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黒いそれを手に、富樫は気恥ずかしいような嬉しいような微妙な顔をした。
昔はそれこそ棒状のそれしかなかったように思う。といっても使う相手がいなかったのであまりその流行り廃りに注目していた訳でもない。
初めて手にしたそれは、思っていたよりも小さく、ポケットに突っ込んで持ち歩くのにも楽そうである。
手の中でいじくりまわしてみる。周りの人間に聞いてみたが、使ったことがあるのは飛燕に桃くらいのものであった。
飛燕は大層これが気に入りらしく、いくつもとっかえひっかえしては新製品のチェックも欠かさない。
桃は一つ気に入ったのを使い続けていて、富樫がもし使うんならこれをとしきりに勧めてくる。
二人曰く、
「一度使うと手放せない」
とまでいう。そう言われてみると興味もわく、二人がその話題で盛り上がっている時自分がカヤの外だというのも不満であった。
ここはいっちょ俺もアレを手に入れて、どうだと言ってやろうじゃねぇか。
子供じみたそんな感情の赴くまま、富樫はわざわざ客の少ないであろう弊店間際の小さなその店に立ち寄った。
むろん正規店ではない。汚い茶髪のやる気の無さそうな若者が一人いるだけである。いらっしゃいませすら言わない。深夜のレンタルビデオショップのようであった。
そのほうがありがたくはあったが、富樫が知らないうちに随分この業界もハッテンしていたらしく、棚にずらりと並ぶ色とりどりのそれを眺め渡すだけで手間が掛かる。実際使ってみないとわからないのでそのうちの一つに手を伸ばす、滑らかな表面、ごつごつとした手触り。
どれを見てもいまいちピンと来なかったので、仕方なしに店員に声をかけた。
「悪いんだけどよ、その、これから新しく買うつもりなんだが…イマイチわからなくてよ」
店員は富樫の顔をちらりと見た。重たい瞼がぴんと動き、年齢によって話し方を変えているのか驚くほど丁寧な口調で話し始めた。
「ありがとうございます。それではまず、どれ位の頻度で使う予定ですか?」
頻度、と言われても。そんなもの相手次第だ、恥ずかしい話だが自分から使おうとすることはあまりないだろう。
「い、いや、俺からはその…あんまり」
「受け専門ですね。それならこのメーカーのがいいですよ」
これとか、と店員は一つ取り出した。これは他のレプリカと違いこの場で試せるようで、電池が入っている。
電源を点けてから、富樫の手に渡した。
色は馬鹿馬鹿しいくらいのピンクで、ドピンクである。なんとなく飛燕の髪の毛を思い出したが、あれはこんな色とは違う。
手にしたからといって何が出来るわけでもない。一人で使用できるわけもなく、富樫はわかったような顔をして、
「こういうのでいいや、あのよ、もうちょい地味な色はねぇのか?それからもうちょい小さいヤツ」
と尋ねた。店員はそうですねと答え、少々お待ちくださいと富樫の側を離れた。富樫はドピンクを持たされたままだったのを思い出してはっとなり、どこから取ったんだったかと同じように棚を探す。すぐに一つ欠けた列があったのでそこに収めた。本当であればそれはサンプルではないのでたまたま空いていたところなんかに戻してはならなかったのだが富樫は知る由も無い。
店員が戻り、これは如何でしょうかと箱を持ってきた。
「おう、どれどれ」
わかるはずもないのにゆっくりと腰をかがめ眼を細めつつその中を覗き込む。若い頃はそんな見栄なんぞ余り持ってはいなかったというのに、年をとると男というのはなかなかに面倒くさいものである。年をとると、だなんてオヤジそのものじゃねぇか、富樫はむっとした。
