初心者向け地獄、梵天

富樫はよく死ぬ。
よく死ぬ、というのはおかしな言葉だ。
死ぬのも生まれるのも一度きりのはず、富樫とて生まれたのは一度きり。
けれど、よく死ぬ。
今日も死んだ。
死んだので、日の射さない地の底ふかくに沈んでいくことになった。



気付けば歩いている。
暗くて細い、黒い棘のような草むらの中にある一筋の道をゆく。ゆくゆく歩く、が、いつまで歩けども道の果ては見えない。
そのうちくたびれてくる。だが座り込めるような場所もないので結局歩く速度を落としていつまでもゆく。
富樫は来るたびに歩いている、道を覚えているわけではない。行けども行けども一本道なのだから覚える必要もない。
しかし来るまで一本道だと忘れているのはどういうことだろうか富樫にはわからない。
そのたびリセットちゅうことかもしれねぇ、富樫は呟く。紫だけれども澄んだ空気に声が消えていった、暗い道をゆく。
歩くまでどこへ通じるのか知らないのだから未知だろうと富樫は何気なく頭に浮かべた。今は自分がどこへゆくか分かったので道なのだと、ひそかに自分の考えに満足する。
くたびれ果てて、ああもう歩けないと思うとすぐ鼻先にその古びた門がある。
未知ではない、たった今思い出した。今の今まで未知だったはずだが、目に入った瞬間にまた来ちまったなぁと思い出す。
地獄の門だという割りに、近所の寺と変わらない戸の無い門をくぐる。木製の門は朽ちていた。肝試しに向いている。
ここに来たのは何度目だかもう忘れちまったが、にしてもいつも俺一人きりってのは嫌なもんだぜ。誰か一人くれぇ俺と道行きしてくれたっていいんじゃねぇか。富樫はぼやいた。そのぼやきが人の死を望むことであることもわかっているが、さんざん一人のくのくと歩いてきていい加減誰かと話をしたい気分になっていたのだ。
死んでいる。もちろん富樫、死んでいる。
意識がある、だからこそ心細さも感じてしまう。それは仕方の無いことである。死んではいるが変わりが無い。
ああいつだって死ぬ時ゃ一人だぜ、俺は別に死ぬのなんか恐れてやしねぇぜ。
こんなことをついこの間もこの門をくぐり、石段を上がりながら一人わざとらしい大声でもってがなったことも富樫は覚えていない。
この間も、その前も富樫は同じことをしている。
覚えていないのは未知と同じことである。覚えていなければつい昨日通った道でさえ迷う。
富樫は静けさを自分の大声と大仰な動作で紛らわしながら石段を一つ飛ばしでうおおおおっと駆け上がった。
うおおおっと駆け上がったら、もうそこに閻魔がいるのだ。
いつの間にか室内である。いつ室内に入ったのか、どこから入ったのかはわからない。
どんな部屋かと聞かれても分からない、和室だったとは思うが、中華風の衝立のようなものもあったように思う。
部屋だとはわかっているが、どういう部屋かどうしても認識できない。映画で見る地獄のように真っ赤な部屋かと聞かれたらそうかもしれないとも思う。
夢の中に良く似ていた。ただそこが閻魔に謁見する部屋だということだけがしっかりとわかっている。
あんまり来すぎて場慣れっちまったかよ、富樫は自分に呆れた。
現れた閻魔が富樫を呼んだ。現れたというのは正しくないかもしれない、ずっとそこにいたのかもしれないし、今煙のように出てきたのかもしれない。
自分以外の気配に富樫は背筋を正した。
「次、富樫」
「…桃?」
目の前、立ち話をするとき程度の距離に閻魔がするりと立っている。仁王立ちをするでもなく、ちょっと立ってみた程度の気楽さ。
その気楽な閻魔は桃の姿をしていた。
はっきりと、顔形から呼ぶ声、ちょっと幼さの残る笑顔までなにもかもが桃に瓜二つだった。桃そのものにしか見えない富樫は思わずあらん限りの大声で名前を呼んだ。
「桃ッ!!」
「違うな」
桃の姿をした、桃そのものにしか見えないその男は桃と同じ笑い方、肩をちょっとすくめて唇に笑みを浮かべる同じ笑い方でざっくりと否定した。
「な、なぁにダボ抜かすんじゃ桃、てめぇが桃でなくてなんなんじゃ」
「閻魔さ」
簡潔な返答だった。
ぁあ?
富樫のぁあ?は地獄に一度こだまを作って響くほど大きく、開いた顎は落ちそうだった。
あれ?俺ゃあ前回こんな桃の形した閻魔につき返されたんだったっけか?
いくら考えてもわからない。死ぬたびにリセットだと先ほど富樫自身が決めたばかりであった。
「じゃあ、地獄の責め苦を受けてもらうぜ…せいぜい気張れよ、富樫」
姿かたちどころか言い様までも、富樫をがっくんがっくん揺さ振った上に頬を拳で容赦なく殴り飛ばし最後には絶叫で見取った親友の剣桃太郎そのまま。
今更になって富樫はあせった。
いつも俺は門前払いのはずだったろうがよ、俺はやっぱりおっ死んじまったのか?
今更も今更過ぎる。地獄への道をあれだけあるいて、門をくぐって、閻魔様に謁見してようやく富樫は自分が地獄にいることを理解した。
死にたくねぇよと叫ぶにはタイミングがいくつも遅い。
叫ぶのもおかしいので桃としか言いようのない閻魔をすがるように見た。
ああ桃よう、てめぇなんだってこんなところまで来たんだよ。
「富樫源次、地獄初心者だから一の地獄から始めるか?」
朗らかな口調がどうしても懐かしくて富樫は唇を噛む。桃のあの絶叫が耳から離れない。桃に詫びたかったが、その桃は外見的には完全に目の前にいるのだ。これはさっき別れた親友ではないといわれても受け入れられるわけもない。
とにかく俺ぁ死んだんじゃ。だからといってフヌケたら男塾の皆に笑われちまう、富樫は意気込んだ。
地獄だろうが俺は男塾油風呂の富樫、なんぼのもんじゃい!!

