十二月三十一日
馴染みの、と言っても富樫自身が馴染みというわけではな
い。
富樫の主人が馴染みの蕎麦屋、その藍染の暖簾をくぐった。からりと戸を開けると痩せた老人がおういらっしゃい、と細い皺首に喉仏をごとごと鳴らして出迎え
てくれる。眼鏡をしていたら真っ白に曇るだろうほどにカウンター四席にテーブルが三つしかない狭い店の中はあたたかい。
富樫は首に巻いていた一見して安物とわかる、黒いアクリルのマフラーを取った。空いたカウンター席にイスをギシギシ言わせて座る。
「いらっしゃい、今日は一人かい」
「ああ」
「何にするかい、タヌキかい」
富樫が頼むのは、ただ天カスをのせた安いタヌキだ。いつもタヌキを頼むのを恥ずかしいと思わないでもなかったが、無い袖は振れない。
「いんや、かけそば」
今年七十になった店主は肉のついていないつるつるの禿げ頭に皺を作って怪訝そうにしたが、何も言わずにあいようと応じて調理場へと引っ込んだ。
富樫はスーツの上を脱いで、背もたれへと雑にかけて大きく息をつく。外気に凍り付いていた頬がゆるんでいく。
十二月三十一日、午後十三時。
今年という蝋燭も、そろそろ芯の尻がジリついている。
富樫はほどなくして店主の出してくれたかけそばをずるずるとすすり、壁に取り付けられたテレビを半目に見上げた。
『今年もあとわずかですねえ!』
可愛いアナウンサーが語尾を甘ったるく伸ばしてそう言った。へん、と富樫は鼻で笑って見せた。
「よう、そういやアレ、できてっかよ」
頭を上げて、厨房で手を洗っている店主に呼びかけた。店主は当然だと言うように軽く頷いて、
「夜になったらまた来てくんな、打ちたてじゃなきゃあ、あン人に食わせるわけにゃあいかん」
そう言った。
富樫の言うアレとは年越し蕎麦である。江田島平八の家に住み込むようになって初めての年越しだ、おせちや門松はできる部分は手配を終えている。
残るは蕎麦で、塾長に聞けば毎年この『長屋庵』にて年越し蕎麦を食べるのだと言う。だが、富樫を住まわせたということもあり、
『どうじゃ店主、ワシに一つ蕎麦を売ってくれ。家でこの秘書に後はやらせるのでな』
と言い出した。全てがわがままだと言うわけではない、本人が自覚しているかどうかは別として江田島平八というのは有名人なのである。一人暮らしの不精者が
一杯の年越し蕎麦を求めて集まる暮れの蕎麦屋に出向くというのは、店主にしてはさぞ気苦労も多かろう。
そこまで酌んだかどうか、ともあれ店主はへいと頭を下げて請け負った。
富樫はその蕎麦を取りにきたところである。ついでに昼飯にすることにした。
結局蕎麦は受け取れなかったが、昼飯が食べられるのでそこまで無駄足というわけではない。なんといってもここの蕎麦はうまい。
外の寒さにさんざんイジめられた体は何かあったかいものを胃袋に詰め込みたいと言うので、富樫は本日一度目の蕎麦を口にする。
「そうかよ、そんじゃあ俺ァ十時くれぇになったら来るぜ」
「あいよ」
カツオ節だ、その程度しか富樫のなまくらな舌と鼻にはわからないがそれでもえらくうまい蕎麦の汁、それを丼から一滴残らず吸い上げて富樫は店を後にした。
暖簾をくぐり出たなり、盛大にくしゃみが鼻から飛び出した。慌ててマフラーをぐるぐると首に巻きつける。だが単に巻きつけただけだと頭を下げたり風が吹い
たりしただけでほどけてしまう、富樫は何べんも塾生時代桃がしていたような巻き方をしようと試みたが生来の不器用さでいつも失敗している。
小雨が忌々しく降っていた。
チェ、と舌打ちを一つして足を踏み出すと、水溜りだと思った部分がジャリと鳴った。
