俺を一生追い駆けろ
二十年もかけて一八は死の淵より甦った。目覚めてから
完全に体の自由を取り戻すまで一月ほどかかった。
力が復活するまで自分の生存を平八に知られまいと、むしろ望んで一八は室内に篭っていたのだが、体が動くようになるとすぐさまアメリカ支部に居を移すこと
に決めた。
アメリカという地は実は一八にとって縁が薄い。仕事上の取引はあったがわざわざ一八が直接出向くような事態は数少なかったし、むしろ平八の時代から続い
た『頭首詣で』により要人は向こうから出向いてくる事が多かったのだった。
だがそれ以上に平八も縁が薄い。ある一定の年齢を超えた日本人男性はアメリカ、という単語に妙な苦手意識もしくは敵対コンプレックスを抱いている。
傑物、怪物、難物と呼ばれる平八ですらそうで、毛唐などとは付き合えんわい、と人権団体が聞いたら眉を吊り上げそうな事を根拠も無く口にすることがあっ
た。
アメリカコンプレックス。アメリカは強大だ、そして広大だ、そんな意識に支配されて、人探しをするなど砂漠で針を探すようなものだと端から諦めさせてしま
う。それだけの力があった。
一八にもアメリカコンプレックスの名残のようなものが無いわけでもなかったが、やはり世代が違う。平八の目が届かないだろうと踏んでアメリカへ渡る事を決
め、研究員達の反対を退ける。
その頃不快な息苦しさに一八は毎夜奥歯を噛んでいた。早くここから出たいばかりだったが、しかし弱音は奥歯で砕く。
復活を果たした一八がアメリカへ移って最初にしたことは外へ出ることだった。
薬くさい部屋はうんざりだったし、いつでも取り囲む視線は不愉快以外のなにものでもない。いくら高く作ってあるとはいえ、天井に四六時中見下ろされ続ける
のは一八にとって我慢ならないことだった。
反対を押し切り強引に外出した一八は街を歩いていた、表向きは視察ということにしたのだったが彼も木石ではない、ほぼ二十年ぶりに目の当たりにする外、し
かも見慣れぬ海外に忘れていた好奇心を思い出している。
深く吸い込んだ、排気ガス臭い空気にも懐かしさを覚えて一八は久しぶりに笑った。誰かに気づかれぬようにひっそりと。そして外に出られたからには腹ごしら
えだと一八は血管が静かに浮いた首を巡らせて店を探す。脚に任せてダウンタウンへ入り込んでいたが、正面にホットドックの屋台があるのを見つけためらい無
く近づいていく。一八はこの際目に付いたもの全てをほお張りたいような高揚感を感じていた。
食事を自分の金で支払うのも、実は一八にとっては初めてにも等しい事だった。彼は三島頭首という立場にあっていつも接待を受ける側であったし、珍しく接
待をする側だったとしても秘書が支払いをすませるのがならいだった。
だから当たり前のようにホットドックは2ドルだと言われ、すんなりとぴんぴんの折り目のない100ドル札を出してしまう。財布には100ドル以外の札は無
い。
つり銭をぼったくられる事は幸いにしてなかった、サングラス越しでなければとても直視できないようなおっかない鋭い目に見据えられ、長らくダウンタウンで
店を構えていた店主もちょろまかす事がはばかられたのだった。小銭も大銭もかき集めるようにして釣りを渡す。釣り紙幣が皺くちゃだったり、小銭がひどく汚
れているようなのには頓着していないように店主には見えた。
店主は思った、どうしてこんな人間がこんな場所にいるんだろう。身なりからしても、目立たぬようにただのシャツとパンツだけにとどめてはあるが、それが
仕立てのいいものだということはわかった。なにより垢じみていない、こんなダウンタウンにいるものは、いや、普通に暮らしていればどこかに汚れのような、
生活くささがにじむものであるのに、目の前で早速ホットドックの包み紙を開ける男にはそれが見えない。
いつでも自分を殺せそうなすさまじい存在感、威圧感、なのに現実感は希薄なのだ。不思議な男だった。男は普通の人間がするように口をあけてむしゃむしゃと
ホットドックを食べている。