が。
「なぁ桃」
「閻魔だって」
「地獄に初心者も上級者もあるもんかよ」
「さぁな」
あっさりとした言葉に富樫はどうにも地獄の実感がない。
実感はなくても地獄は迫っている。










「これなんだがな」
あん?ここはどこじゃい。え?和室だ?
馬鹿野郎見りゃわかる、だからどこの和室かって――
「地獄の和室さ。さ、一の地獄始めるから頑張れよ富樫」
桃よぉ…
「閻魔だって」
いちいちご丁寧に否定してくるこの閻魔はどう見たって桃じゃ。俺には桃以外には見えん。
「いいだろが、死人の頼みくれぇきいたって。おめぇは桃以外にゃあどうしたって俺には見えねぇよ。おめぇは桃だ」
「ふうん…つまり、俺しか見えてないということか?」
なんだかちっとばかし違うけどまぁいいか、とにかくこの和室にゃ俺と桃しかいねぇ。それで俺はこれから地獄の責め苦を受ける―と。
「桃、地獄ってからにはやっぱりようアレか、血の池地獄とか針の山とかかよ」
昔だ。兄ちゃんが俺に語った地獄は血の池針の山、舌を引っこ抜かれたりだった。ケッ、どうせなら兄ちゃんがいる天国に行きたかったぜ。
あん?というか俺ゃなんだって地獄なんじゃ、こんないい男が地獄だなんて見る目がねぇったらねぇや。
「いや、お前にはこれだ」
閻魔もとい桃が俺に差し出したのはどう見たって、耳かきだった。
竹で出来てて、尻のところに梵天がついてる耳かき。ああこりゃうちにもあったなぁ。
なんて、
「耳かきでもしろってか?」
「いや、この梵天なんだ」
言われてみりゃ、濡れてんな。水がポタポタ和室の畳に落ちた。梵天ってなタンポポみてぇにフワフワなのが売りなもんだが、グッショリ濡れちまってらあ。
「濡れてんな」
「そうだろう。この耳かきの梵天を乾かしてくれ」
俺の頭がおかしくなったんか?
もう一度聞いてみた。
「あん?」
「だから、この梵天を乾かしてくれ」
さっぱり意味がわかりゃしねぇ。生きてるうちからよくわからねぇことを言う野郎だったが、閻魔になっても変わらねぇなぁ。
「ただし、触らずに」
「あ?」
「この一輪挿しいいだろう」
あ?一輪挿し?桃に言われて確かに文机があって、そこに小さなうす緑のビンボくせぇ一輪挿しがあったのに気付いた。
そこに桃は生け花でもするように耳かきを、梵天を上にして生けた。
桃、桃、おめぇどうしたんだよ、おかしくなっちまったんじゃねぇだろうな。
「だから、この耳かきをどうしろってんだ?」
「さっきも言ったろう、乾かしてくれ。フーフーして」
さすが地獄じゃ。まるっきり意味がわからん。
ヘッヘヘ、何?え?本当にそれを乾かせって?息で?俺が?やっぱりか?

