どちらにせよ美味しい
李はこの頃の一八が気に食わない。
「まずいな」
一八は仁の作ったカレーの皿を押し返した。全て食べ終えてから戻すあたりが一八らしい。皿を受け取った仁は一度萎れて、しかし眉を吊り上げて言い返す。
「人が作ったものをどうこう言うのは、いけない事だ」
「まずいものをまずいと言って何が悪い」
平然と一八は応じた。仁としても、自分の作った食事の出来栄えには自信が持てないぶん苦い顔をするしかない。一八はまずいと言う割に顔を歪める事もせず、
ただ声の調子だけはあざけるような色があった。
フン、鼻で笑う。一八のこの笑い方、唇の端をやや吊り上げてのこの笑いが仁の癪に障る。仁がまずい飯を作った事がおもしろいだけの笑い。
「じゃあ、食べなければいいだろ」
子供のような自分の言い様が哀しい、こんな事を言ってしまった時点でこの昼食の争いは仁の負けだった。
気に食わない、李は真っ白いシーツの上にごろりと仰向けに寝転がっていた。煙草を吸いたい気分で、胃がむかむかしている。胸を押さえた、らしくもなく騒い
でいる。
先程の一八の様子が頭にこびりついている。
(まずいな)
笑いながら言い放ったあの顔、覚えのある顔だった。昔幼い李に無理やりかぼちゃの煮物を作らせて、和食の勝手がわからず焦がしたのを最後まで食べてから散
々詰ったあの顔だ。こんなものが食えるかとあの時は器まで投げつけて、その上李の頬を殴った。いや、幼かったから打ったという程度。
後でかぼちゃの煮物は一八の好物であると知った。正確に言えば、一八の母が得意としていた料理で、平八が大好物だ他では食えんなどと公言してしまっている
から表面上は好きでないふりを装った料理。
あの顔は、最早李だけのものの筈だった。風間
準にああした顔を見せていたかどうか、李にはわからない。けれど彼女は遠くなった、だからあの顔を見られるのは最早自分しかいない筈だった。
煙草が吸いたい。
一八が寝室に入ってきた。李は身体を起こしもしない、世間様は祝日で、その上昼食だ。このまま主人のベッドで何事だと殴られるか、それとも乱暴に組み敷か
れるか。どちらにせよ酷くされたい気分だった。
だが李の予想は外れ、歯を磨いてきたらしい一八はベッドへ座るとごろりと横になったのだ。李は思わず引き締まった腹筋を使って起き上がる。
犬と主人が同じ寝床で眠るものか、何度も一八は事を終えてから李を蹴落としてきた。それは李が抱く側だろうと、抱かれる側だろうと関係ない。酷く傷つき消
耗した李ですら蹴落としてくる。
なのに二人揃って寝転んでいるこの形は李の知らない形だ、不自然だ。
「上機嫌じゃないか、一八」
わざと逆撫でるように、李は眉を持ち上げて笑いを転がしつつ声を猫の舌のようにざらつかせた。
「そう見えるか」
李は眉を寄せた。美しい眉間には不届きな眉毛一本生えていない、白いそこへ皺が刻まれる。
こんな返答は望まない、やかましいと言ってほしい。
「仁が気に入ったようだね、父親の真似事は愉しいか」
もっと、もっと強い毒を。李は焦りのように寝転ぶ一八を見下ろしながら言葉を続けた。日差しが差し込んで、干した洗濯物が翻っているのがレースのカーテン
へ映る影の動きでわかる。
平和な祝日に胸やけがした。それは一八だって同じはずだと李は思っていたのに、なのに、
「構って欲しいのか、浅ましい奴め」
犬がじゃれついたような顔で一八は笑った。李の胸やけはひどくなる一方。犬の方が獣なぶん、道化よりはましだと身軽に身を翻して一八の上へ馬乗りになって
跨った。ベッドがきしむ。
「お前のその顔が気に食わないんだよ、一八」
「フン、今更何を言っている。俺は貴様の……顔だけは気に入っているぞ」
一八が手を伸ばして、李の白い頬を手の甲で撫ぜた。撫ぜ方も乱暴ではあるが嘘は無い。見下ろした一八の顔は穏やかで、李一人が煮えていく。見下ろしている
せいでいくら肉づきが薄くても重力と年齢に逆らえず、李に気づかれぬうちに頬や顎にかすかなたるみが生じていた。一八はそれを無様だとは思わないで見上げ
ている。
最早歳をとるかどうかもわからない、自然の摂理から外れた一八にとって老いは懐かしいぐらいのもの。
