お仕事見学

「起きたまえ、仁」
声がかかるなり水をぶっかけられたよりも速く、さっと俺は起きた。さっと起きないといたずらをされてしまうからだ、いたずらと言うけれどそれを通り越した 丸っきり強制猥褻みたいな事をこの李さんは迷わず実行する。
思い出すだけで鳥肌が立つ。俺は男で、しかもなよなよしていない。むしろ鍛えられているほうで李さんよりも上背も筋肉もある、だけど全然構わないみたい だった。俺よりだいぶ若くないあの人ですら李さんのストライクゾーンなんだから、というより本命なんだろうから、あの人が言うようにゲテモノ食いなんだ。 常識知らずの恥知らず、あの人が言うぐらいだから間違いない。
「……何か用ですか」
あの人――三島一八(父親未満)には俺は基本的にため口を利く。あくまで対等で張り合っていなきゃいけないからだ、だけどこの人は俺にとってはただの年長 者で、あの人が万が一認知なんかしたりしたら義理の叔父さんになるのかもしれないけどそれは置いておいて、不本意だけど丁寧語で接するようにしていた。認 知されても俺が認知しないけど。
「いい天気なのにこんな時間まで寝ているとは……ふふ、お寝坊さんめ」
お寝坊さん、
そんな言われ方をされるのはすごく気分が悪い。鳥肌の出番が最近すごく増えた。李さんは甘ったるい言い方で、子供扱い。あの人とは真逆だ、あの人は俺を吐 き捨てるようにして呼ぶ。たまに確かめるようにして呼ぶけど、忌々しいように俺を呼ぶ。
とにかく気分が悪いので、俺はさっさとベッドから立った。立って、上半身が裸だったのを思い出す。李さんの目が隠さずぎらぎらしておまけに舌なめずりまで している、うわ、止めてほしい。
「美味しそうだ」
「止せ」
こっちへ来るな、こっちを見るな。
「食べてしまいたいところだけど、生憎もう私は朝食をすませてしまったんだ。残念」
「……何の用ですか」
この人は俺が聞きたい事にいつも一度では答えてくれない。腹が立つ。俺ができる事と言えば、この人の悪趣味なからかいを無視してもう一度聞く事ぐらい。
「着替えを手伝おう」
「要らない」
「それならすぐに着替えておいで、私が車を用意してくる間に。朝食はすまないが時間がないので車の中で」
「車?」
李さんは前髪をかき上げた。白髪と違って銀髪はきらきら光る。李さんは俺を子供に言い聞かせるような優しい声で、
「社会科見学に行くんだよ、仁」
さとうきび精製工場だった小学二年生の夏。




