土鍋二つ、並びにフーフー
深夜である。
秋の夜更けも夜更け、もうそろそろ日付も変わる頃。
火急の用事だと桃は江田島平八邸を訪れた。
富樫へは目で挨拶を済ませるとすぐに塾長の待つ部屋へと飛び込んでいく。富樫はこういうときに茶を出すか迷う、だがこの日は結局部屋の襖の外に茶を乗せた盆を置いて「ここに置きますので」と声をかけるにとどめた。
自分は塾長秘書であって、現在は男塾戦闘隊長ではない。
わきまえている。だが、出撃の要請があればすぐにでも飛び出していけるように兄貴の学帽とドスを準備して私室にて待つ。
眼を閉じれば秋の虫が鳴いている。リィリィコロコロ、いかにも秋の虫が鳴いている。つい先日までセミがわんわん鳴いていたのに影も残っていない。
深呼吸と精神集中、時間はすばやく富樫の元を飛び去っていく。
「もう終わったぜ」
そう、塾長の部屋から出てきて声をかけられた時には二時を回っていた。富樫は眠ってはいなかったが、あまりに自分の時間が過ぎていたことに面食らう。
「いいのか」
桃は富樫の私室だというのに遠慮なく入り込み、ネクタイを抜くと放り投げた。撫で付けた頭はくるくると跳ねていて本来の癖が顔を出している。
どっかりと腰を下ろし、凝り固まっていたらしい肩をぼりぼりと音を立てて回した。ため息を漏らして寝そべった。
「ああ、今回は男塾OBの出番は無さそうだ。ちょっと伊達に動いてもらうだけで」
「赤石じゃねぇのか」
寝そべった顔は男塾の庭で昼寝をしていた時と変わりないように富樫には見えた。ただ精悍さをむやみに増しているだけ余計に男ぶりは上がっている。
「先輩ンところ今新婚だろ、悪いからさ」
「ああそうだったな、塾長は?」
「考え事があるって」
桃は腹をさすった。
「なあ、何か食うものないか?腹が減って仕方ないんだ」
富樫は立ち上がり、薄っぺらくなった座布団を桃の方へ押しやってから、
「何が食いたい?っても残りモンくらいしかねぇがな」
と尋ねた。桃はううん、と悩んだ末、
「何だっていいさ、作ってくれるんだろ?」
と言って笑う。ちくしょ、ガキみてぇに笑いやがって、富樫の顔にも苦笑。
どすどすと足音をひそめもせず、富樫は調理場へと向かった。
程なくして戻ってきた富樫の手には大盆、その上には小振りの土鍋が二つあった。富樫はこの秋の夜更けだというのに額に薄く汗をかいていた。シャツの腕は捲って、たくましい腕がむき出しになっている。桃は腹筋運動の要領で起き上がり、目の前に下ろされた土鍋を見下ろした。
「お前の分か?」
富樫は首を左右に振る。
「いや、こりゃ塾長の分だ。たぶん後で腹が減ったとか抜かすだろうから一緒に作ってきたんだ」
桃はいそいそと自分の分の土鍋の蓋を開けた。
粥がくらくら煮えている。小鉢には富樫手製のきんぴら牛蒡と、牛肉の時雨煮。それから大粒の梅干。
レンゲを手にし、いただきますと律儀に呟く桃はふと塾長の分の土鍋に眼をやった。自分の目の前のものより幾分大きい、そして、
「そっちは粥じゃないのか?」
匂いが違った。なにやら出汁の匂いがする。
富樫はおうと答え、少しばかりその土鍋の蓋を開けた。
「まだ時期にゃちっとばかし早いがよ、鍋焼きうどんだ」
出汁の中で太いうどんが良く煮えている。ほうれん草、玉子、カマボコが覗く。ご丁寧に揚げ玉まで入っている。
「…塾長秘書なんだから当然っちゃ当然だが、ここまで差をつけられると悲しいモンはあるな」
恨みがましい目つきに富樫は桃の背中をはたいた。
「面倒抜かすな、時間掛かったら悪いと思ったんだよ」
「鍋焼き」
「いいじゃねぇか、ほら、きんぴら牛蒡上手く出来てんぜ?」
「……鍋焼き」
富樫はああもうと天を仰ぎ、桃の手に握られたレンゲを取り上げると乱暴にそのきんぴら牛蒡と牛肉の時雨煮を土鍋へブチ込んでかき混ぜた。
薄く茶色に粥が色づく、その粥を一口すくって、
「いいから食えって、今度来たらなんか作ってやっからよ」
桃の目の前に差し出した。
「よし」
今度こそ桃はいただきますと言って、レンゲに口付けた。
その後、「もう一回」「もう一回」と繰り返し「あーん」を求められて富樫がしぶしぶ応じているうちに鍋焼きうどんは伸びてしまい、
「汁の無いうどんが食えるか!」と塾長に拳骨をくらってどやされた上(それでも塾長はちゃんとのこさず食べた)、
「遅いんで泊めてくれ、いや何客人用の部屋なんておこがましいからお前の部屋でいい」
と満腹と同時に眠気を覚えた桃が言い出すので富樫はどうにも踏んだり蹴ったりだった。
秋の夜である。
