変態と呼ばれた男、その真実
富樫はびゅうびゅうと勢い良く鼻血を噴き上げていた、そしてそれを止める手段を持っていないのでなすがまま噴き上げている。
間欠泉。
弱まったかと思えば、急に噴き上げる。富樫の心臓と直結しているかのように鼻から血液は飛び出した。
勢いがいい、富樫という男をそのまま現しているような勢いに困った本人は鼻を手の平で押さえた。指の隙間からどろりと溢れてくる。貴重な血液がリットル単位で失われていく。
上を向いて、手で首の後ろをとんとんと叩く。また一脈血が勢いを増した。近年、上を向いて首筋を叩く止血方法は誤りであると結論付けられたが富樫は知らない。
有り余る血を不本意なやり方で排出した富樫は醒めた。さすがに鉄錆びでぬるぬるする手は敬遠したいところで、更に言えば酒で言うアテも真っ赤になってしまっている。
富樫はがっくりと肩を落とし落胆する、めったに無いであろう貴重な機会を逃したのだ。ため息が唇より滑り出て行って、乾きかけた赤黒の上でわだかまる。
珍しく、桃のヤロウどっか行っちまってたってのに…
富樫が鼻血を噴いた理由は想像に難くない。鼻をほじりすぎた以上に彼らしい理由である。
「あーあ…」
どうすっかなコレ、血だまりから富樫が摘み上げたのは紛れもなくエロ本であった。
秋の夜長にと、ついぞ虎丸から借り受けたエロ本を引っ張り出したのがまず第一に失敗である。禁欲生活を送る青少年がそんな本を開いたらどういうことになるのかは火を見るより明らかであるというのに富樫は開いた。吸い寄せられるように本を開きページをねちねちと送り、その中で気に入った巨乳の見開きを床に置いた。本を持ちながらできるほど富樫は器用ではない。何がというのは問題ではないので割愛するが、富樫はとにかくせかせかと始めた。急ぎ終えねばならない理由がある。桃、桃は「ちょっと出てくる」と言い置いてわずか数刻前に出て行ったばかり。同室の桃が戻る前に終え、窓を開け換気を済ませなければならない。桃は気のいい男であるが、最近距離を限りなく0に詰めすぎてそのうちマイナスへと移行しそうな関係の密さに戸惑いを感じる昨今、桃の居ぬ間に洗濯ならぬマスかきに富樫は没頭した。
たちまちに手の内のものは膨れた、鬱憤やら煩悩やらさまざま溜め込んでいるのだから当然ではある。が、急げ急げと自らを急かしているうちに興奮で額に青い血管が浮き、頭がくわんくわんと鳴った、心臓もどんどん胸を破らんばかりに強くつく。急げ、ああ、急げ。
過ぎた興奮に鼻血を噴いた。それだけの話である。
それだけであるが、その後もある。まさか血をそのままに桃を迎え入れるわけにもいかず富樫は己の血で血染めになってしまったエロ本を取り上げると未練がましく部屋の窓の手すりへかけて秋風にさらし、血だまりはそこらの手ぬぐいでごしごしと拭った。顔の鼻血もついでに拭った。が、乾きかけの血は頬の上で擦り伸ばされて顔に赤黒を散らしてしまう結果となり、結局顔を水道でざぶざぶ洗うはめになった。手ぬぐいを尻のポケットに突っ込んで、富樫はため息も惜しみ惜しみ布団をかぶって就寝する。桃と鉢合わせするのは避けたかった、この傷心のうちにまたいつものようになあ富樫とやられたのでは完全に拒絶する自信もなくなっている。いつも完全に拒絶できているかといえば異論があがるところであろうが、それは何も桃ばかりのせいという訳でもなかろう。ともあれ富樫、桃と顔を合わせず布団をかぶって寝た。
風のない秋の夜、どこか近所でサンマでも焼いたのか煙と魚のあぶらのにおいが細開きの窓から湿気とともに入り込んできている。富樫は布団の中ですんすんと鼻を鳴らす、それから乳の群れに囲まれる幸せなのかそうでないのかわからない夢を見た。
さて今まで何故そんなこと、富樫が何故鼻血を噴いたかを長長説明したかといえばこれは富樫源次の名誉のためにほかならない。
富樫という男は繰り返し語りつくされる馬鹿である。ためしに明らかにピンピンのピン札の束を、道を歩く富樫の目の前に落っことしてみたまえ。それが見るからに子供銀行券の束であるにもかかわらずスライディングで滑り込んでくるだろう。空腹の彼なら、運がよければそのまま飯屋へ威勢よく入っていくかもしれない。ピン札の束などポケットに突っ込んで歩く人間なぞヤクザ屋ぐらいのもの、わかっているはずなのに飛びついてくる、そういう男である。
