盆に汗と雑草の背中。

八月の真ん中がお盆だということくらい知っていたので、わたしは墓参りをすることにした。東京のお盆は実は一月早いというらしいことも聞いてはいたのだが、わたしは学生で学期の最中だったので通例どおり八月の真ん中になってから墓参りをすることにした。

わたしの入る墓というのは東京というのが申し訳ないようなくらい東京の端も端にある。本来娘というものは独身であれば父方の、嫁に行けばその先の墓に入るものなのだろうと思う。だがわたしはそのどちらでもない。母は離婚したのだったか未婚で生んだのだかはわからないが父を知らない、そしてまだ学生の身分で言うのもなんだが結婚はとても遠い。
だから、わたしが入る墓くらいきれいに清めておこうかと思ったのである。
それもあるが、その他の理由として祖父のことがあった。
母は水商売でわたしを育ててくれたので、わたしは小学生の殆どを祖父の家で育った。祖父も出会った時には一人であった。祖母を知らない。
たった二人きりの家族だというのに一緒に暮らしてはいない祖父と母を幼い頃は不思議に思ったものだが、今となってみれば理由は知らないが母が祖父を一方的に嫌っていたのだろうと思う。できればわたしを祖父に預けることもしたくなかったに違いない、だからこそ金の都合がついたあの冬の日祖父からかっさらうようにして連れ帰った。祖父とはそれきり会っていない。次に会ったのは祖父の葬式で、高校入学直前だったために、わたしの制服デビューは葬式だった。会いに行こうとは何度も思ったが、祖父がどこに住んでいるかすらしらなかった。
わたしは祖父が好きだった。白髪だったが腕たくましく胸厚く、よくわたしを乱暴とも思えるくらいに全力で遊んでくれた、不器用で直情的な祖父が好きだった。わたしが腹が減ったと言えばしかたねぇなおらよと腰を上げて、バター醤油ご飯を作ってくれた祖父が好きだった。なにか話してくれとねだれば、多少脚色の過ぎる胸躍るような活劇を舌をこんがらからせつつも大声で身振り手振りよろしく語ってくれた祖父が好きだった。
その祖父は唐突に言った。
「おう、別に忙しいってんならいいが」
「なに」
「ここにうちの墓がある。じき俺はここに入るから、たまにはツラァ見せに来い」
差し出されたしわくちゃの地図チラシの裏に書かれていて、祖父のごちごちした手による物でわかりにくいことこのうえなかったがわたしはそれを受け取った。
母に見つかればきっと取り上げられるだろうと思い、引き取られるその日にはシャツの首からつっこんで隠し持った。
「掃除しとけよ」
ぶっきらぼうな物言いだった。祖父の背中は大きくて、抱きついてみたらいつも邪魔くせぇなと邪険にされたがそれでもしがみついていると好きにさせてくれる。汗のにおいと雑草のにおいがした。そういえば祖父は祖父なりに気をつけてくれていたのかもしれない、煙草のにおいは覚えが無い。

その墓は祖父が建てたものでまだ新しいそうだったが、一番にそこへ入っているのは祖父の兄だという。祖父の話に兄はしょっちゅう出てきて、その話をするときには祖父もただの一人の弟で、楽しそうでありさみしそうでもあった。



わたしは窓の外を見る。いかにも暑そうだ。蝉がじゃんじゃんとパチンコ屋よりやっかましく鳴いている。
「ちょっと出てくる」
母に告げて家を出た。母からの返事は思った通りなかった。もしかしたら気づいているのかもしれないがわたしをいないものとして振舞う母に目の前が歪む。
わたしはボロアパートの鉄階段をケンケンと叩きつけるようにして駆け下りて炎天下へと飛び出した。
ああ、暑い。









