つくしむくわれ気づかずに
驚く江戸川の顔をなんとたとえるべきか、赤石は笑いを堪えられない。
もちろんワッハッハとどこぞの虎のように馬鹿笑いをするわけではないが、頬に含んだ息が鼻に抜けてフッフと笑う貌は凄みがある。
江戸川はおびえたようであった。
ふん、臆病者がと赤石は眉のあたりに険のある皺を作って江戸川の緊張しすぎて震えている拳のあたりを見た。血管が浮いている。力を入れすぎだ。
震えている、大きな図体をしておきながらウサギかなにかのごとき江戸川のか弱さに赤石は笑う。赤石が笑うと眉間の皺はいよいよ深くなり、一見して機嫌がいいのか悪いのかはわからない。
「少しは喜んだらどうだ、ええ?」
二号生筆頭の、ありがたくもやさしきお言葉。
江戸川はさらにおびえたようであった。
寒寒月が照っている。
赤石は床に胡坐をかいて座っている。じかにではない、江戸川の学ランをくしゃくしゃと丸めて尻の下に敷いて座っていた。
江戸川、この寒い十一月の夜だというのに上半身をひん剥かれてしまっているのだ。全身が赤石に対する感情もあるけれどもぶるぶる震えて鳥肌だらけである。
赤石は手酌で酒をひび割れの入った茶碗で飲んでいる。江戸川の茶碗はない、しかし呼びつけられた以上勝手にハイおやすみなさいよというわけにはいかないので黙って正座していた。木床に正座すると脛の骨が自らの体重によってごりごりと圧迫され、つま先はしびれるし腰は痛むしでいいことはない。
正座せよと赤石が命じたわけではない、が、江戸川は二号生筆頭代理なのだから二号生筆頭赤石の前で足をくずすことはできなかった。崩せばきっと、「貴様も出世したもんだな」などと小さな目を細めながらいかにも楽しげに言われてしまうだろう。それは冷たい床に正座するよりもはるかに恐ろしいことだ。
そうこうしているうちにつま先の感覚が既に失われて久しい。おそらく指でつついてもぶよぶよとたるんで、立とうとすれば足が崩れていくに違いなかった。
「フッフフ、何をそんなにおびえている。何か後ろぐれぇところでもあるのか」
「い、いいええそんなこと」
声が上ずってしまう。後ろ暗いところなどありはしない、江戸川は赤石が帰還してからというものの誠心誠意仕えている。伴う感情は尊敬にすこしばかり畏怖だ。
赤石は太い腕を上下させてごぶりと水を飲むようにして酒を飲み干した。江戸川が買い求めたものだと聞くやいなやのこの遠慮のなさである、ある意味徹底している。
月の光よりも破れ傘の白熱電球のほうがあかあかと明るい。が、夜更けということもあって戦時中のように傘に手ぬぐいをかぶせて光を絞っていた。
その光に照らされた赤石の顔はどこか楽しげである。
「た、ただ、ワシがなんぞしよったかと心配なんですわ」
「てめぇのやることなすこと、一々失敗続きだからな」
へへ、江戸川は薄ら笑いを浮かべたが赤石の言葉に切り上げられる。顔の筋力を総動員しての笑顔もこの、自分が敬愛してやまない二号生筆頭にはまったくかなわない。
いよいよ足の感覚がなくなってきた。赤石はもじもじとつま先を揺らがせる江戸川を眺めながら、肴もなしに酒を飲む。
この呼び出しの意味は何じゃろっか。話を切り出す様子のまるで見えない赤石にさすがの江戸川も頭をめぐらせて考えてみたが思い当たらないし、赤石さんが呼び出すんならワシその必要があるかどうかなんざ考えるだけ失礼ちゅうもんだと変に義理堅いところを見せて自重した。
押し黙って、赤石の言葉を待つ。じっと待つ。
視線を感じたのか、赤石は太い眉をぴくりと動かして皮肉げに唇をゆがめる。笑ったのだと理解するのに時間のかかりそうな、凶悪なそれ。
江戸川はこの寒いのに額に汗をタラーリとたらしてヒャーッとおびえた。冷たいのはつま先ばかりではなくなってきた。
「てめぇは全くもって頭のめぐりが悪いな」
「ヘえッ?」
間抜けな江戸川に、てめぇは岡っ引きかよと赤石は言ってひどく上機嫌に空になった茶碗に酒瓶から酒を注ぐ。
「俺が呼び出したからそこにてめぇは居るんだろう、だからおろかだと言うんだ」
「そりゃ、そりゃ、どういう…」
まったく赤石の意図するところがわからない江戸川はただ頭を下げて怒りに触れないように祈るしかない。土下座の状態に自然と頭がさがっていく。
(どうしたってワシはこんなんなんじゃろうな、ええ?この方をごっつくお慕い申し上げてんのに怒らせるばっかりじゃ。ああ情けねえったら)
「ヘマをやらかしてねぇんなら俺がどうして呼び出したか、考えりゃわかりそうなものだぜ」
「そ、その、その…」
「今日が何の日かわかりもしねぇか、江戸川」
ヘッ?
きょとんとした江戸川が顔を上げると、赤石は立ち上がっていた。立派な図体だというのに動作は身軽だ、自分なぞと違って。江戸川は赤石の一部始終の動作に見とれた。
「な、何の…日ですか、ええと」
馬鹿モンが、赤石はおそらく苦笑の類の笑みを一瞬だけその怖い顔に浮かべるとわざわざ江戸川のしびれた足を踏んづけてから部屋を出て行った。
しびれと疑問にぐるぐるビリビリ、江戸川はしばらくそこで悶絶し、ごっついのうと涙を浮かべて冷たい床に伸びた。
次の日、江戸川が呼び出されていたことを知っていた丸山から「江戸川さんもうちっとカレンダーとか、ニュース見たらどうですか」と顎を落とすほどあきれられても何がなんだか結局わからずじまいのままである。
「11月22日か…ガラでもねぇことをした」
苦笑。寒空も笑う。
Copyright (c) 2007 1010 All rights reserved.