富樫は馬鹿だ馬鹿だと記したが、それだけではない。
それ以上に貧乏くじが富樫である。
その、このたび引いた貧乏くじについてより詳しく説明するために一連の富樫の鼻血について説明をさせていただいた。
さて、貧乏くじについてである。
富樫は飛び起きた。遅刻ギリギリに起きるクセがついてしまっている。ギリギリ、いや、既に遅刻である。日も高々。完全に遅刻を通り過ぎて昼飯時に迫っている。秋の青空はくすみ知らずで、落ち着きある日の光が富樫の顔の上にしたたってきたので眼をさました次第。同室の桃の布団はカラである。
「桃のヤロ薄情コキやがったなぁ」
飛び起きたまではよかったが、どうあがいても遅刻の時刻と知れると投げやりになった。いっそこのまま寝ちまうっていうのも手だな、富樫は布団に肘を立てた手枕で窓の外を眺める。顎には生えたばかりの髭がふいている。ぼりぼりと頭を掻き、しばし夢半分の贅沢を味わった。
窓の外はトリが行きかっている。名前は知らぬ、富樫の中のトリはニワトリとスズメとツバメ、それからカラスにしか分類がされていない。その中でもニワトリは別分類、これは食えるからというだけの話でしかない。
二度寝というのは贅沢だ。
富樫は皆がシゴキに喘いでいる中自分だけが布団に包まっていると思うとニヤケを抑えきれぬ。性質の良くない笑みに富樫の顔は崩れる。
いい気分だ、富樫は布団の中でささやかな幸せを繰り返し繰り返しかみ締める。
幸せのいいところは、何度も取り出しては味わえるということにあった。
ガニマタのたのた、富樫がようやく二度寝からさめて登校、教室前にきてドアを開けようとしたところ、どうも中が騒然としていた。
最初は昼飯だけは食いはぐれぬように食堂へ向かってみれば、猫の子一匹おらぬ。なんじゃと首を傾げた。何はなくとも飯だけはの男塾塾生、富樫はこれはただ事ではないと教室に戻ってきたところである。
ドアに手をかけ、中から響いてきたのは田沢の大声。
「この犯行は、どう考えても桃に懸想する人間のものだろうな」
「ケソウ?ケッソウてなにかのう」
松尾の声もする。緊迫はしているのだろうが、本人の気性からかのんびりしているのはいかんともしがたいようである。
「懸想というのは、ようするに想っているということだ」
「ちゅうこたぁ、桃のことが好きで、そんで取ったってことかよう」
「そういう事になるな」
おお、教室内はざわめいた。富樫は中に入りそびれてしまい、板張りの廊下で立ち尽くす。
「だがよう田沢、あんなもん盗ってどうすんじゃろう」
「そらおめぇアレだよ、なぁ」
「アレってななんじゃ」
ヒヒヒヒヒ、下品な笑いが湧いた。わかるものわからぬものそれぞれの反応が混ざってどっと沸く。
「おめぇもしカワイコちゃんのパンツ手に入れたらどうすんだ?」
「どうするって、そりゃあ……あッ!?」
ワッハハハハ、ガッハハハハハ、
「桃ォ、おめぇイイオトコだからそういうコトも有ると思って諦めろや」
「そうそう、フンドシぐれぇ一本キリでもかまやしねぇだろ」
フンドシ?ここに来て富樫はようやくドアを開けた。注目が一斉に富樫へと向かった。
「うーっす」
遅刻も遅刻で入ってきた富樫に、塾生達は口々に遅い遅いと騒いだ。富樫は窓際の指定席に塾生を掻き分けてすすむとどっかり腰を下ろす。
「なんでぇ人のいねぇ時にグダグダと騒ぎやがって」
「それが、桃のフンドシが盗まれたらしいんじゃ」
「盗まれたァ?ンなもん盗ってどうすんだよ、大方どっかに落っことしたんだろうぜ」
それがな、言葉を発したのは桃だった。桃は騒ぎの中心であるべきだというのにいつも通り机に足を投げ出して大人しく座っている。
「桃」
「それがな富樫、昨日俺が夜風呂の後出かけたのを知ってるだろう」
「ああ」
「盗られたのはタンスにしまっといた替えのフンドシじゃねぇ、脱いで部屋に置いといたほうのフンドシなんだ」
「はぁ?」
呆れる富樫、もっともである。誰が好き好んで野郎の、それも脱いだフンドシなんぞ盗ろうとするだろうか。