………ハンパじゃねぇや、地獄ってなぁ。濡れた梵天吹いて乾かせ?正気の沙汰じゃとてもねぇ。
「早く済ませないと日がくれるぜ?さぁ吹いた吹いた」
俺は桃に急かされるまま文机の前に膝をついて、言われるとおりに梵天を吹いた。フーッと勢いよく吹いてやった。
肺活量いっぱいの息で吹くと、一輪挿しの中で軽い音を立てて耳かきが転げる。
あ?桃おめぇ今なんて言いやがったよ、何?暮れるってのかよ地獄でも日が。
ああ本当だ、もう午後じゃねぇか。いい天気だ、昼寝でもして寝ててぇなぁ。
こうして見ると、何が地獄でどこが地獄だかわっかんねぇもんだ。
俺は胸いっぱいに空気を吸い込む。
後ろで桃が畳みに寝そべる気配がする。チェッ、いい気なもんだぜ、俺がこんな馬ッ鹿馬鹿しいことしようってのによう。
やっぱりこいつぁ桃じゃねぇ、桃ならきっと、俺も手を貸そう富樫、とか言ってよ、
「残してきた恋人が気がかりなのはわかるが、早くつとめを済ませねぇとアガれねぇぜ」
恋人…
あくび交じりに暢気顔でとんでもねぇ事いいやがって、やっぱりおめぇ桃じゃねぇか?その趣味の悪ィ冗談を俺が何度もやめろって言っても結局止めなかったな。
俺が死んだ今、ちったぁ反省してるかよ。

………。
…………元気で、やってっかなぁ。って、いけねぇいけねぇ、デキの悪い親友達もつとつれぇよなぁ全くよ。
しんみりを吹き飛ばすつもりで、俺は水滴が滴る梵天を強く吹いた。水がチッと飛ぶ。
が、まだまだ濡れていた。
確かに地獄かもしれねぇな、俺は後ろで俺の様子をじっと見ている桃の視線を背中にしながらまずため息をついた。