後ろ髪を強く逆立てた印象深い髪型の、サングラスで和らげているものの、それでも顔つきの厳しい男。
普通ではない、それぐらいはすぐにわかる。だがやくざものとは違う。店主は一生に一度あるかないかの好奇心に声をかけてみた、
「旦那、どっから来なすった」
店主は英語で話しかけていた。男は質問を受けてから、なおあくまでも自分の食欲を優先させ、二口目をがぶりとほおばって飲み込んでから、
「地獄からだ」
「え?」
「うまかったぞ」
唇を硬い親指で拭って、一八はにやりと笑った。返答の前半は日本語で、後半は英語だった。店主は戸惑い、それきり口をつぐむ。
この時一八は天井の無い開放感にとても上機嫌で、わずかではあるが浮かれていた。今まで自分の生存を隠していたのが馬鹿らしいと思えるほどに。
アメリカの空は日本で見た空となんら違いは無いはずなのに、高いように思われた。一八が火口に放り込まれた際最後に見たのも空だった。
今は七月。今日も青く、古びて朽ちる寸前のように見えるビルの隙間から空は一八を見下ろしている。
さすがの一八も空に見下ろされるのに文句は無い。
開放感に軽くなったのは心だけではなかった。財布の中身もどんどん減っていく。なにせ二十年ぶりだ、不思議なもの面白そうなもの見栄えのよいものがダウン
タウンを抜けた先のショッピング街にはあふれている。
一八は歩きながら自分の趣味に合いそうな店を見つけるたびに中へ遠慮なしに入っていき、ずけずけと買い物をすませる。
女のようにあれこれ考えるのではなく、ずばりそれだと要求した。どんなにお高い店だったとしてもそれは変わらない、気取った店員が店を間違えてやしません
かと迂闊に近づけばひと睨みで退けた。
一八は英語がしゃべれないわけではない。発音はあいまいなところがあるものの確かな英語力があった。だが、最初たかが東洋人と侮り、意地悪く英語で仰々し
く話しかけきた店員を除いて皆日本語で対応してくれる。それは一八の雰囲気や物腰がそうさせるもので、うかつに英語で話しかけてきた店員は失せろと英語で
言われ、とても怖い思いをすることになった。
値段を値切りはしなかった、一八には値切る理由がない。
支払いの際、店員は一八の渡した金を数えながら冷や汗混じりに述べた。なにせ大金だ、数えるのに時間がかかるのはやむないことなのに、一八は既に腕を組ん
で気短に眉間にしわを寄せている。
「カードでお支払いになれば、こんなお手数もないでしょうに」
一流店の店員らしく、彼は日本語でそう言った。一八はぴくりと特徴的に力強い眉を片方だけ持ち上げて聞き返す。
「なんだと?」
「……で、ですから、クレジットカードをお使いになれば簡単に買い物ができますと」
「だから、それは何だ」
ほんの一瞬だが店員の顔に小ばかにしたような顔が浮かんだ、どれだけ金をもっていようがやはり黄色い日本人だ、クレジットカードも知らないのか。
その瞬間、一八は組んでいた腕を解いた。解いたように見えたのは一瞬で次の瞬きの時には店員は店内の品物をなぎ倒し、自分が掃除したことも無いぴかぴかの
床へ這いつくばって鼻血を垂らすことになっていた
一八はただ、猫ののど元をくすぐるように店員の顎を弾いただけ。それもできうる限りやさしく。
一八は振り返りもせず、店を後にした。
今日の一八を見下ろしていいのは、今のところ空のみのようだった。
七月の午後はやはり暑い、けれど日本のように湿度がなくドライヤーの熱風を浴びているようなもので不快さは少ない。
しかしとうとう、一八の背後でどさりと人の倒れるような音がした。気の無いそぶりで一八は振り返る。そこには色とりどりの大荷物を抱えた男が倒れ、品物が
地面に散乱していた。
「どうした」
倒れた男に優しくも一八はたずねてやった。彼は一番はじめに一八が買い物をした店の店員だ。買った物を運んでくれていたのだが、一八が別の店で何か買うた
びに荷物を押し付けられていたという事には気づいていない。
気づかないというより、気にかけていない。更に言えば別に荷物持ちを一八自らが頼んだわけではない、あまりに堂々と一八が店を手ぶらで出てしまい、店が呼
