吹くからに
俺の元まで降りてきて、導いてくれ。
三島 一八は振り向かない。
けれど、けれど時に。
ある日仁は、出かけようと支度をしている一八が何か探しているような素振りでふっと後ろへ振り向くのを見た。何か落としたのか、たとえば小銭。そうした小
さな音が背後で響いたので何気なく反射的に振り返ったという様子だった。
「何か落としたのか」
生来親切な性質の仁は、ソファにかけたまま憎い相手であるのも忘れて問いかけた。一八は珍しくはたと目を一つ瞠るとそれからいつにもまして厳しい声で、
「貴様には関係無い」
険しい顔をそのままに部屋を出て行った。仁は何だこのやろうと腹を立てたが、一八に対して腹を立てる事を一々数えているのも馬鹿らしい。
その日は早々に忘れてしまった。
風の強いある日のことだった。しかし仁はそれを忘れている。
その時は李が咎めたので仁はまた気づく事が出来た。
「セット中に動くな」
わずかに伸びあがるようにして一八の髪を整えていた李が櫛を妨げられたのだった。仁はちょうど洗面所の前を通りがかった際にこの声を聞きつけて、何も考え
ずに立ち止まって覗きこむ。
一八も李も仁には気づかない様子で、李が一八の襟足の毛へ指を絡ませながら、
「襟足が気になるのか?」
「……いや、」
首をゆるく振って一八は否定する。李がさてはと笑った。
「ははぁん、私に背後を取らせるのが心配か?」
「……いや」
二回も繰り返し一八が同じ答えを返すのは珍しい事だった。それもこんなに含みなく、正直に。だいたいは二度の否定の代わりに、大体拳が飛んでくる。しかし
一八はいや、と答えたきり口を噤んだ。腕組みすらしない。
が、仁が洗面所の入口へ立って中を覗いていたのをさとるや、すぐに眉を険しく張って、
「……貴様か」
舌打ちせんばかりに仁を呼んだ。仁は打たれたように背を正して、言い返す。
「なんだよ」
「別に、ただ貴様が居たから貴様かと言っただけだ」
ええ、仁がひるむ。こんな、子供みたいに!口を開いて呆けてしまう。その顔が一八の気に食わなかったのか、ますます不機嫌そうになって、
「やかましい」
鋭く仁を言葉で打った。
ええ、仁が慌てる。俺なにも言ってないだろ!もともと逆立っている髪の毛だけでなく前髪まで逆立てそうな勢いで仁が憤慨した。李が二人のやり取りを目の前
で喧嘩を始められた花魁のように悩ましい顔つきで、おやおやと嘆かわしいと言わんばかりの声を上げ、
「一八、お前らしくもない。一体どうしたのだい、小娘のようにみっともない」
ええ、仁が仰天する。小娘ェ?一体どういう目をしているのだと李の顔を覗きこむと、いたって真面目にそう思っているのがわかる顔をしていた。ああ、仁は可
哀そうなものをみるようにして李を見て、そっと視線をそらした。
「やかましい」
また一八が同じ返答を投げつける。
「俺は……何も言っていない」
「………貴様じゃない」
ええ、仁が唖然とする。俺にやかましいと言ったろ!最早言うべき言葉もない。仁が口をつぐんだのをいいことに、一八はこの不毛なやり取りを一方的に打ち
切った。
かなり腹が立ったので、仁はこれは忘れないようにしておこうと決める。
「仁、あれはね…」
李が火かき棒を手にするように仁へ囁いた。仁もいい加減腹が立っていたので、彼にしては考えられないほど冷たくそっけなく、
「ええわかってますよ、更年期障害でしょうね」
この日仁は初めて李がうんともすんとも言わずに退かせることに成功した。
これが記憶に残ったために、それからも仁は思い出したように一八を見る事にした。
すると、確かに一八は時折、何も無いのに振り返っている。そして振り返ってしまってからは固い顔をしている事が多い、哀しいのか、怒っているのか、それと
も苦しいのか、どれなのかもわからない。また数回それを目撃して後、仁は一八が振り返った後自分を探している事にも気付いた。
とすれば何か自分に関係がある事のようだが、仁にはわからない。
何度も目撃するうち、はっきりと一八が苛立っているのを見る事が増えた。
月の綺麗な夜だったらとてもロマンティックだが、ただの曇りの夜だった。湿度が高くて雲の向こうの月が濁った夜だった。
李が食事の用意をいつものように魔法のような唐突さで済ませ、仁に一八を呼ぶように言った。まったくその手際といったら、毎度別の皿が出てきたり、今のと
ころメニューに一度として重複が無かったりと恐ろしいほど。
だが味は確かにシェフの味。たまに主婦の味が恋しくなる仁だったが、人に作ってもらったものを残すような事はしていない。一八はまずいと言わない時以外は
終始無言で食事をとる、だがたまにお代りをしているのを見ると仁もああ人間なんだなぁなどと感慨深いものがある。
一八はバルコニーに居るようだった。
最上階のルーフバルコニーは広い、テニスは出来ないがキャッチボールは出来る、そんな広さ。
一八はバルコニーの手すりに手をかけて立っている。煙草を吸っているわけでもないようだった、シャツの裾が湿っぽい風にはためいて夜の暗がりに白く逆らっ
ている。
その広い、今はシャツに隠れているが無数の傷跡が走る痛々しくもたくましい背中は仁を拒んでいた。仁だけではない、誰をも拒んでいるように見えた。
「……」
バルコニーへ一歩出て、仁は声をかけあぐねていた。空気が何か張り詰めていて、この緊張を壊していいものかどうか判断がつかないでいる。