自宅最寄り駅から約一時間ほど電車に揺られて、墓のある駅へと到着した。乗換えがなかったのが幸いだったが、見事に田舎で何も無い。しぶしぶ取り付けたような自動改札が不似合いな、キオスクすらない駅でやる気のなさそうな年配の駅員が一人ぼんやりと座っている。わたしは駅員に近づいて、
「すみません、ここに行きたいんですけれど」
と尋ねた。こんな山と畑と田んぼしかないような土地で交番は望めないだろうと思ったのだ。白髪頭の、鶴のように痩せた駅員は老眼鏡を外してわたしの突き出した地図を睨む。
「あんたこんなとこに何か用でもあるんか」
「墓参りです」
短く答えると、駅員はわたしの頭の天辺からつま先までをじろじろ見た。憮然として何か、と低く尋ねる。
「あそこに山が見えるだろう、あの頂上に今は誰もおらん寺があってな。おそらくそこだろう」
山、わたしは心中慌てて駅員の指差した方向を見た。相も変らぬ晴天の下、古い山なのだろう黒っぽい緑が一山もりもりと突き上がっていた。
「その格好じゃあしんどいんじゃないか」
その格好。わたしはあらためて自分の服装を省みる。墓参りに何を着たらいいのか知らなかったので、祖父に見せてやりたい気持ちから高校の制服であるセーラー服にハイソックス、ローファーに学校へ行くのに使っているリュック。
めまいがする。
「どこか、線香や花を買えるところを知っていますか」
とりあえずそれだけ尋ねるのがやっとであった。
太陽はなおも白く、べたべたと塗りたくられた光に美術の時間にみたゴッホを思い出した。



上を見ない向かない、下だけ足元だけを見て上を目指す。
登山道というにはあまりに粗末な、整備されていない急斜面を登るセーラー服。ギャグか。わたしはかわききった唇に疲れた笑みをくっつけて、休まず頂上を目指す。富士山に登るわけじゃあないもうすぐだと言い聞かせながら。
だが、富士山は登山を前提に整備されているがこんな野山は細いロープが道沿いに張ってあるだけで見通しも悪い。背中のリュックにはふもとの酒屋で即身仏みたいに干し上がったバァさんに勧められた一升瓶が入っていて、口が飛び出している。他に線香とおまけにもらった鯨の大和煮カンヅメ。しかしカンヅメってなんだ、遭難でもしたとき用か。
朝飯昼飯を食べていなかった、いや、昨日の夕飯も食べていなかったツケか頭がぐらんぐらんする。水分も取っていない、体内にためこんでいた水分はただだくだくと汗となっては地面に落ちていって無駄にしていた。
後どれくらいだろう、と思って上を向いた瞬間、目の前に白光りする赤花青花が散った。耳の奥がピーンと突っ張って、音が聞こえなくなる。
あ、いけない。
思ったときには前のめり地面一直線に倒れこんでいた。
じいちゃん、声にはならなかった。









顔の上でコップでもひっくり返されたのだろうか、冷たい水がぶちまけられてわたしは覚醒する。セーラーの襟元はびしょびしょ、制服のスカートのプリーツはおかしなほうへ折り目がついて、泥にまみれている。別にセットしてからでかけたわけじゃあないけど髪の毛もぼさぼさになってしまっていた。
「大丈夫か」
横たわっていたわたしを覗き込んできたのは、いい男としか表現できないような面立ちの男だった。今時めずらしく時代劇の主役を張れそうな勢いのいい目鼻立ちに強い眉、唇には笑みが浮かんでいる。そして何故だかハチマキ。さらに何故だかドラマでしか見ないような長い膝までありそうな学ランを着込んでいた。応援団の人かな。
「はい」
どうもありがとうございますを言う前に、わたしが寝かされていたのがヒビの入るコンクリートの上だったことに気づいた。この男が運んでくれたのだろう。
「どうもありがとうございました」
起き上がろうとすると背中に手を添えてくれる。助けを借りて起き上がるとどうやら破れ寺の前であった。
「どこも痛くはないか」
「はい」
横たえる時に外してくれたらしい、リュックを引き寄せて手渡してくれながら男は微笑んだ。細くなった目元が甘くなくあくまで清くさわやかで、こりゃあ惚れるななんて他人事のようにわたしは見惚れる。
「ところで…こんなところで何を?」
尋ねられて初めて祖父の墓のことを思い出した。一升瓶が割れちゃあ居ないかと心配になってリュックを抱き締めると、危惧していたようなガラス鳴りや水音はなかった。安心する。
「墓参りです」
「そうか、この寺の墓って言ったらあそこにあるアレしかないけど」
アレ、と指差されたすぐ先には、墓というには少々難のあるものだった。
確かに伝統的な縦長の直方体が石となってでんと積まれている。だが卒塔婆も白玉砂利も花を供える台も何も無い。ただ石の囲いの中に墓をしつらえただけの、ホームメイドのにおいのする墓があった。
「……たぶんあれです」
それ、にはでかでかと苗字が刻まれている。まさか字を彫るのもホームメイドかもしれない、へったくそな字で苗字が刻まれている。そして、
「誰か花を供えてる……」
驚いた。花束がばさばさと墓石の前に積みあがっていたのだ。せめて並べろよと思うほど適当に置かれた花束の中には柿やリンゴの果実も転がっているのが見える。もしや猿がそなえたのかもしれない。よく見れば積もっていた枯れ葉や泥がきれいにされていたし、水で洗い上がった墓石が濡れ濡れと黒味を増していた。
「ああ、俺達だ」
男は言った。俺達、怪訝な顔をしていただろうわたしに、男は言葉を続けた。
「皆もう中に集まっているから君も来るといい」
花束に気をとられてしまいどういう関係ですかと聞きそびれた。
抱き起こしてくれていた腕が伸びて、ひょいと引っ張り起こされる。まだ少しふらつくわたしを支えながら、男はリュックを拾ってくれた。
中に、と男が言うとおり破れ寺の本堂からは大勢の人の気配がした。