び止め損ねてしまったのだ。
健気にも一八の後ろをついてきていた男は今や目を回して虫の息、仰向けに倒れてしまっていた。当分目を覚ましそうにない、仮に目を覚ましたとしても荷物を
運べるかどうか。その散らばった品物を掠め取ってやろうと危ない人種が目を光らせているが、どうやら持ち主らしい男、つまり一八の威容に尻込みしている。
「ふん」
どうしたものか、一八は腕を組んだ。自分で持ってもいい、むしろそれが一番安全なのだがそれをするつもりはさらさら無いようだった。
「腹が減ったな」
腕を組んでしばらく考えた後に、一八が呟いたのは暢気な一言だった。
研究所で食べる食事はどうにも味気が無い。どんな成分が悪影響を及ぼすかわからないからと、まるでエサのような物を一八は食べさせられていた。外出の歳に
も食べ物は口にしないようにと研究員達は口を酸っぱくして一八へ言ったものだったが、そんな言いつけを守るつもりなどさらさら無かった。
道の真ん中で品物をぶちまけて倒れている男、それをたいした感慨も無さそうに見下ろしている堂々たる東洋人。その光景は人目をひいたが、その視線がふい
に外れた。
視線は一八達から外れ、別の対象にまとめて突き刺さる。
その男はよたよたとその道を歩いてきた。肩にかかりそうな金髪を生ゴムで束ね、汚い首筋に伸び放題の髭、埃と垢に塗れて黒ずんだ顔をした四十頃の男だっ
た。この暑いのにバイカーが着るような真っ黒い革のツナギを着込み、サンドバッグのような埃まみれのバッグを肩から下げている。男はげっそりと頬を痩せ削
らせ、伸び放題の無精ひげに囲まれた口を物ほしそうにもぐもぐさせながら、空腹を沈めようというのか老婆のように前かがみになりながら歩いている。今は汗
になる水分もないのか汗をかいていないが、ツナギにしみこんだ汗がすさまじいにおいを放っていた。だいぶ離れているにもかかわらず女が背を向けてむせてい
る。
誰もが眉をひそめ、さげすみに満ちたまなざしでその乞食男を見下げ果てる。
乞食。しかし乞食というには男の体格は良すぎる、格闘家のように太く逞しい肩や、ふくらはぎの見事さは乞食のやせ細りとは無縁のものだった。一八もまた一
般男性と比べればはるかに鍛えられていたが男はそれ以上に立派な体躯をしている。
そして奇妙にたくましい乞食男は底の減ったブーツをぢゃりぢゃりと摺り鳴らしながら、一八と店員のいる方へ歩いてきた。
とうとう、一八の荷物持ちが落とした荷物の箱を乞食男が一つ蹴飛ばした。箱が歪み、音を立てて転がる。緊迫していた雰囲気が決裂して、大勢の好奇に満ちた
視線が一八へ向かった。
乞食男も皆から少し遅れ、のろのろと太い首を持ち上げて顔を上げた。一八を見る。
想像もつかないような空腹のためか焦点の合っていない、うつろな青い目が瞬きをした。その目が大きく見開かれる。輝きを増した。その場に居合わせた者達は
誰もが一八がその乞食男を苛め抜く事を内心期待して、意地の悪い喜びを覚えていた。
一八も乞食男を見た。視線を上げた乞食男も一八を見た。二人の目線がかち合う、乞食男は腰を曲げていたので一八を若干見上げるような格好になる。一八の背
後には太陽が差し掛かっており、乞食男は逆光に目を細めた。
「…………カズヤ」
乞食男がいきなり口を開いた。空気漏れのようなかすれ声で、飛び出してきたのは予想されていた謝罪の言葉ではない。乾ききって黄色く皮がべろべろ剥けた、
色の悪い唇がわなないている。
「カズヤ」
はっきりと乞食男は言った、言ったのではなく呼んだ。
「…………貴様か」
この時ただの群集ですら見て取れるほど、呼ばれた一八の声には驚きと戸惑いがあふれていた。灯ったばかりの喜びは誰にも気づかれる事なく熱を持つ。険し
く張っていた眉が戸惑いがちにほどけ、荒山のように取り付く島も無く結ばれていた唇が開く。
「カズヤ!カズヤだな!…………うおおおおッここで会ったが百年目だ!オレと戦え!」
突如乞食男は背筋をただし、一八の名前を烈しく呼びつけるなりのけぞるようにして吼えた。その声たるや薄い窓ガラスがびりびり震え、誰もが耳をふさぐよう