と、わずかに斜めを向いていた一八の顔が仁に見えた。煙草をくわえ、その微々たる明かりが顔を照らしている。デビルと共存する仁にはその明かりでも十分
だった。
一八の口元が歪み、目が伏せられる。いらいらと頭を軽く振った、首を傾げ、右手を上げて自分の耳元へ翳す。
騒音の中で何かを聞きとろうとしているように、そして聞きとりたいその音が聞こえないのに苛立っているように仁には見えた。
とうとう一八が振り向く。一八が聞き取りたいらしい音はどうやら背後から来ているようだった、うんざりとした顔で、面倒くさそうに、忌々しいとでも言いた
げな。
その顔、その動作は仁に見覚えのあるものだった。ぴんときた仁があっと呟いたのと、一八のしかめっ面が更に酷いものになるのとは同時。
「……やはりな」
「え?」
「やはり貴様だったか」
やはり、それは仁の気配をさとったからのようでは無いように見える。一八は笑った。
「それも風間とやらの力か」
「……え?」
風が強く吹いた。生ぬるく湿って、唸るような突風。いつも一方的に一八は仁へ言葉を申し渡す。仁の記憶では返事を求められた事はあまりなかった。
「何を言っているのかわからんな」
何も言っていない。仁が言いたいのを一八もわかったようだったが、威を気配へ更に含ませて仁を脅す。
「……風間、準が」
かざまじゅんが、
その声は仁の聞いた事のない響きをしていた。いや、色をしていたと言うべきか。冬の鉄筋のように冷たく硬い声色が少し芽吹いた、貧弱だけれど早緑の声に仁
がたじろぐ。
早緑の語尾の余韻は一八が望んだように強くうねって吹いてきた風が慌ててかき消していく。
「……」
一八が再び後ろを振り向きかける、が、仁の視線を感じて振り向かないまま終わった。頭を振り払う、その仕草が聞こえてくる音を打ち消そうとしているのだと
仁はようやく理解した。それも、風間準の、仁の母親の声なのだと。
「母さんの声?」
もう一八は普段通りに戻っていて、仁の質問には答えない。一八は仁に答えた事は無い、態度でも、言葉でも、ただ拳だけでしか答えた事がない。
「さあな」
この流れでさあな、と言って道理が通ると思っているのか。仁がやや気色ばむ、一八は仁の様子を建物でも見るようにして眺めていた。つまり興味がない風に。
仁がますます憤る。一八にとって道理は関係無いのを思い出した、なぜなら一八は自分こそが道理の男だった。
話は一方的に一八が打ち切った、さっさと仁の横をすり抜けて部屋へと戻ろうとしている。もともと仁は一八を呼びに来たのだから、目的は達成された。
「……ティミ・ヌーリ」
仁がぽつりと口を開く。一八には決して聞こえてはいけない。
『大丈夫、ティミ・ヌーリになって戻ってくるから』
生まれて初めての葬式は、近所の古老のものだった。家の周りに張り巡らされた、本土から渡ってきた白と黒との鯨幕が恐ろしくて準の喪服の裾を掴んだ幼い仁
に準は優しく微笑んだ。
『あの人すごく哀しそうだよ』
仁は泣いている喪主を見ているうちに自分まで哀しくなってきてしまい、準のスカートをますます強く掴む。手放せなくなっていた。
『大丈夫よ、仁。あの人はティミ・ヌーリになって戻ってくるから』
『ティミ、ヌー……リ?』
ティミ・ヌーリ。
カタカナにすればこんな発音だっただろうか、島独特の美しい響きの音は文字におこされた訳ではない。口伝だった。
誰かが死に、その死を悼んだ者の傍へ風となって降りてくる事。またその風そのものの事を指す。ヌーリ、とは乗るとかそうした意味で、その風に乗って戻る事
で、ティミは囁くという意味がある。
つまり死人が風に乗って戻り、悲しむ誰かの耳元で囁き導くのだ。島には黄泉帰り信仰がまだ根付いていた。
「そんな筈はない」
仁が急いで首を振る。口にした途端に口の中が苦くなる。唾を吐きたいような気分だった。
「そんな筈はない」
自分に甘い言葉を口直しのように続けて呟いて、仁は頭を振った。耳を澄ませかけて、止した。
母は三島一八を憎んでいた。その過去は決定されている、覆されてはならない。猛烈な勢いで頭が回転を始める、仁は額に手をやってよろめいた。頭にエネル
ギーを使い過ぎて足元が揺らいでしまった。
「そうだ」
恨みだ。
「母さんはあいつを恨んでいる」
繰り返す。黒い上に一滴垂らされた白をもう一度塗り潰さなくてはならない。
部屋に戻ると、既に始まっているかと思った食事は驚いたことに始まっていなかった。李が止めたのか、一八が食べ始めなかったのか、そんなことは仁にとって
どうでもいいことだった。
「母さんは、お前を許さない」
いきなり低く濁った声で言い出した仁に、一八が顔を上げた。唇を固く結んだまま一八は何も言わない、ただ、仁の言葉を待っていた。
「もうその声は離れないだろう、ずっと」
一八には準が何を言っているか聞き取れていない。それは一八が都合よく耳を傾けないだけだと仁は断じた。後ろ手に窓を閉める、風はもう入っては来られない
だろう。
「一生」
仁は普段の朴訥とした青年の皮を剥がれ、獰猛な顔つきで一八をぎろりと睨んだ。その視線を受けた一八は一言、
「構わん」
些事だとでも言うように吐き捨てて、何事も無かったように一八は飯を李へ要求した。
仁は胃に大きな黒雲を巣食わせた。
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