ブキミちゃん。
確か今日のメシのオカズは、ついこないだ虎丸と海行って二人で拾ってきたアサリのガラガラ炒めだった。
誰も料理なんざできねぇってんで、とりあえず砂抜きして、フライパンにアブラしいてガラガラ炒めたんだ。
味付け?そんなとこまで知るかよ、俺ァ虎丸とバターに醤油で食ったけどな。桃はどうしてたっけか。伊達はどうだ。覚えてねぇ。
メシ食ってるときにそんな周りのこと見てやしねぇよ。
アサリは数だけはあったんで、次から次へと食べた。たまにツルツルしたアサリだと思ったらハマグリだったり、砂があったりした。
そんでもって最後はその、アサリの汁たっぷりのバターをメシにざぶざぶかけまわして食った。虎丸も食った。うまいのうと何度も言ってたけど、おまえ何食ってもうまいのうしかいわねぇじゃねぇか。
それから風呂だ。だいたい男塾の風呂はものすごく熱い。はじめっから適温にしてたら、後で入る野郎の時にはすっかりぬるまったくなっちまうからだ。
だからって言ってもやりすぎな温度だった。
日焼けした背中にグラグラ煮えた湯がどうにも沁みてしかたがねぇってんで、虎丸と並んで水をかけあって終わりだ。
それから、それからどうしたっけか。
おうそうじゃ、卍丸が貸してくれたアレだ。ヘッヘヘ、アレは良かったぜ。虎丸が貸してくれって言ってたが、伊達の野郎が同室じゃあヤりにくいだろうな、あいつは眠りが浅いって言うしすぐバレちまわァ。うるせぇって言って槍出してくるような野郎だもんな。マス掻くのも命がけってな。
ソレと比べりゃ桃はいつも寝つきが良いんで楽なモンだぜ。いつもスヤスヤいい子で寝ててくれる。
出すモン出したら後は寝るだけ、暑いんで布団はかぶらなかった。
蚊がぶんぶん耳元でやっかましく鳴るもんだから、桃を叩き起こして一緒に蚊を追ってつぶしてから、寝た。
ええと、それで。
それで、も何も俺は寝たんだ。
そう、アチィアチィって文句タレながらも寝たんだよな。
おう、そうだってのに、どうして。
どうして俺ァ、三丁目におるんじゃ?
真っ暗闇の三丁目に、富樫は一人で立っている。
「キッ、キシシシシッ」
嫌ァな笑い声が、富樫の真後ろで起こった。富樫は学ランの裾を翻して振り向く。いつの間に俺は服を着たんだっけか、富樫の疑問はすぐに消えた。
おかっぱ頭の、小太りの少女が立っていて笑っている。人を不快にさせる、ガラスを引っかくような笑い声を立てて富樫を見上げていた。
「なんじゃテメェは」
「キシシッ、こりゃあ今日はカンタンだわキッキキ、キキ」
ブツブツ呟き続けるニキビの目立つ少女の顔に、いかにも意地悪そうな笑みが唇をニカリと割って現れた。青白い顔で、眼球がカエルのようにせり出しているのがなんとも気味が悪い。富樫は後ずさって、少女を無視して男塾へと帰ろうとした。
一歩踏み出しかけて、はたとする。
ここはどこだ。
三丁目だ。
自分自身が出した問いかけの返事はやはり自分からで、それもすぐであった。自分は三丁目にいる。
だがそれが、どの三丁目なのかとんと分からない。どうして自分がこんな三丁目にいるのかも分からない。
だいたい俺は寝てたんじゃァなかったか。
新たに飛び出た疑問には、返事が無い。
「バーカ」
富樫の考えがまとまらないようにか、わざわざ少女は嘲るような声をかけてくる。
「なんだと?」
挑発に乗らないのが賢いというのは富樫だってわかっている。だが富樫は賢くないし、何より人にナメられたまんまで居られる筈もなかった。
「オウテメェさっきからなんじゃ、俺になんか用かよ」
「キッシシシ、アンタアタシの事ォ〜知らないんだッ、バッカ、バァーッカ」
少女の丸い体がぐるんとその場で回転し、暗闇の中に浮いた。白いけれども食べこぼしで汚れたシャツにくしゃくしゃのスカート。
少女の声にはおかしなエコーがかかっていて大変に聞き取りづらく、またうねるような強弱が耳に不快で富樫は怒鳴る。
「ウルッセェ!やかましい!」
金属質の笑い声が急に太くドラ声になって、三丁目一杯に響き渡った。昔話の赤鬼のような笑い声が耳にガンガンぶつかってくる。
「げっはははははは、バァカ、バァーッカ、アッタシはブキミ、ブッキミちゃんだッ!!げっははははは」
下品な笑い声、振るった腕についた贅肉がぶるんと揺れた。
うるせぇ、うるせぇ、富樫は頭を抱えて奥歯をかみ締める。
ブキミちゃんってなんだよ、なんなんだよ。
あ。
ブキミちゃん?