な大音量だった。いまどき日本人でも知らないような時代錯誤な勝負言葉を口にして、革のツナギの上半身を諸肌に脱いだ。
ツナギの中には薄汚れてまだらに黄ばんだ白いシャツを着ていた、ぺらぺらのそれは男の見事な筋肉に沿って貼り付いている。首から肩にかけての太い張り、胸
の厚み、腕の確かな肉付きは群集を圧倒した。ただの風かそれとも男の気迫にか、ほつれたはちみつ色の髪が頭皮からぐっと持ち上がらんばかりに揺らめいてい
た。今の今まで、みすぼらしさに笑われていた男がまるで別人のように漲り猛り、あかがね色の覇気を放っている。
乞食男はその場の誰もがわかるほど歓喜に満ちていた。それも単純で原始的な、複雑ではない喜びに目を青く輝かした。
カズヤと呼ばれた男、三島一八は静かに腕組みを解いた、
「………フン」
彼もまた生き生きと頬ににやりとした笑みを浮かべている。ただならぬ気配に群集は置いてきぼりにされながらも、群集らしくただ自分達は傍観すればいいのだ
と思い出す。
どうやら彼らは驚いたことに知り合いで、理由はわからないがこれから白熱の殴りあいをするのだ。それだけわかれば彼ら群集はただ観客に姿を変えるのみ。
「………来い」
一八は手招く。乞食男はうなりをあげて突っ込んでいった。
勝負はあっけなくついた。勝負と呼べるものではない、気合の漲る声を張り上げながら突っ込んできた乞食男は腹に一発受け、それから顎に目視できないような
速さで一八の拳が叩き込まれ吹っ飛んだ。
体格でいえば乞食男のほうが勝る、体重も十キロ以上は違うだろう、だが一八の拳は人の浮かせ方捉え方を的確に心得ていた。乞食男は全身を揺さぶられるよう
な一発を腹に受けて浮き上がり、直後顎に一発喰らうと荷物を巻き込みながらすっ飛んでいく。
観客はワッと沸き、偶然居合わせた面白い見世物へ賞賛の拍手を送った後散り散りに散って行った。転がった乞食男にまでその拍手は浴びせられた。
いけすかない店員の顎を弾いた時と違い、今度は一八は立ち去りはしなかった。むしろ肉の薄い切れ長のまぶたを伏せて、倒れた乞食男を見下ろしている。見
下しているのではない、ただ見下ろしていた。
そして待った。
「腹減った…」
目覚めた乞食男はまずそれを口にした。もちろん見下ろしている一八をしっかり期待に満ちたまなざしで見上げながらの事。きらきらと陽光に輝いているのは金
色の睫毛だけではない。
一八はフンと軽く鼻を鳴らすと顎をしゃくって、
「……さっさと荷物を持て」
ヘッヘヘ、乞食男は分厚く丈夫そうな、少し黄色がかった歯を見せて笑うと飛び起きた。体躯の割に身軽で素早い動きに、一八はまたも鼻を鳴らした。
今や一八の荷物持ちになった乞食男は、名をポール・フェニックスという。格闘家である。だいぶ昔に一八に敗れて後、生涯のライバルを自称している。
「臭い、寄るな。離れて歩け」
眉をひそめて一八は命じた。ポールは不思議そうに首を傾げた、身長による高低差はあるもののポールはちゃっかり一八と肩を並べている。離れて歩くそぶりも
見せない。
「そうかぁ?そんな臭うか?」
「ドブネズミのほうがマシな臭いだ」
嫌味をこめて一八は手をひらひらと振った。
「お前ドブネズミの臭い嗅いだ事あんのかよ」
「………」
別段得意げでもなくポールは歯を見せて一八に笑いかけた。昔は整髪量をガッチリ使って固めていたはちみつ色の金髪が、額に頬に無造作にほつれてかかってい
る。一八はその問いには答えずに、ポールの先ほどのふがいなさをなじった、
「無様だな、二十年間何をしていた」
「お前は?」
「……質問に質問を、」
「オレぁ色々、貧乏したり修行したりしてたけどよ、お前は?」
質問を質問で返すな、そう用意していた答えはあっけらかんと打ち砕かれる。ポールは一八が行方不明になった事は知っていても、火口に突き落とされたのは知
らなかったようで真っ直ぐに質問をぶつけていく。
「火口に落とされた」