本堂の中は黒一色で、アリの巣穴に紛れこんだのかと錯覚するほど。
何十人もの男たちは皆、そろいの学ランを着込んで既に出来上がっていた。どんちゃん騒ぎって言うけれど、本当にどんちゃん音が聞こえてくるということを知って少し笑った。ひしめき合って男たちは皆歌い踊り、酒を酌み交わしている。
「その辺に適当に座っていたらいい」
男は私を本堂の端に座らせると、仲間の元へと歩いていった。一息つく暇もなく、目の前には酒のなみなみつがれたコップが置かれる。気づけば回りの男たち(皆学ランを着てはいるが一様に老け込んでいる。大多数が髭を生やしているし、何故だか皆学ランの下は裸だ)がこちらを見ている。飲めということか、意を決してコップを取り、喉を開いて流し込むようにしてあおった。喉を通過するアルコールが熱くて喉がひりひりするが、一時に飲み干してしまったほうがいいだろうと思ってそうする。まわりの男たちがわぁわぁと囃した。
「血筋じゃのう」
サザエさんみたいな頭のちょび髭の男が、まぁるい顔をニコニコさせてわたしに皿を差し出した。タレのたっぷりからんだネギマ串と軟骨、かしら、焼き鳥が並んでいる。軟骨だけが塩味のようだ。腹が減っていたこともあり会釈をして焼き鳥をほお張る。うまい。サザエさんはにこにこしながら空のコップを置いて串を入れるようにいい、呼ばれておうと答え、退く。さようならサザエさん。
「しッかし似ってねぇなぁー!」
いきなり耳元で大声を出されてびっくりして飛び上がる。耳を押さえて振り返り見れば太い眉毛が一本に繋がった、ぼさぼさ頭の無精髭が顎に手をやってしげしげと私を見ている。でっかいくるんとした目からくる無遠慮な視線に居心地が悪くなって、つい睨んでしまった。男がぱっと音がするように勢い良く笑う。
「おお、そうそう!そうすりゃちょおっと似てるな!」
酔っ払いのおっさんがよくやるようにばんばんとわたしの肩を叩いてくる。痛い。馬鹿力だ。コップを持つ手が震えて酒が床へと零れた。痛い、痛いって。
あいたた。
「馬鹿が、あんまり絡むんじゃねぇ酔っ払い」
助け舟は唐突に、競艇よりも勢い良く長い脚が飛んできてその一本眉の尻を蹴り飛ばした。派手に皿や空き瓶をひっ散らかして飛んでいく。おお。
見事な脚の持ち主はさっきの男とはまた違う種類の伊達男だった。さっきの男が男前だっていうならこちらは間違いなく伊達男。頬に不思議な六つの髭みたいな傷跡があるが、それもマイナスに働かない。天下御免の向こう傷のようなものか。伊達男は息災であれよと古臭い言葉遣いで言うと、一本眉の襟首を掴んで大股に去って行った。ありがとう伊達にゃんこ。胸のうちで礼を言う。
「おい、これ」
なんだなんなんだと速すぎる展開についていけず口をかぱんと開いたままのわたし。
すると、イギリスの伝統的なパンクの流れを受け継いだような見事な金色のモヒカンを振り振り、悪役プロレスラーのようなマスクをした男がわたしの目の前にどっかと胡坐をかいて座り込んできた。