みぞれである。
右手には蕎麦屋に行く前に買い求めた手提げの紙袋、
左手はカラである。
富樫、傘を持っていない。
「チェッ、我慢のきかねえこったよ」
理不尽な文句を垂れると、小走りにみぞれの中を駆け出した。
クリーニング代が意外とかさむのは、こうして雨や雪に降られても防ぐ手段を持っていないことが多いからというのもある。
いい大人でしかも男が、子供よりもまっつぐにただただ走る姿と言うのはどこか、異様である。
だがそれを異様だと思わぬ人に囲まれて育ったのだから、どこか様になっていた。
どこかの駆け出し政治家などは、
「必死にしている富樫は、まさに富樫さ。あれは本当に、本当にいい男だ」
と血色よくふっくりとした頬を緩めて褒めた。富樫のいないところだったし、現在も富樫の耳にその褒め言葉が入ることはないが、
富樫とは、そういう男なのである。
そういう男は、足元のみぞれの溜りをビシャビシャ跳ねて江田島邸へと駆け戻った。
急ぎ急いで戻った家には誰もいない。
玄関の入り口に鍵がかかっていたのでおかしいと富樫は思ったが、開けて家に上がるとどうにも気配が無い。
首をひねりひねり、居間に行ってみる。
と、檜造りの広い卓の上に一筆書かれたメモが残されていた。
「うん?」
腰を屈めてそれを拾い上げ、書かれた文字を読み取ろうとすると、
『わしが男塾塾長江田島平』
と書かれている。『八である』の部分は、あまりにも前半を大きく書きすぎてしまったために入りきっていない。
「これをどうしろってんだよ!!」
読み取れない、読み解けない。
富樫はせっかく買ってきた、国産牛肉の包みを卓の上に投げ出して嘆いた。
急にみぞれの勢いが強まった。チャッチャと地面を叩く音がする、粒が大きくなったのだ。
富樫は仕方なくそのメモを電話の隣に置くと、台所に行って牛肉を冷蔵庫にしまった。
それで終わりだ。
やることがなくなってしまったので、富樫は電気のついていないコタツに足を突っ込んでテレビを見ることにした。
午後二時五十分。
『お正月はぁ〜、フランスで年越しスキーです〜』
『バリに六日間ほど』
『真夏のオーストレィリァへ!』
たちまち流れ込んでくる胸糞の悪い電波に、富樫はチャンネルを変えた。富樫の意思でチャンネルを変えることなんかそうそうないので、富樫はぐるぐるとどの
局にしようか迷う。
グルメ、
歌番組、
漫才、
どれもこれも出演者は皆急に善人になったように妙に福福しい半笑いを浮かべている。
「ケェ、浮かれやがってよう」
コタツは相変わらず冷え切っている、だが不思議と電源を点けようという気にはなれない。主人が入っていないコタツに雇われ人の自分ごときが、と思うとはば
かられる。
頑固そうに張った顎をコタツの冷え切った天板に乗せて、グルルと獰猛な唸り声を漏らした。
『どなたと過ごされるんですか〜?』
見ればわかるだろうに、頭の軽い質問だ。
答えるほうも答えるほうで、
『いやぁ、彼女と…』
なんてデレデレと鼻の下を伸ばしきっているのだ。
「………」
無性に、富樫は無性に腹が立ってきた。
自分は一人寂しく禿げ頭のオッサンと年越ししようと言うのに、世の中はどうしてこうもおおはしゃぎしているのか。
そして、せっかく二人なのだからと薄い財布をはたいて牛肉を買い込んできたので、スキヤキでもと思ったのに当の禿げ頭はいないのか。
だというのにどうして自分は、コタツも暖めずに一人年末番組なんぞ見ているのか。
無言で、富樫はテレビを消す。代わりにコタツの電源を点ける。