ここで火口に落とされたことを恥じるほど、一八は小物ではない。腹立たしい事には変わりないが、それでも自らの弱さを認められない狭量な男ではなかった。
「へー、そりゃすげーや。顔の傷それか」
ポールが顔を近づけて、一八の顔を覗き込んだ。青いまなざしが揺るぐ、しかしそれは単なる興味で同情ではない事は見てわかるほど明らかだった。
「……そうだ」
傷は顔だけではない、胸に腹に背に数多くある。一八は火口に落とされた時についた傷を数えた事はない、恨みを込めて胸の傷を女々しく毎日睨んだのはもう何
十年も昔の事だ。
「一八、オレバーガー食いてえ。あそこうまいんだぜ、いっぺんしか入った事ねーけど」
そう言ってポールは器用に荷物を片手で支えながら、空いた片手で正面右手を指差した。太陽の眩しさにに完敗しているものの、マクドナルドの看板は見て取れ
る。
「貴様な、俺がハンバーガーごときで揺らぐような」
「じゃあテリヤキにしていいって事か?」
イエー、ポールは底抜けに明るい声ではしゃいだ、荷物が一つ転がり落ちそうになる。一八はサングラスを外すと低い低い声で、
「………とっとと付いて来い」
先ほど通った際に見かけたホテルへと歩き出した。ホテルにはたいがい立派なレストランが併設されている、金があって確かなものを食べたいならばホテルへ行
くべきだと昔一八は李から聞いている。
だが、ホテルへ行く前にやらねばならない事があった。この身なりではたとえ一八がついていたとしても入れてもらえそうにもない。一八は仕方なくポールに
シャワーを浴びさせ、服を買い与える事にした。面倒な拾い物をしたと我ながら思わないでもなかったが、一八は黙ってシャワーを浴びられるところを探す。
荷物をいつまでも持たせてはおけないので、一八は金を払って店へと預けた。
「ふー、さっぱりしたぜ。久しぶりの風呂はいいもんだ」
「何日入ってなかったんだ」
「忘れた、なあ、腹減った、バーガー行こうぜ」
「……貴様な」
シャワーを使ってこざっぱりとしたポールはそれだけで生き返ったように息をついた。垢がきっちり落とされて、日焼けした彫りの深い顔は精悍そうで結構『見
られる』男前になっている。
仕上がりに満足というよりも通過儀礼を済ませたといったところでせかせかと外へ出ると、行き当たった最も近い服屋へ入る。入るなり一八はわざわざ大きな声
で、
「一番安い服はどれだ」
そう店員に告げた。あまりに一八の態度が堂々としているので、店員はびくびくしながら安い値段の服をかき集めるとかしこまって差し出す。
「こ、こちらのものがお手ごろです!」
一八はじろりとその服を睨むと面倒くささを隠しもしない態度で、
「それとそれでいい」
ろくに形も見ずに指をさした。
ただのグレーのパンツに、無地の白いシャツ。仕立てはしっかりとしているものの、さしたる値段ではない。一般人であっても気軽に立ち入れる店で、その証拠
に野次馬が遠巻きに一八とポールの様子を見守っている。
だがポールが値札を見ればすぐに、その服を買う金をかわりに寄越せと言うだろう。
「試着されますか」
「いらん……いや、着替えをさせろ」
「か、かしこまりました。お客様、こちらへどうぞ」
一流店でもないのだからそれなりの接客しか普段はしていない店員は有無を言わせない一八の迫力に圧されて今や急にあらたまり、コンパスのようにじゃきじゃ
きと硬い歩き方でポールを伴い試着室を案内していった。
着替えを済ませたポールはさっそく首がきつい、暑いと言って襟元のボタンを開け、袖を乱暴に捲り上げる。
裾上げはいりませんでしたと余計な報告を店員がしたものだから、一八はますます不機嫌になるのだった。
「そういや、こんな高いトコで飯食ったのは初めてだな」
「…フン」
ポールは猛然と食べた、給仕がとうとう苦笑を通り越して素直な賞賛を寄せるほどに。
ポールは爆裂に食べた、金持ちらしい家族の子供が思わず指を差して『サイヤジン!』と叫ぶほどに。
食後のコーヒーを口にしながら一八は呆れを隠しもせず、
「よく食べたな」
呆れはあれども嫌味ではなかった。一八もポールほどではないにせよ指折りの高級ホテルの最上階ラウンジにあるレストランの雰囲気に萎縮することなどなく、