そういや聞いたことがあるな、富樫は割れそうな頭を抱えながら、自分の頭上で狂ったように笑い続ける少女についてを思い出した。
ある少女が、おばあちゃんのお使いの途中その道順を間違えてしまい、途中交通事故にあって死んだという。そのある少女はとてもとても底意地が悪く、常々意地悪ばっかりしていたのでブキミちゃんと呼ばれていた。
彼女は死んでからも意地悪を繰り返す。それは夢の中で行われた。
自分と同じ、おばあちゃんの家への道順を一度だけ説明し、途中間違えたら永遠に夢の中に閉じ込められるのだ。
「テメェか、おッ死んでからも根性曲がりやってるってのは!」
富樫が負けじと怒鳴り返すと、ブキミちゃんの顔面は崩れそうなほど歪んだ。笑っているのか怒っているのか富樫には判断が付かない。
「うっるせェよチョビ髭ッ、アンタみたいな馬鹿ッ面ずうっとずうっと夢ン中だ!バァカ、バァカ、バァアアアアアアッカ」
ブキミちゃんはもう少女には見えない。何度繰り返したか分からないこの意地悪のせいであると富樫は何故だかわかった。
ぐずぐずに顔面が崩れて、手足がおかしな方向へ曲がり始めた。ああ事故にあったって言ってたな、こんなんなって死んだのか。富樫は腹の底から声を絞る。
「オウ、俺は富樫、富樫源次じゃ――ッ!ゴタク並べてねぇで、さっさと始めたらどうなんじゃい!!」
化け物だろうが、幽霊だろうが、関係なぞない。
今目の前に富樫の行く手を遮るものがいて、そいつが自分に敵意をむき出しているのだ。
負けてなぞおれない。
富樫は胸を張って、何より大事な学帽のひさしに手をやった。
「けェ、かっこうつけやがってよゥ、いいかよッく聞けチョビ髭!」
回転するたびに遠心力に従って外へ振れていた頭が一際かしいだ。ごろりとそのまま首骨から白い骨に血管もあらわに外れ、両手で重たく抱え込んだ。
首は首だけでも笑っている。後頭部は皮ごとめくれあがって、灰白の頭蓋が覗いている。ぞッとした。
首は笑っているのか、泣いているのか、聞き取りづらい声で首ががうがうと犬のように吼える。もはや少女にすら見えない。
『まず三丁目大門通りをくぐると五又に分かれる道の左から二番目の道を進む、四番目に当たるビルの角を曲がり、神社の階段を登って左から三番目をおりると、そこに七棟の団地があって右から五棟目の三階、一番奥から二番目のドア』
思ったよりゆったりとした速度だったが、富樫は必死に頭へ刻みつけた。
まずは三丁目大門。富樫はブキミちゃんを振り返りもしないで暗闇の三丁目を後にした。
桃は暗闇にひたりと目を覚ました。
隣の富樫の様子がおかしい。イビキ歯軋り類ではない、うめき声が聞こえる。
富樫がうなされることがある。本人は気づいていないだろうし、自分も言うつもりは無い。
兄ちゃん、そのうめき声の中には必ずそう兄を呼ぶ声が混じるのである。普段決して見せない女々しさのようなものが夢に出ることを指摘することははばかられた。
そういう時、桃はそっとその手に自分の手を握らせる。きっちり隙間も無しの隣同士の布団である。ちょっと手を伸ばせば触れる。
お互い子供ではないが、やはり体温による癒しというものは確かにあるからであった。
今夜も手を握ってやろうと手を伸ばしかけたところで、いつもとは様子の違ううわごとが飛び出してきた。
「うう、うう、ちっくしょう…あのアマ、ぶっ殺してやる…」
痴情のもつれか!