「はいッ」
勢い良く返事をすると、マスクの奥でくぐもった笑い声が起こった。目尻が赤い、酔っ払いだ間違いなく酔っ払いだ。嫌な予感がする。
「これな、借りてそのままにしてたんだがいい機会だし、返すぜ」
「これって」
眼を丸くしてしまった。
私のセーラー服の膝前に投げ出されたのは何冊もの、色あせた、いわゆる艶本。ビニ本の類だった。表紙で流行おくれの太い眉のぽっちゃりした女がさらけ出した乳房をかかえて身をよじっている。コピーは『しっぽり』がどうとか。わたしは手を伸ばしかけて躊躇した。だってこういう本って、そういうことをしてああいうモノ触った手でめくったりするんだろう。いけないものが挟まっていたりしたらどうするんだ。マスクドモヒカンはわはははッと腹の底からおかしそうに笑い、さっきの一本眉のようにわたしの背中を叩こうとした。避ける。
「そういうのは感心しませんね」
冷えた、しかし美しい声。国語の授業で習った、玲瓏たる声というのはこういうものかと思えるような声がした。
美女だ。今時の化粧をこってりのせた美女ではない。透けるように白い肌に薄い血色の唇、桜そのものを溶かして糸にしたようなうるわしい髪の毛にはもつれ一つなくてため息が出そうだ。優しげな、しかしどこか温度の低い目がわたしを見ている。値踏みされている?
「女性の前でそういう本を広げるなんて、デリカシーが無さすぎませんか」
腕組みをして睨み下ろす美女の言葉に、マスクドモヒカンはにわかに慌てだした。こんな美女の言葉なんて柳の枝でぶたれたようなものなのに、ビニ本を抱えて立ち上がる。集め損ねたビニ本が開いて、更に過激な写真がわたしの目に触れる。美女の視線が零下へ急速に冷えた。
「そう睨むなって、相変わらずおっかない男だな。借りてたモンを返そうとしただけじゃねぇか」
「ふん」
美女は顎を反らせて、マスクドモヒカンの座っていたところに正座した。男って言った。今絶対言った。わたしはもうなにも信じない。
「すみませんでしたね、驚いたでしょう」
美女…美男ではないような。あそこまで化粧が濃く無いにせよ宝塚の男役と言ったほうがしっくりくるか。桜ジェンヌにわたしは頭を下げる。
「いいえ」
「身内の貴方に言うのははばかられますが、ああいうちょっと俗な本を好む男だったのですよ、いつも隠してある本を焼き捨てるのは私の役目でした」
にこりと微笑む桜ジェンヌの笑顔は、きれいだが、怖い。
怖い。
「はぁ」
「それじゃ」
マスクドモヒカンが広い損ねた、分厚い写真集を細い指先が摘み上げて手にする。微笑みを絶やさないままそれをあっけなく縦に引き裂いた。
怖 い 。
すっかり萎縮したわたしを残して、桜ジェンヌはこれは始末しておきましょうと言って立ち上がり去った。