淡々と出されたコースと単品で注文したものを全て平らげている。
なおポールは注文時にこいつの分は全て二人前で持ってきてくれと一八が給仕の度肝を抜く注文をし、実際出されたものを完食どころか追加までした。
またその食べ方が迫力あふれるもので、マナーもなにも構わず音を盛大に立ててまさに『貪る』といった風情。さすがの一八も口を開けて出遅れてしまう。
全て食べ終えると空腹を満たしに満たした腹をさすりながら、ポールが欠伸交じりに、
「毎日鍛えてた甲斐があったぜ」
「その割りには弱かったな」
冷えた一八の言葉にグッと喉を鳴らすも、すぐに自分の腹を叩く。
「今は腹いっぱい、もう大丈夫だ。明日もう一回やろうぜ、オレの本気を見せてやるさ」
「……あいにく俺は忙しい、貴様と違ってな」
「なあ、お前なんで飯食わせてくれたんだよ」
いつかは来るだろう問いかけに、一八は答えをきちんと用意していた。いくら単純なポールとはいえ、二十年ぶりに会った自称ライバルを風呂に入らせたり服を
与えたり飯を食べさせたりするほどの何かがないだろうといぶかしむのは予想していた。
「あまりに無様で、見るに耐えん」
「ふーん」
予想していた以上にポールは単純であっさりと頷く。少々拍子抜けしたせいもあり、一八の好むところではない雑談を始める。
「貴様なんぞと会うとは思わなかった」
「オレも、ラッキーだったな。飯も食えたし」
「ふん」
「二十年ぶりの再会じゃねぇか」
「そんなになるか」
もちろん忘れていたわけではなかろうが、一八は気のない返事をポールへよこす。
「ああさすがに長いな、お前を追っかけてたらこんなになっちまった、仕事もしてねぇ」
まるで一八のせいだと言わんばかりのポールに、思わず語尾を食う勢いで一八は反論した。
「それは貴様が悪いんだろうが」
「会いたかったぜ」
「そうか」
「そらそうよ、夢に見るほどお前と再戦したかった」
「………そうか」
ぴんと這っていた眉尻をかすかに下げると、一八は会計を給仕に言いつけた。
深い赤の絨毯が敷き詰められたエレベータホールにエレベータは三基あり、そのうち二基は地階すれすれを這っていた。当然気短な一八は残った一基を呼び出
す。ほどなくしてエレベータが到着して乗り込んだ。と、ボーイが遠くから、
「お客様!そちらは…!」
どこか慌てた風に呼び止めかかったが、一八は迷わずエレベータのドアを閉めた。ホテルの側面に取り付けられたエレベータはガラス張りで、またたき輝くすば
らしい夜景が望める。
日本と違い、花火のかけらのように色とりどりの輝き一つ一つが生きているようにエレベータが下降するに従い重なって見えたり分かれて見えたりと表情を変え
ていく。
見下ろしていた夜景にゆるゆる溶け込むようにして、エレベータはゆっくり降りていく。ゆっくり、ゆっくり、
「………チッ」
「おー…キレイだな」
ポールはもちろんの事、一八も気づかなかったのだが三基のうち一基を恋人達が夜景を楽しめるように速度を落とした運行にしてあった。そこへまんまと二人は
乗り込んでしまったということで、ボーイも止める間がなかった。一八は舌打ちを一つしてポールを睨む。ポールに罪は無かった、さすがの一八も自ら進んで乗
り込んだものに対して文句がつけようもない。
ポールは素直に夜景を綺麗だと喜んだが、男二人、それも中年二人で乗り合わせたロマンティックエレベータは居心地のいいものではないだろう。あまり雰囲気
などに頓着するほうでない一八ですら、今日一日で不本意顔をしながらも山ほど積み上げたらしくなさの上へ、今日最大の最大のらしくなさを口にした。
「……二十年か」
自分で口にしておいて、呟いた言葉に苦虫をぐいぐい噛み潰す。一八にとって過去は過ぎ去ったただの昔に過ぎない、過去を悔やんだり思いに耽ったりするのは
年寄り趣味だと思っていた。
「な、二十年ったらガキが一人前になるんだな。オレにはいねーがな」