桃は飛び上がって富樫の頭のすぐ横へ膝立ちに座り込んだ。またどこぞのオネェちゃんに惚れて惚れぬいて、ヒモ付だったか。それとも筋モノ付だったか。
持ってもしねぇ金でも毟られたか、富樫。富樫。
桃はなおも続くうわごとに耳を傾けた。一言も聞き漏らすまいと息を潜める。
「三丁目大門通りをくぐると五又に分かれる道の左から二番目の道を進む、四番目に当たるビルの角を曲がり、神社の階段を登って左から三番目をおりると、そこに七棟の団地があって右から五棟目の三階、一番奥から二番目のドア」
驚くほどクリアなうわごとだった。普段の富樫よりも流暢かもしれない。いつも舌がこんがらかって、言いたいことの半分しか言えずに真っ赤になって黙り込む富樫。そんな富樫を見るのが桃は好きだった。俺はわかってるぜ富樫、テメェの言いたいこと全てわかりたい。なぁ富樫。
その飛び出した言葉全てはたちまち桃の脳にしみこんだ。そして、しみこんだ先がすぐにある事柄に結びついたと同時に部屋の壁を全力で殴りつける。
深夜、寝息イビキ歯軋りしか聞こえない塾寮内にはあまりにもそれは大きく響いた。隣からドンと突き返してくる。
「どうした富樫、それとも桃か!?」
寝惚けまじりの声だったが、ただ事でないと悟ってくれたらしい虎丸の切迫した声が壁越しに返ってきた。
「俺だ、悪いがすぐ来てくれ。富樫がおかしい」
「おう、オイ、伊達、行くぞ」
おうと伊達の低く落ち着いた声がする。その声が桃にも落ち着きを取り戻させた。
やっぱり頼りになるな、虎丸も伊達も。
桃はウンウンと唸り続け、脂汗をかきながらも眼を覚まさない富樫の手をグッと力強く握った。
「こりゃあやっぱり、ブキミちゃんじゃろ」
桃の簡潔な説明に虎丸はすぐさま断じた。伊達はなんだそりゃあと不機嫌そうに声を低くしたが、富樫の様子に虎丸の説明を大人しく待つ。
一通り虎丸はブキミちゃんについてつっかえながら、下手糞ながらも説明を終えると桃に尋ねた。
「桃、今富樫はどのへんじゃ」
聞かれ、富樫の寝言を脳内で再生にかかる。呼吸が乱れていて、自分が思ったよりも平静でいられていないということに気づいた。
「今、神社の階段を下りたところだ。今のところ間違っていないはずだ」
神社の階段を下りたら、残る選択肢は三つ。
五棟目の三階、奥から二番目。
ここまで来れば富樫とはいえ大丈夫だろう、桃が胸をなでおろしかけた途端。
「ヘッ、軽いモンじゃ。四階と」
たちまちざわーっと桃の顔面から血の気が引いた。
虎丸の顔も凍りついている。伊達も息を呑んだ。
間違えたら、戻ってこられないだって?
富樫が?
戻ってこられないだって?
馬鹿野郎許さないぜそんなの。
許すもんか。
桃はその瞬間、富樫の右頬へ思い切り拳を叩き込んでいた。風を切り裂き拳が唸る、手加減全くなしである。
「三階だ、富樫――ッ!!!最後まで気を抜くんじゃねぇ、馬鹿野郎!!」
富樫は鼻血を噴きながら、
「わ、わぁってらい…」
と、なおも眼を閉じたままで答えた。
「一番手前の部屋で」
またも桃の拳が唸った。右頬がぶっくり腫れ上がったため、左頬が殴られる。キリストの教えを体現していた。
「一番奥から二番目だ!!奥から、二番目!!わかったか!!」
しばらくして、富樫の目が薄く開いた。本人としてはかっきり眼を開けたつもりかもしれない。が、腫れ上がった顔のせいで目が埋もれてしまっている。
「……う、ウ…」
「富樫!!」
桃は握ったままの手を胸に引き寄せ、泣き出しそうな顔で笑った。虎丸はその顔を見て思わず桃はきれいじゃ、などと間抜けた感想を漏らす。伊達が聞きと
がめてギロリと睨んだが、気づかなかった。
「お、おう桃じゃねぇか……化け物退治、してきたぜ…」
桃の顔を見て、富樫はなんて顔してやがると笑った。桃はああ、と頷く。
「お帰り、富樫」
「…軽いモンだぜ、あんなモン」
「そうか」
「たりめぇじゃ」
良く言うぜ、虎丸は渋い顔をした。伊達は肘で虎丸のわき腹を突く。野暮言うんじゃねぇよ馬鹿。お、おう。
「……ところで、俺ァなんだってこんな、ボッコボコなんじゃ」
富樫の質問にも、桃は笑ってよかったよかったと繰り返すだけであった。伊達と虎丸は顔を見合わせたが、空気を読んだ。
いいじゃねぇか顔くらい。もともとつぶれたようなモンじゃ。
後日、桃の夢にもブキミちゃんが現れたが、一言すら話させずに一刀両断に切り捨てた。
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