ごろりと背中から敷布の上に転がり、ぬくくなったつま先に目を閉じた。寝てしまおうと思ってであった。
みぞれ空を構わず、富樫は何かを紛らわせるように寝汗をかいてウンウン唸りながら寝た。
コタツに入って寝ると、悪い夢を見るぞ。
そう怒って、布団に行くように進めてくれた兄の声ばかりが富樫の耳に鳴る。
富樫が目覚めるととっぷりと日は暮れ落ちていた。
今日も兄は帰ってはこなかった、それを確認してしまう夜は富樫にとっては嫌なものである。兄は富樫の学費と生活費を稼ぐために、毎日どこかへ働きにでてい
た。その勤め先を富樫に教えることは無かったし、富樫が問い詰めるまで働いていたこと自体を隠そうとしていたのだ。富樫の兄は、そういう男である。そんな
兄が、兄だけが富樫の家族で富樫の全てだと言ってもよかった。
兄が男塾へ行った。
富樫はただいまを言うのをやめた。おかえりを言う人間がいないのを知ってしまったからである。
兄が男塾で死んだ。
富樫はただいまを言うようになった。おかえりを言う人間がいるかもしれないという期待を抱いてである。
期待はいつだって裏切られた。
その年、富樫は初めて一人で正月を迎えることになった。
「…は」
目覚めた富樫は天井を見上げた。兄はまだ帰ってこない、帰ってきたら、兄がただいまを言う前にお帰りを言ってやろうと思って待ち構えていたのに。
毎日富樫は玄関が見える位置に布団を敷き、ギリギリまで兄を待った。だがいつの間にか寝入ってしまい、翌朝誰もいないのを倍返しで味わうことになる。
痛切な願いは今も一つだ。
誰か呼んでくれ。
呼んでくれ。
名前を呼んでくれ。
源次だ、俺は源次だ。
呼んでくれ。
『……富樫』
ああ、
ああ、
ああ、
兄ちゃんじゃあない。
富樫は決して兄が呼ぶことの無い自分の苗字に、頬に軟弱な涙をこぼした。
「主人の帰りを寝て待つとは、ずいぶんと出世したのう」
ゴツン!などと可愛げのある音ではない。ボガン!あたりが正しい。
コタツの天板を跳ね飛ばす勢いで富樫は飛び起きた。夢から覚めた、過去から戻った。
「うおぁッ!!」
兄ではない、兄であろうはずもない。富樫の大事な、
雇い主だ。
「じ、塾長――」
「何じゃ何を幽霊でも見たように…そうだとも、」
肩に雪の積もった羽織をばさり脱ぎ捨てて、腰を入れて胸を張った。
「ワシが男塾塾長、江田島平八である――ッ!!!」
もはや夢におぼれようも無い。甘苦い過去はみぞれよりあっけなく解け消えた。
尺取虫のようにうつぶせのまま、尻をもじもじさせて富樫はコタツから這い出る。耳がキーンと飛行機のように鳴っていた。
「何を泣きそうな顔をしておる」
「…は?」
ドカンと地響きをさせて、塾長は富樫の横に胡坐をかいて座った。蛍光灯の下に塾長の禿頭は照り照りと光っている。
やっとのことで起き、向かい合うようにして座ると目がきっかりと合う。富樫が正座の分、座高が高くなっているせいだ。
「子供のように泣いたか、ワシがいない寂しさに」
塾長は分厚い唇を曲げて笑った、袖で目元をこすって富樫、ぶんぶんと首を横に振る。
「い、いや、泣いてなんかねえ」
「そうか。…それで」
それで?富樫の目が丸くなった。塾長はできの悪い子を見る教師のように指をトントンと床を突いて鳴らす。
「それで、って」
「お帰りはどうした」
――おかえり、 ――
結局グズグズに泣きそうになってしまった富樫が、どうにかこうにか出迎えの挨拶を述べる。顔を上げられない、人に見せられない顔になってしまった。
塾長は腕組みをし、満足そうに頷いて、
「ただいま」
と言ってくれた。胸が満ちた。が、
「蕎麦はどうした、馬鹿モンが―ッ!!!」