意味の無いことなど、そうそう続けられない。
富樫は梵天を吹き始めて早々にこの地獄の辛さを理解した。例えばこの河原に転がる石ころで石塚を作れといわれたら、確かに難しいし苦労も多かろうがそれでも達成感や逆に崩れた時の辛さもあるだろう。
が、ひたすらただひたすら濡れた梵天を吹き続けるというのには何も達成感はない。というのも目に見えた変化も無ければ、手に触れる形も無いからである。
「ふううう―――ッ」
顔を真っ赤にして、拳を爪が食い込むほど硬くして、尻を突き出すようにして文机に身を乗り出しながら富樫は強く強く息を吹きつけた。息を受けてくるくると耳かきが一輪挿しの中で踊ってあっちこちにぶつかって小さな音を立てる。
「ふううううううッ」
息を一瞬で吸い込み、肺に溜め込むと休みもせずにまた一気に吹き出した。ツバも飛ぶ。
息を出すだけだというのに声も自然と漏れた。
「ふぐヴッ、う、ふうううううううううッ」
横隔膜が痙攣した、肺がひっくり返りそうだと富樫は眼を白黒させる。吸い込んで酸素を与える暇もなく吐き出してしまうので、頭がくらくらとした。
「うっ、う、…な、ゲホッ、なんで、こんなこと…うう」
盛大にむせた。
咳が止まらない。げぇげぇと吐き気をつれてくる咳に苦しむ富樫の背中に桃はのんびりと声をかけた。
「大丈夫か富樫、辛そうだな」
「つ、つれぇに、き」
辛いに決まってる、そう富樫が言おうとした言葉尻を捉えて閻魔は涼しい顔で笑って言い放つ。
「そりゃ地獄だからな」
ああそうだともよ、富樫は額でどくどくと痛みごと脳へ血液を運ぶ血管の脈を感じながら口元を拭った。畜生、富樫は毒づいた。
すぐ目の前の水をたっぷり含んで小さくなっている梵天を充血した目で睨む。目の前なのだ、手を伸ばしてギュッと搾れたらどれだけかはかどるだろう。
だが、さすがに地獄の責め苦だ。手を伸ばしても、どうやっても一輪挿しにさしてある耳かきに触れることができない。
息を軽く吹きかければそれだけでくるくる踊る軽い耳かきにどうやっても触れない。
富樫はとにかく、肺に空気を入れては吹き付けるしかなかった。
先も見えないし、もし達成できたとしても単に耳かきが乾くだけとなる結果なのだ、力が入る道理も無い。
富樫は諦めたい気分で一杯になった。
「はぁ…っ、はっ、う……」
頭痛が酷くなってくる。顔は熱くなったり冷たくなったり繰り返している。
昔を富樫は思い出した。風船遊びをしたときのこと、何度も何度も息を吹き込んでいたら頭がかんかんと痛くなって、それから真っ白になりかけた。
風船は割れたっけか、富樫は笑う。
そのうち壊れるのは俺かもな。
富樫は細くなった息を振り絞るようにしてゆるゆると耳かきに与えた。
桃はただ、見ている。
「…富樫?」
桃は口を開いて尋ねた。別段邪魔をしようという悪気は感じられない、が、富樫は悪気どうこうでない悪戯をする男だと桃をねじれて認識していた。
答えるのもおっくうなのであった。息が勿体無い。
「辛いか、富樫」
辛いに決まってらぁ、そうどなってやろうかと思う。
が、地獄というからには自分は何か悪い事をしたのだろう。たとえ自分に思い当たることはなくとも、罰なのだろうと思えば受け入れなければならない。
てめぇで蒔いた種は、てめぇで刈り取る。
富樫は死んでなお、男塾の塾生であった。
「辛いだろう富樫、それが罰なんだ」
桃の声でわかったこと抜かすんじゃねぇ、富樫は答えるかわりに梵天を吹く。
心なしか、ぴったりと濡れていた梵天の玉にわずかばかりか毛羽立ちが見えたように思える。そんなささやかなことに富樫の心は弾んだ。
「俺を、後皆を悲しませた罰さ」
そんな桃の言葉に富樫の息が一瞬途切れた。が、根性で息を続ける。
桃は続けた。
「死んじまったお前にどれだけの人間が泣いたかわかるか富樫」
わからねぇよ、俺は死んだ。
俺にどうしろってんだ。俺ぁ死んだってんだ。
なるほど、閻魔が桃の姿というのはこういうことかと富樫にも理解がいく。一番言われたら傷つく人の姿をしているのかもしれなかった。
桃の絶叫、最後の最後耳に届いたあの声。
すぐにでも桃に会いたくなった、後ろをすぐに振り返ってもよかった。が、自分にはその資格が無いように思われてしかたがない。
そうだな、この地獄とやらを終えたらにすっか。
富樫は腹に力をこめた。死んでいるのに汗が滴っている、学ランの首元を開けてくつろげる。首周りがゆるくなって息の通りがよくなったように思えた。
と、ようやく自分が学ランを着たまま地獄に来たことがわかった。
「ふうううッ、ふ――ッ、ふ、ぶふっふううううううううう!!!!」
待ってろ桃モドキ、これを乾かし終わったら振り返ってよ、「悪かったな」って言ってやらぁ。
力を入れすぎて屁が出そうだ、そう思ったら心が馬鹿馬鹿しくって軽くなる。
梵天が次第に軽さを取り戻していく。









