設定とか知らない

小さなその人の名前を三島一八と言った。
胸にしっかりと傷が有って、それで時折尊大な態度の子供の名前は三島一八と言った。
「お前はおれがきらいか」
子供は正直に仁へ尋ねる。仁の視線に、態度に、表情に、全てに自分へ向けられたなにがしかの悪感情を悟っていた。
わからない、理由が無い、会ったのもつい数日前なのだ。子供、かずやは仁に正面から尋ねてみることを決めた。
それはかずやにとって仁は好意の対象だったからに他ならない。三島の子である事、それから子供にしては偉そうに映る態度などから嫌われる事には慣れてい た。会った事のない人間からすら嫌われる事も五歳にして多々あった。
だが、どうでもいい人間からのそしりなどそれこそもっとどうでもいい、かずやはまるで気にしない事にしている。
仁は、どうでもよくない。だからどうして自分を嫌うのか尋ねてみたのだった。
どうでもよくないとは、好きかという事になるだろうか。かずやにはまだわからない。なにしろ起きたら仁が居て、それで自分の世話を焼いてくれる。
召使いではなく、血縁だと言う事はわかった。それだけがわかっている事でもある。
人を呼び捨てにしてはいけない、
何かしてもらったらありがとうと言いなさい、
むやみに人を怒らせるような事を言ってはいけない、
自分を叱りすらする。かずやは驚いた、けれど、嫌いではない。なんとなく母に似たこの男が嫌いではない。
自分が嫌いではないのに、仁は自分を嫌いかもしれない。
ただ単にそれが悔しいだけかもしれなかった。

「仁」
「呼び捨てにしたらいけないって言っただろう」
薄紫のバスタオルを干しながら仁はかずやを咎めた。バスタオルと言うには大判のそれはかずやのタオルケット代わりにしているもので、薄紫なのは李の趣味 だった。
ちょっとした遊びなら出来そうなほどのバルコニーは広く、周りにはこのマンションを見下ろす高さの建物は無い。その広々とした浮世離れ感のある空間に物干 し竿を出している様はなんとなく間抜けであったが、仁はもう慣れている。
窓から出ていつの間に仁の後ろへ来たものか、自分のシャツの裾を引っ張る子供。仕草はあどけなく、しかしその見覚えのある秀でた富士額に仁の眼差しが知ら ず曇った。
それを鋭く見咎めたように、かずやが口を開く。
「お前はおれがきらいか」
その言葉はどこも迂回をせず、最短ルートで仁へと届く。仁は困ったように笑って、
「どうしてそう思うんだ」
「お前がおれをにらむからだ」
質問に質問で返しても怒らない、三島一八。
それ以前に風間仁の感情について尋ねる、三島一八。
仁の答えを必要としている、三島一八。
どの彼も仁の知らない三島一八で、もしも昔はこうだったのならばと思うとやりきれない思いになる。
「かずやは、……俺が君を嫌いだとしたらどうなんだ」
昨日は気が引けて貴方、などと呼んでしまった。しかしこうも本人とかけ離れているのならば返ってそっちの方がやりづらい。
仁は膝を折って、視線をあわせて尋ねる。
かずやはムッと口を尖らせた。この仕草から可愛げを取り去って、不遜さをつけたしたものならば仁にも見覚えがある。
「おれはお前をきらいじゃないのに」
怒ったように一八は言った。理不尽だと、言葉は知らずとも顔がそう言っている。仁は手を伸ばして一八の頭を撫ぜた。柔らかいのにどうしてか特徴的に跳ねる 髪の毛、自分も良く知ったその手触りがあの男の気配を確実に伝えているのに、違いすぎる。
よく晴れたバルコニーに三島一八は現われない。
平和な休日の午後を三島 一八は楽しまない。
問われて正直に弱みを三島一八は話さない。
「俺は君の事は嫌いじゃないよ」
かずやはほっと顔を明るくした。わかりやすい移り変わりがますます三島一八を遠ざける。形よく張り出した後頭部の丸みを手のひらに包んで仁は微笑む。
「……でも、悪い子にしていたらすごく嫌いになるかもしれない」
笑んだまま、それでも大人にしかできない声の険しさ、強さでもって静かに仁は続けた。一八は驚いたように目を瞠って、それでも何も言わなかった。
「悪い子って、たとえばどんなだ」
尋ねられてそうだな、と仁が口を開いたところで、


