或る編集者

なつかしい、自分が生まれ育った家に似た文化住宅の前で彼女は立ち止まり首を曲げて見上げた。
築三十年は経っているだろうか、白色モルタル塗りの壁には皺のように皹がいっているし深青の瓦も整然とは並んでいない、玄関の格子戸に貼り付けられた薄っぺらのガラスには黄ばんだセロテープ。のび放題の竹やぶに囲まれた小道を無造作に置かれた飛び石にしたがって歩き進んだ先に、元日本国総理大臣剣桃太郎の私邸があった。
彼女の膝あたりまで突き出ている竹の子を一瞥すると、手櫛でぎちぎちに結い上げられた髪の毛から飛び出した後れ毛をピンへねじ込んで身支度を済ませる。
一息。彼女は字の通り緊張をしている。
インターフォンと言うより呼び鈴といった見かけの、薄汚れたベルを押すと、家の中でジィイといかにも昭和の音がして中で人が動く気配がする。
ほどなくして、気楽な白いシャツにスラックス姿、在任中はついに乱れることを見ることが叶わなかった自然のままに跳ねさせた髪の毛をそのままに、日本初の元武闘派総理大臣、剣桃太郎が笑顔で出迎えたのであった。


「まぁ上がれ、生憎一人で何も出ないけどな」
剣は寝起きだったのか瞼を腫らし、いつもより張りの無い声で彼女を出迎えた。彼女はきっちりと腰から一礼し、腕の時計を見て少々早かったですかと硬い物言いで尋ねた。
元総理は照れたように頭をかいてはにかみながらに言う。
「いや、そういうわけじゃあないさ。ただちょっと寝ていただけで」
「良かった」
「暑いだろう外は」
「はい」
彼女はとんとん短い返答を寄越すと、誘われるままにヒールの靴を脱いで上がりこんだ。
梅雨の直前、どうにもからりと暑い日であった。








彼女は編集者であった。
といっても大手出版社や華やぐファッション雑誌の編集者ではない。平成の世の中に絶滅も近いと言われる文学雑誌の編集者であった。地味で几帳面で、仏頂面の編集者であった。
大体文学など今時はやらないのだ。飯を食うにも困る。芸術はいつだって余力あるものが多くなければ発展しづらい。
流行るといえば一月で三十万稼いだ話、病気の恋人がいかにして死ぬか、どれだけセックスをしたか。編集者は苦々しく顔をゆがめる。
禁断の、純愛の、背徳の、真実の、はじめての、最後の、節操なしの刺激的でどぎつい言葉を躍らせるような文章が流行りなのだ。これはAVもそうだ。彼女は憤って声を張る。
モザイクの向こうにああいうものがありますよ、と煽るだけ煽るのがモザイク職人やカメラマンの腕の見せ所で、男は知らず顎を引いてテレビモニタの前で下から覗き込むのである。ああ見たいモザイクの向こう、どうなっているのかな、モザイク越しにはああいう色だったし実際はこうだろうか、いや実はこうかもしれない、結構モザイクが大きいな、もしやあの中身は。男はまこと夢を見て夢を食って生きる生き物である。
だがそこにポーンとモザイクなしのビデオが現れた。知ってますかねぇ君、君が見たがっていたあのモザイクの中身はこれこれこうなってるんですよ教えてあげますよ、ホラ御覧なさいこれが長年君が焦がれていた中身!どうですうれしいですか。
一時は全てを見た満足感に浸れるが、それもつかの間のこと。
現代の男を見よ、もう丸見えの現実に飽いて、二次元の少女たちに眼を輝かせているではないか!
それみたことか、想像する余地を残さない事実に人は魅力を感じないのだ。ああ嘆かわしい。
と、そういうことを勢いに任せて初対面の元総理大臣である剣桃太郎相手にとうとうと演説し、苦笑交じりに随筆の仕事を了解してもらったのがこの彼女である。
「それで、先日お願いいたしました随筆ですが」
剣はまず客に座布団をすすめ、次いで自分が座る前に話を切り出してきた彼女に目元がゆるんだ。胡坐をかいて座り、窓から見える竹林へ顔を向けて受け流す。
「俺は文学者じゃない」
「知っています、元総理」
彼女の視線が十分に自分に注がれているのを知っていて尚、剣は正面を向かなかった。彼女は彼女で自分に向き合わない剣を気にもかけずに言い募る。
「大体お前のとこじゃ政治は扱っていないだろう」
ひた、と石造りのように固い表情の彼女の目にかすかな笑みがとぼる。君、からお前に代わったのは親しみからじゃあない、遠慮が無くなったのだろう。望むところであった。続ける。
「はい、うちでは政治屋さんの文章は載せません」
元総理を目の前にしてなお、政治家のことを政治屋と呼ばうのが道をゆずらぬ彼女流。だが咎められはしなかった。
「それじゃあどうしてだ、言っておくが俺は文章書きの仕事をしたことはない」
胡坐をかいた膝の上で指がとんとんと踊る。ゆったりとした会話のリズムだったが、眼を合わせもしないのに確実に場の主導権を握ろうと追い詰めてくるように思われて彼女はぐっと正座した脚の指先に力を込めた。
「5月6日の民明新聞で、江田島平八氏について書かれたものを読みました」
「あれか」
とん、と指が止まった。いつその目がこちらに向いても屈しないようにと彼女は身構える。
「たった400字程度だ、思うままに書いただけだ」
「はい」
「あれっぽっち読んだだけで仕事を頼もうっていうのか?フッフフ、買いかぶられたもんだな」
今が機だ、口調が砕けて知り合いに接する時のように若々しいものになった今が機だ、と彼女は口を開く。唾を飲む。
「たった400字だろうが、あれは作品です」
「塾長……いや、江田島平八という男について俺が言いたいことの一割すら言いつくせなかったあれが?止してくれ世辞は政治で十分だ」
「それでも、」
身を乗り出した。止してくれとは言いながら面白そうに剣は彼女へ光を弱めて視線を配る。
「それでも、あれを読んだ読者は、江田島平八という人間に対して想像をめぐらすことが出来たでしょう。山を指差してほらその人はあれだけ大きいのだと言うように、その人が実際どういうことをしたのか書き連ねるより簡潔に読者を導けたはずです」
剣が、桃と呼ばれていた時代と同じ色をした目で彼女を見据えた。退かない。更に続ける。
「それでもたった、たった400字だ」
不思議な空気を持つ男だ、男も女も関係無しに自分の覇でもって包みゆくようだと彼女は一息入れる。
「お言葉ですが、文学は文字の群れです。人が何かをする時のように、一文字ではなんの役に立ちません。かといってただただ烏合の衆、船頭多くしてもと数を組んでもぼやけてしまうだけです。文字の群れ、その一文字一文字に力は無くとも、その組み合わせ次第では少数の群れでも大きな力を持つでしょう」
「群れか」
剣、いや桃の返答が短いところを見計らって彼女は初対面の時のように右手を振って演説するようにして語る。攻め入る。
「例えば、想い人に好意を伝えるのに十年かけた論文を持っていって歓迎されることはないでしょう。ただ一言好きだと言うほうがよほどいい。たった二文字、たった二人が何万人にも勝ることができる」
「ああ、それは…面白い」
「はい、文字は良いです。明日お前を殺すぞと電話するよりも半紙に黒々、殺すと書くだけでどれだけか恐ろしい」
「それはあるな、電話は切ったら終わりだ」
「元総理、あなたの文章はあの新聞にあった文章なによりも、いえ最近読んだどの本よりも簡潔で的確で、素晴らしかった。だからわたしは貴方の書く物を、形として残したいのです」