手を伸ばして掴んだ途端、店員が操作したらしく振動を始めた。ぶぶぶぶ、と思った以上に音がする。
こりゃあ中に突っ込んどいたって周りにわかるよなぁ、と富樫は思いまぁこれでいいかと決めた。
黒の、シンプルな形のものである。他のきらきら光る半透明のものや伸びるものも目新しいが、とりあえず富樫は初心者である。コレに決めたと言うと、店員はありがとうございますと言って、
「ところで、使う相手は殆ど決まってるんですか?」
と聞いてきた。
相手。富樫がいぶかしむように口をひん曲げたのを見て、店員、
「恋人とか」
と、笑う。富樫、むくれる。
「べ、別にそういう訳じゃあねえや」
「そうですか」
店員は笑っている。富樫が急にそわそわしだしたからである。そういう客は少なくない。
だがこういった中年の、強面で一見したところヤクザのような男がそういう照れ方をしているのは見ていて楽しいものであった。
「笑うんじゃねぇ、なんだよ、恋人と使うんじゃいけねぇのか」
ヤケになったのか、オウ兄ちゃんようと詰め寄ってくる。店員は両手をホールドアップの格好にしながら、あは、と気の抜けた笑い方をした。
「いえ、今色々なプランもありますから聞いただけですよ」
ぷらん?富樫の聞き返しかたはどこか抜けていた。抜けたのは凄みに怖み、加わったのは滑稽さ。
店員は支給されたテカテカのオレンジのジャケットよりまぶしく快活に笑った。どこからともなくテレビで使うようなフリップを取り出す。
「はい、ただいまこちらでは、『愛しTEL』プランを行ってるんです!愛し合う二人の通話料は無料!毎日オハヨウからオヤスミを言い合いたい恋人達には是非これをおすすめしております!!」
富樫は圧された。若さに圧された。そうかよ、と口ごもる。恥ずかしいネーミングであった、富樫は自分が言ったら舌を噛み切りそうだと思う。
「イマドキのケータイっちゅうのは、色々進化してやがるんだなぁ…」
富樫の呟きに、店員はハイ、とおかしそうに笑った。日焼けした茶色の髪の毛がさらさらと風に揺れて富樫を笑う。
すすめられるがまま、富樫はオレンジの紙袋を提げて携帯電話ショップを後にした。
富樫が最後の客だったらしく、後ろで道路にまではみ出していたラックをしまい閉店準備を始める音がした。
夏なので、星はあまり見えない。
早朝から、富樫は紙袋片手に桃の家を訪ねた。手に入れたばっかりの携帯電話を見せびらかしにである。
夏の早朝も早朝、道すがら朝飯の準備をする音とにおいと擦れ違いながら、電車を乗り継いで桃の家に向かった。富樫の家すなわち塾長の家だが、出掛けに使用人達へ塾長の飯の支度を指図することを忘れたのだけが心残りであった。なお富樫の中にせっかく手に入れた携帯電話でそれを連絡するという頭はない。
桃の家は肩書きから見れば釣り合いの到底とれない昭和建築。むろん中古で築三十年は経った平屋で、玄関灯が懐かしい。
富樫はじゃんじゃんと格子戸を叩き鳴らした。呼び鈴はあったのだが使わなかった、壊れているのだと以前に桃は言ったのを覚えている。
それじゃあ不便じゃあねぇかと聞くと、何本当に用があるならごめんくださいと玄関先で怒鳴るなり上がるぜと戸を開けるなりするだろうと暢気な答えが返ってきた。桃らしい。そうして上がってくるのは桃の級友や、それとも押し込み強盗や脅迫の類であろう。
そうこうしているうちに奥からはぁいと間延びした声が返ってきた。どんどんどんと近寄ってくる。
「へぇ富樫様、おはようございます」
戸を開けたのは、なまりの強いソバカス顔の女であった。三十路にはまだ届かぬ位の、割烹着姿である。使用人というには所帯じみている。