ガハハ、と自分の恋愛遍歴を笑ってポールは腰に手を当てた。ガキ、それは一八が今気にかけている事柄のうちの一つでもある。しかしポールに明かすつもりは
毛頭なかった。
「お前と飯食ったのって、夢か?」
「貴様な、あれだけ食っておいて何を言ってやがる」
思わず口調を昔のように荒げ、肉眼で確認できるほど浮かんでいた口元の微笑をたちまちかき消して引き結ぶと一八は喉をのけぞらせて睨み上げる。ポールは何
か適当な言葉が出てこないようで首をひねりひねり、
「いや、二十年だってお前が言ったろ?今。そんで二十年ぶりに会って、うん、えーと、……飯とか食わせてくれたろ、なんでだ?」
「さっきも言ったろうが、見るに耐えんからだ。まさか二十年経っても全く進歩が無いとは思わなかったがな」
一八は腕を組んだ。
この時ポールは一つ、一八の孤独に触れた。もちろん触れただけで理解には至っていない。それは一八にとってまったく幸いなことだった。
だが一八の孤独に正体もわからぬまま触れたポールに何かが生じる。
「それってお前に得だったか?」
「貴様何が言いたい、得なわけあるか」
ポールのうちにまず一つ生じたものは、喜びだった。自分が探していた一八がポールに何かをした、それはポール自身上手くは説明できないが嬉しいと思ったの
だ。
一八は誰もが知っている通り、どんなに有益なことだろうが自分の趣味に合わないこと、したくない事は決してしない男だ。そんな男がポールに飯を奢ったの
は、したいからという理由に他ならない。
それがなぜだか嬉しい自分に、ポールはさらにがっしりした首をひねる。どうして俺は嬉しいんだろうかと、普段使わないところを使いすぎて脳が筋肉痛になる
のなら翌朝が大変な事になるぐらいに考えた。
考えに考えた末、ポールは尋ねた。わからないことは尋ねるようにしている。
「……なあ、もしかしてオレってお前の事好きなのか?」
一八は底抜けに冷え切った眼差しでポールをちらりと見遣った。その冷たい目にはポールも覚えがある、懐かしい初対面の日のものだ。ポールを値踏みするよ
うな、新しい玩具を見るような、かすかに踊ったような目。
すっと一八の手が伸びた、殴られるとはポールはさっぱり思っていない。殴るぐらいならもっと前にやられている、さっきのように。そして思った通りに一八の
手はポールの後頭部へ回るなり金色の髪を乱暴に掴み、そのまま前下方へ引き寄せた。
目の前には笑っているのか怒っているのかまるでポールにはわからない一八の顔があって、それはどんどん迫っている。迫って迫って、しまいには接触した。
接触部は唇と唇だった。
さらりと冷えた一八の目は閉じられないままで、ポールも目を閉じない。二人目をかち合わせたまま不思議に唇を合わせ、さらに一八は舌をもぐりこませてく
る。
ポールがくぐもった声を漏らした。それは悲鳴ではなく、おお、とか、へえ、といった素朴な感嘆のもので、舌がぎゅうぎゅう引っこ抜かれるほど絡め取られた
後きつく吸い上げられて背中をぞわぞわさせるまでされるがままになっていた。互いの体に腕を回しもせず、体を寄せもせず、交互に息継ぎを与えもしないキス
は唐突に終わった。
二人の意思の疎通ではなく一八の思惑ひとつによって一方的に始められ、また終わったキスの感触を追いかけてポールは思わずぬるつく唇を舌でぺろりと舐め
た。もちろん味が残っているわけではない、残っているとすれば今の今まで共に食べたものだろう。だが何故かびりっとしびれるような感触をポールは確かめ
た。嫌悪感は一つも無かった、それはポールの倫理観の網の目のゆるさにも問題があるかもしれない。
「どうだ」
尋ねる一八のおもてには何一つの変化もポールには見つけ出せない、だが声には面白がるような響きが確かにあった。ポールは笑う。
「よくわかんねぇからもう一回」
「貴様に付き合っている暇は無い……少しは強くなっておけ」
あの情熱的で、人を歓楽させ尽くしたキスとはまるで大違いの素っ気無さ。エレベータははかっていたかのようにタイミングよく地上へ舞い戻り、見下ろしてい