窓の外の風景はどんどん移り変わって、俺の知らないところへ連れて行くようだった。といっても俺はあまり東京に詳しくない、新宿とか皇居なら少しはわかる けど。李さんは運転席で混み合う東京の街をすいすいと運転していた。てっきり誰か運転手さんでも呼ぶのかと思ってたら違って驚いた。驚いたと言えば結構 荒っぽい運転で、良く言うエレガントとも違う。いや、これがエレガントなのか?
ここまで徹底的だともう溜息しか出ない、李さんの車は上品な紫色のポルシェ、ポルシェって紫色の車はあったか忘れたけどこの人なら塗り替えるぐらいやりか ねない。
俺はと言えば気づけばわりと窮屈な後部座席で運ばれながら、李さんから渡されたおにぎりなんかを頬張ってしまっている。中身はほぐした鮭といりごま、それ から梅とおかか。握り加減は俺にとっては少し硬い。おいしいけど。
どうやら俺はペースに巻き込まれやすい、流されやすいのかもしれない。
「仁は、受けだと思うよ」
「……は?」
「ああすまない、受け身だと言いたかったのさ」
この人たまに、いやいつも意味がわからない。何だろう、視線でセクハラを受けた気分だ。というか俺が考えてる事がどうしてわかるんだろう。あの人は何もわ からないのに。俺が怒り狂っている時に腹が減っているのかとか聞くぐらいなんだから。兄弟でどうしてこうも違うんだ?ああ、義理なんだった。
「それで、社会科見学って…」
「社会科見学、うん、お仕事見学かな?お茶はどうだい」
「いただきます」
この人の用意する料理に外れはない。たまにあの人が食べる前にテーブルをひっくり返すのを見た事があるけど、あれは毒が入ってたりするらしい。俺は普通に 食べてしまっているけど、たぶん俺に毒を入れたりするのは李さんにとってはつまらないだろうから大丈夫だろう。面白いかそうじゃないかが基準なんだと思 う。……たぶん。迷惑な人だ。手渡されたお茶はしっかりと日本茶で黄色がかった緑。いい香りがした。
何にでも薔薇を振りまきそうで、緑茶でもあのクルクル蔓が巻いたようなカップで飲みそうな人だと思ったけど、こういうところでは常識があるんだなあ。もっ と別のところで発揮してほしいけど。
「一八が今日は出勤の日だから、君に見学をさせてあげようと思って」
俺は底に一センチぐらい残っていたカップを放り出すとすぐにドアのロックを解除した。しかし開かない、運転席からロックされているみたいだ。
「こら、時速七十キロの道路へ飛び出すつもりかい」
最初にお茶をこぼした事を咎めるかと思ったけれど、李さんは愉快そうに笑っただけだった。
「降ろせ」
たとえ百二十キロの車が飛び交う高速道路へだって飛び出してやるつもりだった。反射的に逃げようとしてしまった。でもこんなのは不意打ちだ。だまし討ち だ。
「お父さんのお仕事見学は息子にとっても父親にとっても大きなイベントだと思うよ」
「でも」
「君はもっと一八を知った方がいい。実際にね。家にいる一八、人から聞いた一八、三島一八、どれも確かに一八だけれど全てじゃない」
「李さんは…」
「なんだい?」
聞いてみたかった。どうせ答えは一度じゃ帰ってこないけど。バックミラー越しで、しかもサングラスをかけた李さんの目は全く見えない。
「李さんは俺にあの人を許して欲しいんですか」
答えはすぐには返ってこない。やっぱりか、と思いながら座りなおしていると、
「許す……ね。より楽しめそうだと思っただけだよ」
李さんの運転にも声にも、一筋だって乱れはなかった。本当にそうなんだろう。
すごくいい天気で、暑くなりそうだった。真夏日になりそうだねと李さんも言う。