秀麻呂が口を挟んだ。
「そんじゃ富樫も犯人見てんじゃねぇか?」
「ああん?」
「覚えてねぇのかよ富樫」
「ってぇか、そしたら富樫が犯人じゃねぇか!!」
突然大声とともにツバが富樫の顔めがけて降ってきた。興奮した虎丸がめちゃくちゃにしゃべりだしたためツバはマトモに富樫はかぶってしまう。
「きたねぇなバァロイ!なんだって俺が犯人なんだよ!」
怒鳴り返した富樫への虎丸の反応ときたら酷いもの、
「桃のフンドシ、ほしかったんじゃろ」
よりにもよってな理由に富樫もいきり立つ。松尾がまぁまぁとなだめた。
「ったくよぉ、俺を疑うなんてどうかしてんぜ…」
昨日の夜から尻ポケットに突っ込んでいたままの手ぬぐいでもって富樫は顔を拭いた。着の身着のままの塾生ならでは、寝巻きも普段も同じ。だからこそ貴重な替えのフンドシが盗られて騒ぎたくなる気持ちもわからないでもないが富樫は疑われてすっかり憤慨していた。手ぬぐいは昨日使ったままのため、拭った血液でガビガビになってしまっていて富樫は構うものかと擦りつける。
「あ、」
桃が珍しく間抜けな顔で富樫を指差した。
「あんだよ」
「それ、血がついてるじゃねぇか。きたねぇな、顔まで血が伸びてるぜ」
ああ、富樫は顔から手ぬぐいを離す。滲んだ血、昨日の晩の失態が思い起こされて富樫の顔は渋くなった。
「ああ、昨日の晩ちょいとな」
富樫は手ぬぐいを広げた。はらり、紐が二つぶら下がる。
「………あん?」
なんだ?その答えは桃が富樫へ寄越す。
「それフンドシだな、………俺の」
大騒ぎになった。
富樫の名誉、最初から有ったかどうかは怪しいものではあるが今となっては地に落ちている。
「よう変態ィ」
「俺のフンドシ盗るんじゃねぇぞ、くっせぇからのう」
「変態、桃のフンドシに手ェ出すなんて馬鹿かよ」
そうにやけ顔で挨拶代わりに背中をどつかれることもある。
富樫は耐えている。じっと耐え忍んでいる。
あの後は大変な騒ぎになった。
違う違う、俺は盗ったわけじゃねぇと真っ青になって弁解する富樫に向かって桃は悪意の無い微笑を向けたのだった。
「言ってくれりゃ、俺の使い古しなんかじゃなくて新品を譲ったんだがな」
桃、ああお前って奴はなんていい野郎なんだと感動に涙を浮かべんばかりの富樫を凍りつかせたのは伊達の一言。
いかにも意地悪そうに、にやにやと唇の左端を吊り上げた笑みが伊達の男前を飾っている。
「それは違うぜ桃、こいつは使い古し、テメェの脱ぎたてが欲しかったんだろ」
伊達ェ!!富樫は思わず掴みかかりそうになった。
「手当てに使ったんじゃないのか?血もついてるし」
桃はあくまで富樫を弁護するようだ。それでは面白くないと嫌な団結の仕方を見せる一号生達に桃は憂いを帯びた眼差しで見渡す。皆富樫が犯人ならそれは『面白い』と思って一斉に囃した。
「お、おおそうじゃ桃、桃の言うとおりじゃ」
渡りに船、桃の手を握る。握り返される。まだ桃は俺の味方じゃ、富樫はこの起死回生の機会を失うことを避けたく思い声高に主張した。
「昨日マスかいてたら鼻血を噴いたんだ、悪いが雑巾代わりに使わせてもらったぜ」
「俺のフンドシでか?」
桃の目が冷えた。
あ、富樫が自分の言い方を訂正する前に伊達がとどめを刺した。
「桃のフンドシに顔突っ込んで鼻血噴いたって?とんでもねぇド変態だな」
人の噂も七十五日。富樫は耐えて耐え忍ぶ。
耳を閉ざして口を噤む、俺は貝だと耐え忍ぶ。
「欲しいって言うんなら言ってくれりゃよかったんだ、お前なら中身だってやったってかまわねぇよ」
「聞こえねえ、全然聞こえねえ、全ッ然聞こえねえ!!」
冬を前に、富樫はずいぶんとお寒い思いをすることになった。
これがこのたびの騒動の全てである。どうであろう、彼の信頼回復には足るだろうか。
余談ではあるが、その後世間上の被害者である桃は富樫に駄目にされたフンドシの代わりを要求し、富樫の手作りフンドシを持って和解を成立させたとのことである。縫い目のばらばら大きいフンドシを桃はそれでもありがとうなと笑って受け取った。
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