ヘンクツは友人ですよ
別にね君、ワタシは和室の襖のようにすすいと開けよと言っているわけじゃあない。
ただちょっと君、それは激しいって言ってるの。いつもいつも。
ねぇ君、美貌の君。
ワタシの純情と、それから買ったばっかりのスタバのコーヒー返しておくれ。うん。
神様仏様飛燕様、手の施しようもない患者たちがまわりまわって最後にすがる先として飛燕様の名前は知れ渡っている。ワラをも掴む、ではない。
彼、飛燕はワラどころでなくぶっとい丸太なのだ。すがりついて尚しがみつけるだけの男だ。
かくいうワタシも彼に遠く及ばないながらも医師。もう三十を越してはいるが花の独身である。独身女の小児科医の嫁の貰い手はいまだ現れない、何故だ。
まあそれはいいね。つまらん話になるだけ。
うちの病院で飛燕様は神様扱いだということ、いいだろうか。
素晴らしい腕だ。こればかりは否定の余地もない。微塵にもない。
「きゃあッ!今日私飛燕様の回診の日だ!」
「いいなぁ、ね、かわってよ」
「嫌よ、月に一度しか回ってこない日なんだし」
「ケチィ!いいわよね外科ナースは、飛燕センセイの直属でさぁ」
「ふふん」
「あーあっ、私も外科に行けばよかった…」
「君たちね」
君たちね、ワタシは口を挟む。白衣の小鳥達はようやくもってワタシに気づいたよう、遅いの。まったくもって遅い。
「センセ」
「小児科が嫌なら出ておいきよ、ホラ。こんなに優しいセンセだっていうのに尚不満だって言うならさ」
そう言うと彼女らはしおらしくスミマセンと言う。もう何度目か数えるのも面倒だけど、十はこえているんだったら。
ふん、どうせこちらは三十路を進む小児科医、最近じゃ合コンだって誘ってくれなくなったじゃないか君たち。わずらわしいと思っているなら、早くコトブキ迎えられるように協力したらどうなんだい。
先日聞いたところじゃ、ワタシをナンだ、『ヘンクツ』とか呼んでるそうだね聞いたんだよ。聞いたんだよワタシは。オッサン言葉の独身ヘンクツ。酷いじゃあないかキミ達。人を三十路だと思って。
ああ悲しいね。年を取ると良い事なんかない。
一番ベテランのナースはにっこりと笑った。
「いいえ、センセのトコも中々です」
腰に手を当ててエバリながら中々と来た。ふふん良く言ったもの、物怖じしない彼女は更に言う。メガネの初々しい新米ナースがおろおろと彼女の袖を引いた。キミね、言おうと思ったけど子供の前ではおろおろしない、子供は結構見てるものだよ。しっかりしなさい。
「だってセンセ、飛燕センセイのお友達でしょ?飛燕センセイに毎週いらしていただけて嬉しいわぁ」
「センセ、とセンセイ、じゃ偉い違いに聞こえる。飛燕目当てだなんてワタシは悲しい、ああ悲しい」
やだあセンセったら、彼女はワタシのくたぶれた背中をバンバンと叩いた。
小児科控え室はあかるい笑い声で満ちた。ふん、ワタシをネタに笑うなんて薄情なナース達め、いいさいつかワタシが結婚したって披露宴にも呼んでやらんし、ナイスな青年医師も紹介してやらん。オッサン言葉の独身ヘンクツだからね。
むくれるワタシを見て、彼女たちは遠慮ない若々しい笑顔。ああワタシのように笑う時に小じわを気にしたりしなくて済むんだ、なんたる幸せだろう。
控え室にまでは秋の木漏れ日は届かない、けれど栗入りのどらやきが置いてあったので不機嫌に任せてむしむしと三つも食ってやった。
栗の味は薄い、加工品だ。いいのそれでも、病院なんぞに居ると季節なんか忘れてしまってるんだろうし。
栗。ああまた引っ掛けてしまった。ワタシはコーヒーをあおる。冷めるのが勿体無い、だからテイクアウトするのはアイスのみ。理にかなってるだろうと言うと、誰も賛同してくれない。悲しいね。
忘れた季節の隅っこに、未だに引っかかっているのはどうしても忘れたいことばっかりなのだ。人間の脳は、良い事より悪い事を強く覚えておくことで警戒を促す傾向があるって言っていたのは誰だか。忘れたよ。
「いますか?」
「いないよ」
いないよとはっきり明確に言ったのに、飛燕はさっさとドアをビシャンと叩き開いて、それからバチンと叩き閉めて入ってきた。いっそ公衆便所にある障害者トイレの、あの重たくってビシャンとはできない戸にしたいところだよ。
「いないと言ったよ」
「いるじゃないですか、馬鹿やってないでちょっととりあえずお茶でも出したらどうなんです」