や、やったぜ、フワフワじゃ…
富樫が朦朧とする意識の中で数えた日付は三日目。ここが現実世界と同じ時間の流れ方をしているかは定かではないが、三度太陽は沈んで、今四度目が上った。丸三日経って、四日目の朝ということになる。
富樫の目の前で梵天が白くふかふかと揺れている。風があるわけではない、富樫の鼻息に揺らめいていた。
「や、やってやったぜ…」
ヘッヘヘ、笑い声も掠れている。何やってんじゃ俺ァ、三日三晩耳かき吹いてよ、これからずっとこうか?こんどは三本耳かきだったりして、恐ろしい想像が頭をよぎる。
だが今は晴れ晴れとした気分を富樫は味わっていた。はじめた当初はこんなくだらないこと、と思っていたが無心で梵天を吹き続けるうちにもやもやとしたものも流れ去って、悟りすら開けた気分に思える。ずいぶんとしょうもない悟りではあるが、無我の境地に富樫は至っていたのかもしれない。
さて、富樫は咳き込みながら振り向いた。
三日前と同じ場所、同じ格好で桃が肘を立てて手枕にしながら寝転んで富樫を見ている。
「桃よう」
「ああ、見事にふかふかになったな。たいした奴だ」
褒められて富樫、思わず口元が緩みかける。ごめんな、桃、そう言おうとしたところにまたも桃が言葉を滑り込ませてきた。
「さて、それじゃあ富樫頼むぜ。ああ耳の中がかゆい」
桃は人差し指でちょいちょいと富樫を招いた。富樫の目が点になる。無我の境地が散り散りに霧と散った。
「………へ?」
「何してるんだ、耳かきを持って来いよ」
桃の微笑み、富樫の困惑。
富樫は手を伸ばして耳かきに触れた、あれだけ富樫を拒んでいたはずの耳かきはたやすく富樫の手の平に収まる。
「おっ?」
「ほら、」
起き上がった桃が膝で寄ってきた。ああ、富樫は鼻の奥がつんと痛くなるほどの切なさを覚える。
まだ日が昇り始めたばかりの部屋で、富樫は言われるがままに正座して、桃の頭をそこにのせた。
見下ろす顔は富樫の頭の中に入っている桃の顔となんら変わりない、というのに桃は違うと言う。
富樫は夢を見ているようにぼやけた顔で、自分がこの三日間向き合ってきた耳かきを手にするとのろのろと桃の耳に差し込んだ。
手ごたえのない耳の穴を探る。
くすぐったいのか、桃が身を捩った。そうだ桃はくすぐったがりだったな、こんなところまでよく写し取ってあんなぁと富樫は感心しながら桃をついいつものように叱った。
「おら、動くんじゃねぇよ。突いちまう」
「フッフフ、それは困るな」
桃はくすぐったさを耐えているようで、時折靴下を履いていない素足がもぞもぞと畳の上で動いた。桃も学ラン姿だった。気付かなかったのか、それとも知らなかったのか。

結局汚れらしい汚れもないまま富樫は耳かきを終えた。
謝ろうとした言葉はそのまま飲み込んでしまった。今となっては言い出しづらくなってしまった。
そんな富樫の戸惑いなど知らぬ顔の桃はあーあ、と大きく伸びをして爽やかに頭を振った。
「ありがとよ、それじゃあ次は富樫の番だ」
「あ?」
「今度は俺がやるからここに寝ろ」
「いいって」
それどころじゃあないのだ。ごめんと謝りたいだけなのだ。
だのに桃は強引に手を引っ張って、自分の膝に富樫の頭を乗せた。
ずぼりと耳かきが突っ込まれてしまうと身動きは出来ない、本能のようなものである。死んでいようが、耳かき中に動くのは恐ろしい。
思ったよりもだいぶ手荒に耳かきをされる。大雑把なんだな、あ、イテテ、富樫は呻いた。先ほどの桃と同じように足が悶える。
「辛かったろう、この三日」
やっぱり三日だったか、富樫は生返事をした。
「おう、まぁな」
死んでいるというのに眠気が富樫を包む、目がたちまち重たくなってきた。手足が暖かくなってくる。
硬い膝枕だろうが富樫にとっては羽根布団よりも優しく、うつらうつらと意識が遊び始めてきた。
まだだ、まだ。
まだ謝ってねぇ。
「やっぱり帰さなきゃならなくて残念だ、もっとお前で遊びたかったんだがな」
お前と、じゃなくお前で、かよ。
突っ込みをいれようとした言葉はそのままあくびに繋がる。
大あくびに桃はフッフフとくすぐったくなるような吐息で笑う。
「次に来たら今度こそ帰してやらないぜ、ずっと俺が大事にしよう」
「なぁに、馬鹿言ってんじゃ」
「じゃあな、俺はお前が好きだよ。来て欲しいのはやまやまだが、あんまり死ぬな」









あんまり死ぬな、か。
富樫が笑った瞬間、死は終わっていた。
道をまた戻るのだ。未知だが、見当はついている。
泣いてやしないんだあの薄情モン、それでいて誰より俺を待ってたりするんだ。
お前があんまり呼ぶから戻されちまったぜって、言ってやろうか。
俺は走ることにしてやった。
モクジ
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