家政婦が一番ぴったりであった。
富樫はおうと気安く答え、
「早くにすまねぇな、なぁ、桃いるか」
「あい、おります。疲れた言うて奥で長長寝ぶてておりますだ」
ソバカスに礼を言って、靴を脱いで上がりこむ。途端にそこに転がるものに目が行った。
男である。自分と同じく黒いスーツに身を包んだいかにもヤクザだかそういうガタイのいい男が白目を剥いて転がっていた。ぎょっとした富樫に、ソバカスは、
「気にせんでください、ちょうど夜明け方においでたんで旦那様がえいとやりよったんですよう」
「へぇ」
「だけん疲れたっちゅうて、ぐうぐうしとるんです」
ぐうぐうしとる、その言い草は富樫の気に入った。どれそのぐうぐうしている元総理の寝顔でも見に行ってやろうと廊下を進む。桃の部屋の手前から抜き足差し足、背中をまるめて進む。朝の陽光のなか何をやってるんだ黒スーツよと言ってくれる人間は残念ながらこの場にはいない。
桃の部屋の障子の前で富樫は息を潜め、中の気配をうかがった。とはいえ富樫にはそういう能力はないため、静かだとしかわからない。
しら、と障子に指をかけると音を立てないように一息に開いた。目の前の和室にはしかれたままの布団、だが、
「おりゃ?」
空だ、と富樫がいぶかしむ間もなく、お留守になっていた足元を払われてそのまま長身がバランスを崩して布団へと倒れこむ。紙袋が視界の端でひっくり返って飛んで行った。顔面を布団に突っ込んでもがく富樫の背中に、本来この布団でぐうぐうしているべき立場の人間がのしかかる。
背中から思い切り体重をかけられて、富樫はギュウと呻いた。
「よう、人の寝室に忍び込むにはちょっと遅いぜ」
もうすっかり朝である。野良猫が一匹尻尾を振りたてて飛んでいく。
「も、も」
富樫が布団の上でクロールを泳いだ。空回りに終わる。桃の圧迫によって吐き出された空気を取り戻そうと息を吸う、胸に酸素と桃の香りが満ちた。
なにも甘くかぐわしい香りがするわけではない、男の匂いである。慣れ親しんだ男の匂いだが、それを布団から嗅ぎ取るというのはなんとも微妙な気持ちにさせてくれる。
「フッフフ、夜這いに来たんじゃあないのか」
違わい、富樫は怒鳴る。桃の手が首に回ってきて、締め上げるように巻きついた。動作自体は猫のようだが、じゃれつくには大きすぎる猫である。
「何か用なんだろう?ああ、これか…」
桃は富樫の上から退かない。せっかくの休みなのである。それにせっかくの富樫である。富樫以外の誰かに止められるまではこのままでいるつもりであった。用件の要だろうと思われる、オレンジの紙袋に腕を伸ばすとずりずり引き寄せる。がさがさと遠慮無しに袋の中を開ける。
「ふうん、富樫も買ったのか携帯。…なんだ俺のとは違うんだな…言ってくれたら俺と同じの用意してもらったのに」
いかにも残念そうに言う桃に、富樫は背筋運動の要領で上半身をシャチホコのように反らした。さっそくの憎まれ口を叩く。
「けぇ、男同士でオソロイとか言うんじゃねぇよ」
「いいだろ別に、俺のは使いやすいんだぜ?」
ほら、と布団に埋もれるようにしてあった桃の携帯を見せる。真っ白の携帯電話をぱかりと開いたその待ち受けに富樫はあんぐりと口を開ける。
「桃よう、そりゃちょっと…ねぇよ」
「そうか?」
桃の待ち受けは塾長だった。
いくらなんでもそれはない。富樫は呆れたように言う。
「じゃあお前にするよ、ほら」
はい、ちーじゅ。と桃の携帯電話から機械の子供の声が上がった。次いでフラッシュ。
あっという間に布団に組み敷かれる富樫の待ちうけが出来上がった。