飛燕の舌は深夜だっていうのにどうしてそんなに羽ばたくようなんだ?一度聞いてみたいとは思ってたんだ。
「看護婦もいないんだけどね」
「看護婦はお茶くみ嬢じゃあありませんよ、この部屋の主人は貴方なんだから貴方がやればいい」
さっさと来客用のイスに腰を下ろされた、軋む音もしないんだから美形っていうのはどうなってるんだろう。体重もどうこうできるの?ねぇキミ。
ワタシはシブシブ立ち上がった。座りっぱなしだったワタシの尻でプレスされた白衣が妙な皺をつけてしまっている。
淹れた茶は出涸らしだけどいいよね。ワタシはコーヒー派、確かこれはナース達が淹れた時の茶殻、
「嫁入りの希望を打ち砕かれたいんですか?」
背後に気配。気配というかこれぞ殺気。あなやおそろしい。顔を狙っていただろうさ、確実に。
振り向いてみると、さっきの殺気なんか見えない。おそろしいね本当に。
「でもお茶がどこにあるのか知らない」
言うなり尖ったつま先がワタシの脛、弁慶さんを蹴った。
「ぎゃッ」
「やもめ暮らしの中年オヤジじゃないんですよ、全くもう」
大して変わらないよ、言おうかと思ったがあんまりにも悲しいんでやめた。
飛燕様はさっさとワタシのコーヒータンブラーを手にして口をつける。ああ、ワタシのアイスラテ。
まぁうん、すごくすごくどうでもいいんだけれどねキミ、飲む前にのみ口のところくらい拭いなさいよ。恥ずかしいから。こっちがね。
「どうせお前のだろうに」
ぽろりと飛燕はワタシを昔のようにお前と呼んだ。最近はワタシの役職や年齢、独身であることなどを考慮してくれてか『貴方』と呼んでくれている。
同期だった。
抜きん出た技量と、それからオマケと言うにはあんまりにも大きな美貌を引っさげて就職してきた飛燕。
ワタシは隠れていたよ。目という目がワタシを素通りして行ったのはさすがにがっかりした、同時にほっとした。
いくつもの目にさらされながらも飛燕は飛燕のままだったね。今と何にも変わりはしないよ。
「ワタシのだけどさ」
「冷めてる」
「アイスを買った」
「季節感が無い」
くだらない会話だ。内容なんかあってないようなものだね。うん、キミ、ねぇキミ、
「恋の悩み以外なら、聞いてやってもいいけど」
何か悩むなり面倒ごと抱え込むなりしてるんだろ。白状したまえよキミ、一応ワタシは年上なんだし。女が自分のほうが年上だと威張れる機会なんてそうそうない。飛燕は苦笑した。笑うな、無礼ものめ。
「来月から、アメリカはニューヨークへ講演旅行をせよとのお達しですよ」
「行ってらっしゃい、土産は」
今度は座っていたイスを蹴られた。回転する丸イスなので一回転して戻る。
「また、現場から離れなければいけない…」
辛そうにというか、痛そうに飛燕は言う。ワタシは喉が渇いたのでタンブラーを手にとって、減ったアイスラテを啜った。こら、咎められる覚えは無いよ。これはワタシのだ、睨むな。
飲み口を拭うのを忘れてしまったじゃないか。
今回の講演旅行のメンバーに実はワタシも含まれていたりしてね、ウン、実はすごく楽しみだった。
「働きづめだったし、慰安だと思って行ってきたらどうなのさ。向こうはきっとまだあったかいんだろうね」
「一人でも多くの人間を救いたいと思って医師を選んだのに、こんな回り道」
回り道、飛燕は吐き捨てた。
昔っからそうだった、現場第一主義と言うかなんというか、崇高な思想とやらはワタシには理解できないものだった。
いいじゃないの、キミ。キミが話すことで沢山の医者が勉強になるんだろうしさ。ねぇキミ。
それじゃあ生ぬるいと飛燕が言ったのを思い出した。
一度か二度、最近じゃなくなったが飛燕の執刀を見たことがある。研修時代ならともかく、飛燕は殆ど自分の執刀を見せたがらない。中には代理がやっているなんて馬鹿言うのもいるけど違うね、無様なんだ。
無様としか、滑稽なまでに飛燕は必死に執刀する。優雅さなんかはかなぐりすててる。
もしかして自分自身が生きるの死ぬのを賭けてる?聞いたら飛燕は笑った。ワタシの洞察もてんで的外れでもないだろう。
何が何でも、助けてやりたい人間がいる。そのためにどんな人間でも治せる医者に。
それが理由なんだったか。覚えているさ。覚えているとも。
ワタシの失恋の理由でもあったんだからね。同じ秋だった、ワタシは若かった。馬鹿をやらかしたのだった。
ああ急に世を儚んで死んでしまいたいよ、今すぐ。この男に若いワタシは告白し、玉砕した。忘れたい。
