られて、富樫は鼻血をぶうぶうと吹いた。
「そりゃあ相当にかわいがられてたのさ」
桃の言葉に富樫が素直にうなずけるようになったのは数年経ってである。
「そうだな」
すっかり中年になった富樫である、だが中年に甘んじ、成り下がりはしなかった。今も富樫のままである。桃は当然のように桃であった。それを互いにうれしく
思っている、まったくこの日本は諦めた果ての中年のなんとも多いことか。それというのも持っている矜持をことごとくにへし折られてしまっているからだ。在
る、在り続ける、まっこと幸せであった。
「鎌倉の昔っから、武将は背中を流させることを家臣への最大級の信頼の証っていうぜ?」
「そうなのか?」
桃は目じりに皺を作って笑った。中年だというのに肌は若い、だというのに笑うと誰よりくっきり愛嬌ある笑い皺が出来るおかしな男だ。
「そうさ、背中を向けるだろう」
「まあそうだな」
答えながら富樫は自分の手を見た。年月が刻まれて、手の甲は網目に細かい皺が縦横に走っている男の手だ。
「その上、自分は刀一本持ち込めねえ、よほど信頼してなきゃあ出来ることじゃない」
言われて富樫、確かに確かにとうなずく。やめた煙草が欲しくなる、空が乾いていて、無性に口寂しい。
「しかも、後ろから入る人間は刀を持ち出しても相手にはわからないからな、背中を向けてるんだから」
「ああ」
と、富樫の胸ポケットにあった携帯電話が無粋に鳴り出した。富樫からははっきりとは見えないが、桃はちぇ、と不満そうに唇を尖らす。
「塾長か」
「ああ、悪いな、また今度」
たまに会って茶でも一杯、そんな他愛ない時間はもう終わり。富樫は秘書の顔に戻って、桃の分まで勘定を支払うとそそくさと小走りに喫茶店を出て行った。
カラン、とドアベルが別れを告げたのを耳にして、桃は苦笑する。
武将が家臣に背中を流させることが最大級の証。
それは確かである。
だがそれと同時に、武将達は奥方達の目から隠れた湯殿を気に入りの小姓に背中を流させて睦みの場にしていたのも事実だ。
「まあ、武将だろうが小姓だろうが、あの塾長には関係ねえか」
フッフフ全くかなわねえ、微笑みながら桃はそう独り言を呟いて、喫茶店のクッションのきいた座席に体を預けた。
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