「て、てめぇ何さらすんじゃ!!そ、そんなモン待ち受けにするんじゃねぇ!!」
ロデオばりの躍動を持って暴れる。油断していた桃は横へと転がった。すかさず富樫はさっきのお返しとばかりにのしかかった。肩を押さえてがなる。
「いいだろう別に。意外と良く撮れたのに。フッフフ、最近の携帯電話ってのは中々高性能だな」
「やめろボケ!俺を勝手に登録するな!」
どこがいい写真じゃ、富樫が反論するのも一理ある。上から撮ったため奇妙に顔が歪んでいるし、ちょうどどなったところのため口ががばっと開いて奥歯まで見える。いい写真とは到底言いがたい。
耳を過ぎるがなり声にフッフフ、桃はおかしくてたまらないと腹をよじって笑い出した。富樫は更に体重をかける。桃の体温が高い、熱があるんじゃなかろうかと場違いな心配をした。
「わかった、わかったよ…ほら、これでいいだろう」
目尻に涙すらうすらに浮かべながら携帯電話を再び富樫へと見せた。先程の江田島に戻っている。だからそのセンスはどうなんじゃとは思ったが、自分にされるよりもいいと富樫は諦めた。桃の上から降りる。力を無駄に使い果たしてしまい、そのまま横へと仰向けに寝転んだ。
いくよー、1、2、3.隣からまたしても不吉な、先程とは違う電子声のシャッターが聞こえ、フラッシュ。
富樫が横を見ると、自分と同じく仰向けに寝転がった桃が富樫の携帯電話で自分の写真を撮っていた。ご丁寧に選挙用ポスターよりも白い笑顔である。
今にもウグイス嬢が名前を繰り返し呼びそうであった。白いと言う字を二つ重ねて白白。なるほどいかにも白白しい。
「だ、だからてめぇは何を…」
最後まで言い切る前にほらよ、と富樫の携帯電話は返された、受け取る、額に青筋が立つ。コンボも軽やかに決まった。
富樫の待ち受けは今の桃の写真になっていた。手早い。なんと手早い。ここまで来ると怒るよりも先に呆れてしまう。むしょうにタバコが欲しくなった。
「あーあ、知らねぇのに戻し方…」
桃は距離を詰めてきた。わき腹同士肩同士がぶっつかる。桃の顔が急に近づいてしまい、富樫はぼやきながら身体を退こうかどうしようか一瞬迷った。が、結局そのままにしておく。桃の頬のラインを富樫は気に入っていた。
「なぁ富樫、『愛しTEL』登録しようぜ」
「あー無理」
何で!桃は起き上がった。富樫は桃の待ち受けと向き合ったまま動かない。桃は子供のようになんでだよと富樫の胸を揺さ振った。
「そのために来たんじゃあないのか、こんな早くから!」
「ああ…もう『愛しTEL』は取られちまったんだよ。悪ィな」
別に俺達は恋人じゃねぇよと言わなかっただけ良かったが、それよりも桃が気に掛かったのはその相手である。声が冷えた、部屋も冷えた。ついでに富樫の肝も冷えた。どうやら地雷を踏んだようである。富樫は揺さ振られたときよりもしどろもどろになって慌てる。
桃は再度、誰。と冷え切った眼差しを投げてきた。
「『愛しTEL』なら相手との通話料無料だって店員が言うもんだから」
「それで」
「じ、塾長に…」
平手でなく拳で、富樫は頬を殴られた。
その後、拗ねてしまった桃の機嫌をとるのに富樫は一時間ものくっつき時間を費やすことになった。
なお、『愛しTEL』の代わりに『ファミ引き』という家族プランに桃を入れる代替案が採用となるも、店頭で、
「こいつは家族同然なんだ!だから黙って入れてくれ!!」
と叫ばされる未来がやってくるとは富樫、現在気づいていない。
ソバカスが台所より、ご飯ですよと呼ぶ声が聞こえた。
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