「何が気に食わない」
繰り返し尋ねられる、これも李が知らない、豊かにかすれた落ちつきある声色。
その顔に、李は背中に鳥肌を立てた。一八の愚かさに気づく。これ以上ないほど侮蔑と憐れみを込めて李は毒を吐き出した。
「お前のその愚かさがだよ。哀れだな」
言い終わるか終らないか、その瞬間李の腹に容赦のないひと突きが叩きこまれていた。空気を肺から吐き出しながらベッドの下へ転がり落ちる。追撃が来る、李
は背中から床へ落ちる衝撃をやわらげてから体勢を立て直そうと手をついた。だが、追撃は無かった。
ベッドの上から一八は降り立ち、ドアへと向かって行く。機嫌を損ねた、顔を見たくない、そういう事だろう。だが違うのは、以前なら出て行けと呻く李にそう
言っていただろうこと。
口の端から垂れる唾液を手の甲でぐっと拭い、李は一八の背中へ震える柔らかい声で尋ねた。
「味覚が戻って、結構な事だな」
一瞬一八の背が強張った。秋物の、少し生地の厚くなったシャツ越しでだが李は感じ取った気がする。猫のように李は舌なめずりをした。一八が去って後、再び
ベッドに背から倒れ込む。
笑いが込み上げてくる、吐き気のようにゆっくりと、衝動的ではなく。抑える気があまりない、でも抑えた方がもっと愉しい。
午後の日差しはオレンジ色を次第に混ぜて、カーテンの向こうで輝いている。まだまだ勢いがあるように見えても、もう二時間もすればだいぶ西日の朱色に染ま
りきるだろう。
一度人間の全てを捨てて、代わりに悪魔の力を得た一八。
そして風間準を知って悪魔から離れ、再び人らしい感情を得た。
風間準を失って、一八は悪魔にまた傾く。
「風間仁か」
李は呟いた。煙草が無くても精神は落ち着きを取り戻す。笑いの余韻がまだ、いくらか肩の輪郭を震わせているけれど。
風間仁、あの青年がまた落ちつきを取り戻した一八をかき乱しているのだ。子を失った母親が、別の赤子の泣き声を聞いて乳が張るように。感情を排した遠いと
ころで身体が反応している。
それが李にとってはおかしくてしようがない。
ついこの間手ひどい喪失を味わったばかりだというのに。懲りない。
愚かなのはそれだけではない。
また人間に傾きかけているのすら気づいていないのかもしれない。さっき李が投げかけた一言で気づくかもしれないが。
「ああどうしよう、勃起している」
冷静に李は自らの体の変調を察知した。声も震えた。
今度こそ一八が壊れるかもしれない、それがたとえようもない快感になる。
味覚が戻ってきて、あの穏やかさ。刺々しさが薄まった本当の、人間のような。
偏れば偏るほど、器が逆方向へ傾いた時の衝撃は激しい。
また人間になって、
斬れば血を噴く柔らかい皮膚を持ち、
眠らなければいられない頭の、
食わねば膝をつくか弱い、
たやすく砕ける心を持った、
人間に。
「仁を殺してみようか」
明確な殺意を、李は抱いた。そのうち二人のこの歪な関係は終わるだろう、そして血の赴くままに敵対するだろう。戦いを止められる唯一の存在だった風間準は
もういないのだ。
やがて一八が仁を殺して全てが終わるか、それとも一八が殺されるだろうか。
どちらでも構わない。
それより李は、どうすれば一番面白いか。これが何より重要だった。李を見下ろす白い天井は、いつの間にか朱色を含んだ西日に塗られて静かに神々しい。
「仁を殺してみようか」
李の殺意が更に脹れる。
一八の獲物を横からかっさらうのだ。愉しい、ものすごく。あの風間仁という青年は一八以外には人のいい純朴な青年だ。懐に潜り込んで殺す事もたやすいだろ
う。今なら。
その時一八がどちらに傾いているのか、李には興味があった。
人として、仁の死に傷つくか。
悪魔として、障害物を見失って退屈か。
人間の一八は最後の顔見知りである李に縋りつくか。
悪魔の一八は李をただの物言う家畜のように扱うか。
「たまらない、一八。お前は全く私を飽きさせない」
恍惚とする。
早く滅びが訪れればいい。一八を独占する日を李は想像し、部屋の空気を淫らがましいものへ染めた。
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