「たとえば実の父親を一時の感情に任せて犯したりする事、かな」
秋の風より涼しく、秋の空よりわからない男の声に仁は思わず振り返ろうと後ろを向きかけた一八の両耳を背後から手のひらで塞いだ。犯すとか、そういう言葉 は聞かせたくない、なによりこの秋の青空にふさわしく無い。
いきなり背後から耳をふさがれたかずやはびっくりしたらしく身体を強張らせたが、大人しくしている。許されているのだとわかって仁はなんとなく泣きたく なった。
後ろから脇の下へ腕を回すようにして一八を引き寄せても暴れない。傷や皺のない丸みのある頬、滑らかかな首筋。耳の付け根あたりからは乳臭いにおいがし て、透けるような産毛に包まれた耳が仁のすぐ目の前にある。耳の中は薄い桃色の血色で、毒々しい血の色とは似ても似つかない印象だった。
じりじりと歯が疼いた。
熱い息、後ろ暗い。
「仁、息がかゆい」
「ごめん」
首をすくめたかずやを見下ろして、李はいつものタキシード姿で立っていた。青空の似合わない男がここにも居たと仁は苦い顔をする。この李超狼も見た目は美 しかろうと、いや、美しいからかもしれないがある種の悪魔だった。仁の周りには悪魔ばかりだ。平八だってあれも人の身を超越した悪魔だろうし、なにより自 分自身が一番悪魔なのだ。そして腕の中に居るこの小さな子供も元はあの悪魔でもある。
「いい趣味だ、風間仁。私も一度はやってみたいと思っていた」
細い顎を黒革の手袋に包まれた華奢な指でさすりながら、李が仁へと笑いかけてくる。目をきゅっと細めて、まったく教育に悪い男だった。
「やあ、親愛なる義兄様。いや、まだ会っていないのだろうね、ここまで可愛い時は僕も覚えは無い」
「おにいさま」
「そう、君があと少し大きくなったら、僕は君の弟になるんだよ。李超狼と言う」
李はまるで平然と未来を語った。仁ははらはらして思わず口を挟んだ。
「李さん!」
だが李は気にしていないのか透き通る銀髪の前髪を掻きあげて、
「いいじゃないか。風間仁、それより君はいつこの子を殺すつもりだい?」
「李さん!!」
仁は蒼白になって叫んだ。耳をふさぐ暇も無い。かずやが振り返って仁の顔を覗き込んだ。
「仁?」
切ない声だった。
「殺したりしない」
それだけ言うのがやっとだった。かずやをぎゅっと抱きしめた。言葉では伝えきれないだろうから抱きしめた。形は違えど仁は三島一八と行動によって言葉を伝 えた事ならばある。拳という言葉で。
だが何も拳だけが身体の言葉という訳ではない。それを仁は準から教えられている。
自分がされたい事をしてあげなさい、
そうだ、母さん、だから、

「…俺が育てます!!」
大声で仁は宣言した。
「……へえ、君が。一八を?将来凶悪な」
「育てます!三島の血は…俺が導きます!!」
心からの叫び。仁はかずやを抱きしめている。薄い肩、たやすく折れそうな肋骨、伸びやかな腕、二の腕の柔らかいところ、
美味しそうで、
ああ、歯が疼く。
後ろめたさを打ち消すように仁は首を振る。


「ならん!!」
轟音と共にヘリコプターがバルコニーへと近づいてきた。そしてその轟音すら打ち負かす大声。
鉄下駄の、道着姿、白くはなれどもあの忘れられない髪型の、
「三島、平八…!」
「わぁっははははは!!一八!なんじゃその姿は!情けがないのう!!ワシがもう一度徹底的に再教育して、二度と逆らわんようにしてやるわい!!」
一八ほどではないが、仁の憎しみの矛先でもある男が風に道着をはためかせながらヘリのドアを開け、大声を立てて笑っていた。
「…おやじ……なんか、ちがう?」
平八はあと少し高度を下ろしてこのバルコニーへ飛び移ろうとしているように見える。仁はかずやを荷物のようにしっかと抱き上げ、李を睨みつけた。
「李さん、アンタは…!!」
「お教えしたさ、普通に。お前も一八がこんな風になって困っているだろうから、何か役に立てればと思ってね」
「嘘だ、面白がって…!」
「元はと言えばお前がデビルに願ったんだろう、そういう話だったじゃないか。……一八、早く大きく戻りたまえよ。僕に少年趣味は無い」
李はやや爪先立ち、抱きあげられた一八の顎をそっと取って額に兄弟がするようなキスをした。いやらしさのかけらも無い、清らかな親愛のそれ。
だが次いで仁に向けた顔は悪意に充ち溢れている。見知った悪魔の顔だった。

「行きたまえ、下に彼が待っている」
「彼?」
「私にすれば義理の弟だよ。ラース君が君を守らんと息巻いている」
「ラースが!?」
「さ、行きたまえ」
唯一この場で信用できる男の名前に、仁は身を翻して部屋へと戻った。ずがん、鉄下駄がバルコニーへ着地した派手な音を背に仁は走り出す。



「かずや、お前は……俺が立派な大人にしてあげるから」
「うん?」
「間違っても子供を認知しなかったりその子供に変なもの植え付けたり母親を見殺しにしたり子供を殺して変なもの奪おうとしたり子供を殺して世界をその手に とか言い出さない立派な大人に!」
階段を駆け下りながらでも、仁は舌をかまないのだ、かずやはうんうんと揺さぶられながらそれを聞いていた。



「忌々しい…!!この俺を導くだと?偉そうな……」
一八は意識の壁を思い切り殴りつけた。
あの風間仁が自分を叱りつける姿や、世話を焼く姿。どれも腹が立つ。
だがそれ以上にそんな風間仁にのんきに懐いている自分の姿、頭が煮える程腹が立つ。
こうして意識の檻へ閉じ込められた一八に出来る事はこうして苛立ち、意識の壁を殴るだけ。
殴られた意識が砕け、ぱりんと微かにガラス片のように飛び散って、それには懐かしいスニーカーが映っていた。初めて買ってもらった、あのスニーカーが。
迂闊にも自分の意識に衝撃を与えてしまったために、一八は思い出したくも無い事ばかり思い出すハメになっている。たとえば昔の懐かしい思い出、母の手や、 父が一八を高い高いしている姿など。
不要で、だけども捨てられない思い出、意識がぐるぐると一八の周りを漂って喚いた。
「……可愛い子だ。父親に似て」
意識の壁に李が大写しになった。もちろん李本人ではない、李の姿を借りたデビル仁の細胞である。
「やかましい、誰があんなのと」
一八は唾でも吐こうとしたが、自らの意識の内側なのを思い出して踏みとどまる。
「おやあ?私が言ったのは風間仁の事なんだけどね?あははは、可愛いという意識はあったのか、一八!」
李の顔面目がけて一八は渾身の突きを放つ。
意識がまた砕けて、風間準の笑顔を一八に投げ返す。
「……風間仁め……!!寄生虫の躾ぐらいきちんとしておけ!!」

モクジ
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