「いいじゃないか回り道でもさ。ねぇキミ、人生長いよ」
「でも」
うるさいな、年長者の言うことくらい聞きたまえよキミ。ふふん、ワタシは笑う。
「その分、助けたい彼も頑丈に出来てるじゃないの」
「……」
飛燕はゴマ化すようにうつむいてタンブラーを奪った。タンブラーはワタシと飛燕との間を行き来している。繰り返すけどね、ワタシのだから。飲みきったりしたら泣いてしまうよ、泣くからね。
知ってしまっている。
飛燕の助けたい彼とやらをワタシは知っている。
ええいくら飛燕、美人だと言っても男同士?茶化す前にその顔でやられた。
きれいだった。比べようもないけど、おととし結婚報告に来た妹と同じ顔だったよ。好きな人間のいる人の顔は尊いものだよなんてテツガクを垂れそうになる。
「そんなに心配するようなタマじゃなかろうにさ」
「当然です。そうでなければ」
「そうでなければ私が惚れたりしませんよ、だったね」
言葉尻を奪った。ついでにタンブラーも。
「ニューヨークのお土産でも考えておいたらいいんじゃない?」
「ふん、」
拗ねた飛燕様だ。案外子供なところもあるんだ、まぁ例の彼の時はこれ以上に子供なんだろ聞きたくもないね。そんなノロケみたいなもの。
「私がお土産だとか言うんじゃなかろうね、受けないよ今時」
蹴られた。また蹴られた。
「あー、一月も会えない…」
「今度の旅行だけど、企画は宗田部長だったね。キミの支持者だけどそれだけじゃない」
「なんです?」
ああワタシ、馬鹿なりしかな、ワタシ。なんだって自分を振った男の恋路に首を突っ込むんだろうか。まあヘンクツだというならそれでいいさ。
「宗田部長の娘さん、キミの熱烈なファンだったか。同行の予定だよ」
「!……なるほど、それでどうしても来いというわけですか」
怖いなぁ、怖いねぇ。キミそういう顔外でやったら一息でファンが消し飛ぶよ多分、それとも逆に増えるかもしれないけど。
「恋人のフリでもしますか?」
「御免だね、部長にこの年でにらまれてどうするのさ」
飛燕のからかいだとわかってはいても、やっぱり切ない。
デリカシーというものをわかりたまえよ、キミ。ぼくら友達だよという気遣いだというなら、それこそ無用さ。
なんといってもこっちは三十路、そんな情緒はとうに捨てたよ。オッサン言葉の独身ヘンクツだものね。
いいんだ、もう。いいんだって。
「ところで、マニキュアを買ってきて欲しいんですけど」
他愛ない言葉が途切れた時に飛び出した飛燕の言葉。随分だね、持ってたら貸して欲しいんですけどだろうに。あるよ一つくらい、もらい物だけど。
センセ、ちょっとは化粧ッ気出しましょうよ、これあげますからとナースがくれたものだった。
「安いのでよければ、ある」
デスクを開けてかき回す。書類書類、お菓子のクズ、書類、インクの無くなったペン。
「整理整頓しなさい、どこのジャングルですか」
「うるさいな、ところでどうするの?塗るの?」
似合いそうだな、ワタシは染まった飛燕の爪を想像した。似合うだろう。
「私じゃありません、富樫に塗るんです」
「うん?」
掘り起こしたもらい物のマニキュア、安っぽいというより毒々しいチェリーピンク。飛燕の手の平に落としてやるとありがとうと純度100の笑顔で返された。あーあ嫌になるね、まったくさ。
「この間椅子で寝ている間に、背中に『オカマ』と書かれた紙を貼り付けられましたからね。ちょっとしたお返しです」
ははは。乾いた笑いしか出ない。
富樫とかいった、あの直情型。馬鹿め。馬鹿なんだろうな。
キミに忠告してもいいね、よほど気を張っていないと両手両足チェリーピンクにされるよ。本当に。
乾くまでおいそれと動けないだろうし、その間のことを想像するだに恐ろしいよ全く。
ワタシは質は違えど微笑み続ける飛燕の手から今度こそタンブラーを奪還して残りのアイスラテを啜る。最後の一口に近かったらしく、舌にざらついた。
ねぇキミ、失恋を少し願う。
安心していい、失恋したらワタシが貰ってあげるからさ。
女々しい。まったくに女々しい。ああいつまで引き摺ってるんだろう間抜けめ。
腹が立ったので残っていた栗どらやき二つに発見した栗羊羹一本丸々をぐいぐいと食った。
深夜に余計なカロリーを摂取してしまい、少し憂鬱になってしまったよ。来月にはニューヨーク。雨でも降ってしまえ。
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