秘書のたしなみ
目の前の女は獰猛そうな傷面の自分をふふふんと笑って見
ていた。
高価そうな、大変な美女である。実際女は富樫の想像の及ばないほどの資産家であった。これでは愚かな男が切れ目なく求婚するだろう。
ただし、あと四十年は丸々若ければだ。
御年いくつになろうか。これは妖魔の類かも知れぬ。それほどに毒々しい。
「平八様もお人が悪ィや、アタシのお守りをこんなボウヤに任せるってかい?ええ?オイ名前ェ」
老婆は唇をにっと吊り上げて富樫をからかった。入れ歯かどうかはわからないが歯はきっかり揃っているのが覗く。
富樫はよくよく老婆に縁がある。それもとびきりの性悪の婆にばかりであった。
「富樫、源次…です」
勘弁してくれや、富樫は早速泣き出したい。よりにもよって年寄り、塾生の頃からガキと年寄りは大の苦手だったのだ。聞かれて名乗るも、忘れてくれとすら思
う。
「そうかえ、なら源次」
早々に呼び捨てだ。煙管、先輩の卍丸の使っていたようなのと同じ、シンプルな黒い胴に金の飾りつきの煙管をぷかりぷかり、名前は知らなくても嗅いだ覚えの
ある匂いの煙が鼻先まで降りてきている。富樫は頭を床に押さえつけられたようにして青臭い畳の上に平伏していた。
「はい」
老婆は萎れた小柄な体のどこからと問いたくなるような高い声でカッカと笑った。笑いが転げて伏せたままの富樫の背中に落ちてくる。
「退屈は大ッ嫌いサ、源次ちょうどいい、デエトでもしようか」
蓮っ葉な口調とからかいに弾んだ声にぎょっとして富樫が顔を上げると、年老いて尚化粧を忘れぬ毒入り徒花があでやかに笑っていた。塗られた臙脂の唇には縦
じわがあったが、なお艶がある。
何べん目かの、勘弁してくれを富樫は胸のうちで呟いて、
「はい、奥様」
この館の女主人が望んでいるだろう返事をしてやった。だというのに答えたとたんに肩口をぽっくりと優美な曲線を描く椅子に腰掛けたまま蹴られた、鮮やかな
深咲緑と橙の縞からなる派手な紬の裾から投げ出された足袋にである。真っ白い足袋からのぞくふくらはぎはハリもなく白粉の力が届かずに黄色っぽく水分が少
なそうだった。
老婆はきっちりと形を整えて書いたらしい曲線の眉を跳ね上げて、小娘のように富樫を驕慢に叱り付けた。着物に包んでもなお隠し切れない鳩より薄っぺらな胸
を張っている。
「野暮天抜かすンじゃあないよ、独身さアタシァ、お嬢さんとお呼び」
お じ ょ う さ ん ?
顎を落っことして絶句する富樫に、行くぜダーリンと老婆は椅子から立ち上がった。すたすたと裾をさばいて立ち去ってしまう、富樫は複雑に何がどうなってい
るのかわからない空色の帯としゃんと伸びた背中を追いかけて、よたよた左右にぶれながら走っていった。
部屋には煙管の煙が残っている。
「源次、銀座がいい、車を出しな」
資生堂パァラァでもってフルゥツを食べるのサ、その口調ばっかりはまさにお嬢さん。
お嬢さんのお供となった富樫は、相手を命じた自分の雇い主を恨んだ。
ともあれ塾長命令である。
富樫は車を運転するために手に真っ白い手袋をはめ、この老嬢にお付き合いをすることにした。
「こら源次、アタシを裸足で歩かせるつもりかえ、ええ?オイ」
「――へ」
ヒノキ造り、一貫張りの玄関に腰を下ろした老嬢は目の周りにもしっかりと陰影をほどこしたまぶたを瞬きさせ、いかにも富樫がダメだと言いたげに叱る。理由
がわからない、この理不尽さはどこか塾長っぽいと失礼なことを考えながら、靴を履きおえた富樫は玄関に立ち尽くしもてうる限りの笑顔をこしらえた。
「女が出かけるってンなら、靴を選んで履かせるくらいのことをしろってのサ」
そんなんじゃあモテないだろう、ええ?
図星だったが、素直に頷きたくは決してない。
「面倒ごとだ」
ああそうだろうよ、面倒じゃ、
「お前、女の相手を一日してこい」
女ァ?俺ァ女は三十までって決めてんだよ、
富樫は老嬢の足元にひざまづいて草履を履かせながら、命じた塾長を呪う。
月曜日の午前九時。
長くなりそうであった。
「源次、行くぞ」
「はいお嬢様」
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