たちまち夜空の下に放り出されてしまう富樫であった。
長屋庵の暖簾をくぐる頃には、すでに十一時をまわっていた。腕時計を見るまで、自分がそれほど眠っていたことに気づかなかったのである。
マフラーすら巻かずに蹴りだされてしまったために、飛び込むようにして入り込んだ。中から店主よりも先に出迎えてくれたのは湯気、熱気、人の気配。
真っ黒なスーツの富樫を中に隙間なく居た客達は一度は見たが、富樫が後ろ手に戸を閉めると興味はなくなったようで、壁にかかったテレビの紅白歌合戦に視線
を戻した。凍っていた舌が解ける。
「蕎麦ァ、受け取りに来たモンだけど」
震えた声にこたえ、提げれば床に着きそうなほど大きな紙袋を重たげに持った店主が現れた。てらてらと熱気に赤くなって、蛸のようである。
「重てェんで、気ィつけて持ってってくんな」
「って、こんな一杯どうなってんじゃあ!!?」
大声を上げた。恒例の派手な衣装で現れたテレビの中の演歌歌手に注目していた客が迷惑そうに富樫を振り返る。
「こんな、って。注文通り百人前だけど」
「ひゃくぅ!!?十人前じゃあねえのかよ!!」
さすがに酒の入った客から、うるっせぇなあと声が飛ぶ。普段ならにらみを利かせて黙らせるが、今日はどうにも勝手が違う。
「ああ、あの後江田島先生がいらしたんだよ。急に百人前って言われてこっちも焦ったわァ」
こともなげに店主は言った。代金は後で集金に行くよとそこまで多くの持ち合わせのない富樫を安心させるように言葉を足して、
「さあ急いだほうがいい、もう除夜の鐘が鳴り出した」
と、富樫を急がせて出入り口へと背中を押した。納得のいかない富樫は受け取った袋を胸に抱えて振り向く、問う、
「いっくら塾長だって、百人前なんて食えやしねえ!それこそ店でも開かねえと…」
「ふがいねえ秘書のためにだとよう」
「……へ、」
店主は戸を開けた、送り出す。店主は後ろ手に戸を閉める。
みぞれが降っていた。
いや、みぞれではない、立派な雪だ。
「寂しがりのぼんくら秘書が、ワシ一人じゃあ嫌だと文句を言うんでな」
店主は口を蛸のように突き出して口真似をした。毎日隣で聞いている富樫が真似るよりもはるかに似ている。
「かわいい卒業生を廻って、集まってもらうんじゃ、とナ」
さあ急いだ急いだァ――
富樫は腑抜けのように、江田島邸へと駆け戻る。
頭がなにやらぐるぐるとしていて、訳がわからない。
三度滑る、一度膝をつく、走る。
走る!
ごおおおおおん、
明かりが見えた。
ごおおおおおん、
人の声だ、
ごおおおおおん、
懐かしい声だ、
ごおおおおおん、
醤油の匂い、
ごおおおおおん、
肉のあぶらが焼ける匂い、
ごおおおおおん、
俺の肉が焼ける匂い、
ごおおおおおおん、
スキヤキの匂い、
ごおおおおおん、
「富樫の奴おっそいのう、年が明けっちまうぜ!」
虎丸の声、
「お待たせしましたァ!!」
戸を蹴り破らんばかりの登場に、中で待っていた大勢の人間がわっと沸いた。
寒さから一転、蒸し暑いほどの人いきれである。
「遅いぞ、富樫」
塾長の声。近寄ってきて、お疲れだったな富樫と声をかけてくる桃。
ああ、俺ァ、なんて。
言葉にならない。
言葉にできない。
言葉にしたくない。
だってあんまりみっともなくって。
メガネもしていないというのに、視界がたちまち滲んで曇ってしまって富樫を困らせた。
ちょうど百を、除夜の鐘が数えた時のことである。
二度目の蕎麦は、もうすぐそこだ。
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