彼女は唐突に黙った。頬を興奮に上気させて、肩をセイセイと上下させている。竹林から滑り込んできた、竹の香りをたっぷり含んだ風が彼女の体温を冷やしていく。息が整ったところで、一言。



「お願いします」



どれだけ沈黙が続いたか。
ははははは、と桃は快活に笑った。竹風よりもすがすがしい、含みなく腹から響くようないい声で笑い続けた。彼女は身動きしない。桃をじつと睨んだまま、手を畳みについたままその笑いを身体で受け止めている。何故だか触れられているわけでもないのに吹き飛ばされそうだと思う。


「確かに短い言葉だろうが効くな、そこまで言われちゃ仕方がない。書くよ。ただしつまらなくても愛嬌だ」
「ありがとうございます」

そのまま、彼女は頭を深く下げて笑いもせずに礼を言った。スーツの上着で隠れてはいるが、シャツの背中にはたっぷりと実に汗をかいている。
一度引き受けたら必ず責任を果たす性格の桃は顎に手をやってううん、ううん、何を書くかなと案外乗り気で考えに耽った。
「短くていいだろう、最初なんだ。手加減してくれ」
「はい、それで最初のテーマなんですが」
「ああ、今考えていたところなんだが…何かいい案でもあるのか?」
胡坐の片膝を行儀悪く立てて背中を丸めると顎をその膝に乗せ、唇にすこしばかりサワヤカさに欠ける、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。ああ、こういう顔できっと旧友達(そういえば総理自身は戦友だとおっしゃっていたっけ)と接するのかと納得した。こっちのほうがなかなか、生身らしくて好感が持てるなどとえらそうなことすら思う。


「はい、テーマですが…」





彼女は普段どおり四角四面、鉄仮面のあだ名にふさわしい仏頂面で言った。


「富樫、ではいかがでしょうか」

剣桃太郎元総理大臣が仰天して口をぽかんと開くところなんてそうそう見られるものじゃあないな、と彼女は内心胸を躍らせながら白々と先程桃がそうしていたように竹林へ化粧っけのない青ざめた顔を向けた。
おそるおそる、手探り色の強い声が追ってくる。

「一応聞くが……何故だ?」


尋ねられて、彼女は眼を合わせると今日初めてにこりと、にこり晴れ晴れと笑った。







「それは元総理、あの400字の中に8度も富樫富樫と書かれていたらそれは気になります」
あはは、と顔に似合わぬ少女のような軽い笑い声を立てて、編集者は笑った。
桃も照れたように困ったように拗ねたように、苦笑する。







かくして、月刊『文藝トキワ』には、かの剣桃太郎元総理大臣の随筆連載が始まることとなった。
連載第一号、『俺と富樫』、絶賛大好評につき売り切れ御免。お求めはお近くの書店もしくは直接出版社まで。





















「桃、俺ァこんなことひとっことも言ってねぇぞ!!!!」
「まぁそういうなって、もう書いちまって本にもなっちまって、そのうえ完売御礼するほど売れちまったし重版もかかってる」
「と、止めろォ!!重版止めろォオオ!!」
そんな波乱があったことを、或る編集者は知らない。
モクジ
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