宴は進んだ。
どこから酒にさかなを調達してくるのかわからないが、わたしもかなりすすめられるがままに飲んだ。飲むたびに目の前のものの輪郭が一重二重と増えていく。安酒でないせいか、雰囲気に酔っているせいか吐き気も頭痛もなく気分がいい。心地よく笑うことが出来た。
入れ替わり立ち代りわたしの前には人が座り、絡んでは酒を注いでくれる。
本堂の一番奥に安置されていた仏像が動いたので悲鳴を上げたら覇王たる大男だった。
寡黙な外国人はわたしの目の前で、パンチ一つで串を縦に割る離れ業を見せてくれた。
なまず髭の男はいろいろと武術について面白く話してくれてつい聞き入ってしまう。
住職だろうと踏んでいた清冽な坊主頭は盲目だと言っていたが、迷わず私の頭についていた枯れ葉を取り去っていく。
余興だと立ち上がった白髪の、どっしりとした腰の男は身体よりも大きな刀で大黒柱を切り倒した。
くずれかかった本堂を、一本眉がよいせと支えて事なきを得る。

楽しかった。

あのハチマキの男が一升瓶とかけた茶碗を片手に現れて、どうだ楽しんでいるかと尋ねた。
「はい」
「まあ飲め………ちぇ、もう無いか」
わたしのコップに酒をつごうと傾けた一升瓶にはもう酒は残っていない。取りに行こうと立ち上がりかける男を制して、リュックから持ってきた一升瓶を取り出してフタを開ける。どぶどぶとついだ。不慣れなもので少しこぼれたのは無視をする。
「どうぞ」
「すまねぇ……うん、うまい」
酒を飲む姿も堂にいっている。
ああ、とため息をついて天井を見上げた男はふと、遅いな、と呟いた。
「主役がまだ来ない。やっぱり川を渡るのは無理だったかな」
「主役」
「まぁ俺もだが、遅刻癖のある男だったよ」
「………」
何か聞かなければ、と酔ってふわふわした頭の中で鈴が鳴るが酒びたりの舌が動かない。わかってるだろうなにかおかしいって、わかってるとも、でも何がおかしいんだっけ、おかしくなんかないぜ、ほら、だって。
「次は馬くらい用意してやるといい」
「馬」
馬ってなんだ。聞くまでもなく男は説明を始めた。
「きゅうりに割り箸をさしてやるのさ。そうじゃなきゃ川を泳いでくることになるだろう」
「はい」
はい、と言ってみたものの頭はますます使い物にならなくなっていく。男は笑って、手を伸ばしてわたしの頭を撫でた。
ああ、何か思い出す。
ああ。
「桃、酒が無いぞ」
「そうか、もうそろそろお開きかな」
男が呼ばれて振り向いた。男は桃というのだ。そういえば初めて名前を知った。
桃。
桃。
ああ。




ああ、
合点がいく。

すべてがきちんとあるべきところに収まった。

ああ、
ああ、


わたしは正座をした。
男に向かって、背筋を正して一礼する。
「……どうした、」
「名前を、ありがとうございました」

男は笑みを深くした。
「俺にはそういうのは向いてないって言ったんだがな、子に出来なかったぶん孫にはって聞かねぇんだ」
「そういう人でした」
瞼が重たくなる。頭も回らない。
まだ言いたいことが色々とあるのに、この、わたしに名前をくれたひとに。

「貴方のことばかり話していました」
見えない。
見えない。
もう目が開かない。それでも話さなきゃあ。
手を床について、その冷たさに少し意識をはっきりさせる。
「兄貴のほうが多かったろう」
「いいえ」
「そうかな」
「はい」
「そういう物言いがはっきりしてるところはそっくり受け継いだんだな」
「……よく怒られました」
「かんしゃく持ちだったからな」
「………粗忽ものでした」
「そこがいいんだ、単純で、熱いまっすぐなやつなんだ」
そうです。
ほんとうに。
「貴方のことを本当に……」
本当に、








わたしはついに意識を放り出した。















おぼろげに、誰かに背負われて下山したのを覚えている。
汗と雑草のにおい。



薄情なやつらだ、俺だけ酒無しかよ。
そういうな、ここにあの子が持ってきてくれたのが残ってるから。
ちぇ、主役は俺だってのに――
フッフフ、次はちゃんと馬を用意するように言っておいたさ。
フン、自分はちゃっかり飲んどいてよぅ、
そろそろ麓だな、じゃああの子には悪いけどリュックを開けて酒瓶を――お?
どうしたィ桃よう。
いや、なかなかどうして気が利く子だ。お前好きだろ、これ。
おおッ、鯨の大和煮じゃあねぇか!こりゃあいいや、戻ってこれをツマミに飲むかな。
そうするといい。俺も付き合っていいか?
…ま、いいだろ。








目覚めた時には夜十時。麓駅前のベンチに転がされていた。終電間際で飛び起きる。
まさか、すべては夢というわけじゃあないだろうといぶかしむと、セーラー服の胸ポケットに紙切れがねじ込まれていた。
変な体勢で寝ていたためにしびれる指先でその紙切れを開く。
「………はは、」


『鯨の大和煮、次はもっと持って来い』




じいちゃん。
わたしはちょっと、ほんのちょっと泣き笑いになった。

モクジ
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