G社の所在地は実は知っていた。実際には行った事はない、ただ資料として所在地とビルの外観写真を手に入れていたので確認していたというぐらい。いつか爆 破してやろうと思ってた、人がいなくなる時間を見計らって。背の高いビルで、鏡のようなガラスが黒光りして太陽を乱反射させている。あたりのビルと比べて も余計な装飾が全くなくて、壁、ガラス、だけ。かえって迫力があった。
「ちょうど朝一番の予定から戻ってくる頃だろう、ほら」
車から降りた李さんが空を示した。つられて顔を上げると真っ青な空をまっすぐ横切って、趣味の悪いどぎつい紫色のヘリが一台俺たちの正面にそびえるビルの 屋上に向かってきている。
「あれが?」
「そうだ。結構ヘリが気に入っているみたいだね」
「気に入って?」
「格好いいからだろうか、それとも……ゴミみたいな人間を見下ろすのが快感なのかも?」
最低だ。
「成金根性」
俺がぼそっと呟くと、李さんは一層愉快そうに笑う。笑っても口元に皺ができない、目じりはどうかと思ったけどサングラスに阻まれた。あ、それでサングラ ス?
「君は結構失礼だね」
「あ、すみません」
反射的に謝ってしまったけど、どうしてわかってしまったんだ?
「ほら、到着前にビルの中に入るよ。君はこれを胸へつけたまえ、入館者証だ」
李さんが俺に下手で何かを投げてよこした。受け止めてそれを言われるままに胸元へ運ぶと、
『なまえ:かざま じん ちちおや:みしま かずや』
そう丸っこい平仮名で書かれた、安っぽい黄色のビニールで出来たチューリップ型の名札。そう、幼稚園児が胸につける名札みたいなもの。俺はそれを地面へ叩 きつけた。ビヂン、花札みたいないい音がした。
「あ、こら。仁」
「こんなもの!」
「駄目だよ、これにはマイクロチップが入っていてね…これを付けていない人間が入るとほら、あそこのゲートが」
あそこのゲート、大げさなぐらいに背の高い入り口の横に、よく本屋などで見かけるような、あれより三倍は頑丈そうなゲートがあった。李さんがサングラスを 取って、投げる。ゲートを通過する寸前にそのサングラスめがけて紅い何かが放たれていた。サングラスが撃ち落とされる。
「うわ」
「ほらね」
振り向けば既に李さんは新しいサングラスをつけている。この人一体どうなってるんだ。それからこのビルもどうなっているんだ。
「こんなの……やり過ぎです」
たとえば都会に最近良く見られるようになったモンシロチョウとか、それから酔っぱらいとか。
「大丈夫だ、ただのペイントだから。危険性がなければペイント弾だけで済む、あそこの監視カメラの画像を見た人が判断するよ」
……ペイント?見ればサングラスは特に融けも蒸発もせずそこに普通に転がっている。レンズには何か赤いインクがついていた。ゲートの横には、『入館者証を 持たない人間が近づくと屈辱的なペイントがされます。苦情は受け付けません』というポスターが。なんなんだこれ。
「大体は侵入者用だからね。そのまま通ると背中に『私は愚か者です』とペイントされる」
「そんな…」
「危険だと思われれば警備員が来るよ、これはただの趣味みたいなもの」
「趣味」
「一八のね。さ、急ぎたまえよ、一八が到着してしまう」
俺のを手招いた李さんがゲートをくぐりかけると赤いペイント弾が発射された。ひらりと李さんは身をかわして、
「ちなみに私がくぐると、『私は卑しい雌豚です』というペイントがされるんだ。特別にね」
いろいろ言いたいことはあったが、俺はとりあえずチューリップ型入館者証のおかげで難を逃れた。




「そういう訳で一八、一日仁を見学させる」
「好きにしろ」
仁は大いに驚いている。何しろ二つ返事だ、不機嫌そうに何か言うかと想像していたのだがそれは裏切られ、専用に用意された部屋の椅子に鷹揚に構えて仁を見 上げていた。
仁は更に驚いている。公共の場だ、神聖なる職場だ、なのに一八はグローブこそしていないものの例のチンピラ配色燕尾服なのだ。会社で?仁はその徹底ぶりに 内心なんともいえない生ぬるい気持ちになっている。
「まだ何かあるのか。仕事の邪魔だから出ていけ、どこでも好きに見て行ってかまわん」
仕事、一八の口から出た世間一般で言えば当たり前の単語に仁は違和感をぬぐいきれない。李は仁の背中を押して出るように促した。
李が一度振り返って、
『グッドラック』
と唇だけで一八へ呟いてみせた。一八は見ないふりで、さっさと行けと手を振る。李は訳知り顔で去って行った。
ありのままの自分を見せる、それは一八にとってはとても難しい。
常にありのままであるとしか答えようがないのだ。もちろん自然とあるいくつかの物事については偽っている、たとえば風間準や母親についてなどがそうだ。だ が本人は正直でいると思っているのだから話が通じない、自分自身すらだましとおしている。
持ちかけてきたのは李だった。
『お前はさぞ立派なんだろうね』
当たり前だと応じれば、獲物を見つけた猟師のような顔で李は更に言う。
『それじゃ、仁に全てを見せても尚自分が勝者だと言える訳だ』
更に当然だと一八は言った。何をくだらない事を言うのだと憤慨したいような気持でいた。
『一八、ねえ、言葉ではなく実際の仕事ぶりで仁を平伏させてみたらどうだい?』
そうしたら、案外平和的に仁の力を掌握できるかもしれないよ?




一八はその提案に乗った。
お父さんのお仕事見学!=お父さんってこんなにスゴイ=
ふざけたその作戦名はよせと一八は眉を吊り上げて怒鳴ったが、李はへらりと笑うだけだった。

八月某日。
お仕事見学は始まったばかりだ。
モクジ
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