た星ぼしの中へ埋没した。かろやかなベルが鳴り、ドアがゆるやかに開くなり一八は外へ歩いていく。ポール一人余韻に取り残されて、追いそびれる。エレベー
タのドアが閉まりかける隙間、去っていく一八の背へ怒鳴った。歩き方もまた全てを断ち切るような、颯爽を通り越して切り捨てるような歩き振り。広い背中が
消えていく。
「カズヤ!」
ポールは大声で一八を呼んだ。一八は振り向かない。
このとき『開』のボタンを押してもいいし、手をとっさに挟み込めば弾かれたようにドアは開くだろう。だがポールは一歩出遅れた、ボタンまで頭が回らなかっ
たこともあるが、腰にいわゆる臨戦態勢を抱え込んでしまったせいだ。
「アチチ」
ドアが開いたらきっと一八は居ないだろう、なんとなくポールにはわかっていた。
そうやっていつ言いたい事やりたい事を終えるとお決まりのようにポールの目の前からふっつり消えてしまう男なのをわかっているし、二十年追い続けてたのだ
から別段驚く事でもない。なにしろ一八が次を口にした。
「なに、すぐだ」
ホテルの外ではさっきまで見下ろしていた人工の星が今度はポールを囲んで見下ろしている。
「言いたい事はそれだけか」
山積みになったらしくなさに、一八は腹立たしさを通り越して悟りを開いたようなすっきりとした顔で小言を聞き流している。小言というのは、結局定時連絡
をまったく入れず好きなものを好きなだけ飲み食いして買い物をし、荷物の送り先をきちんと書いてきた一八に対してG社の担当者が述べているものだ。
しかしそんなもの今の一八にとってはただのそよ風、いや、心地よいものでは決して無いから虫の羽音程度にしか感じない。
「しかし、ミスタ・ミシマ」
白人の線の細い化学者然とした男は苦い顔で言った。呼ばれた一八はどっしりと頑丈なつくりの椅子の肘掛についた頬杖から顔を上げ、立ったまま小型犬のよ
うにきゃんきゃんやかましい担当者を見上げた。
見下ろされるのは一八の好みではない。純粋にどうしてこの男は自分に物を言うのに膝をつかないのだろうなどと考えている。だが世界には愚かな人間が多いか
ら、一八は普段から鷹揚に構えるように心がけている。
だが、名前を呼ばれることによって何か変化が生じた。スイッチが入った、カンに触った、不機嫌に傾いた、
「勘違いをするなよ」
「……は」
初老の担当者はまだ気づいていないようだった、自分が誰と会話しているのかを。ゆっくりと一八は椅子から立ち上がる、東洋人にしても上背のある体格の一八
は担当者よりも身長が高い。だが数十センチではありえないような意識の高低差を持って見下した。
「俺は貴様らに実験の機会をくれてやっただけだ。俺を管理しようなどと思うな」
それでもまだ一八は上機嫌なうちだった。この二十年では稀に見る、浮かれた気分はまだ続いている。黙らせた担当者を後にすると一八は用意された部屋の窓か
らテラスへ出た。ホテルほどではないにせよ背の高いビルの上層階に一八の部屋はあった。本日二度目の夜景だが、景色はまったく違って一八にはうつって見え
た。
夜風に当たりながら一八はこの上機嫌を鎮めにかかる、あまり嬉しい事楽しい事が続くのはよくない、過去に甘えるようになってはどうしようもないと言い聞か
せながら。
「……うん?」
嬉しい、たしかに一八は今、嬉しいと思っていた。ポールと出会い、いきなり殴りかかられた上服を買い与え飯を奢ってやった事がどうして嬉しいに繋がると
いうのか。迷惑でこそあれ、喜びに繋がる要素が見出せなかった。どうして自分はこうも上機嫌なのだろう。キスの事ははなから除外されていた、犬に顔を舐め
られたぐらいにしか認識されていない。
だが、カズヤと呼ばれた事は一八にとって大きな喜びを与えていた。一八自身気づいていないのは幸せな事だった。さきほどの担当者のように、多くの人間は一
八=三島としている。むしろ三島の一部が一八であるとの認識のほうが一般的だ。ミシマと呼ばれるたび、一八はかすかな苛立ちに触れている。触れただけで理
解には至っていない、無意識のうちに至らせない、それは一八にとってはまったく幸いなことだった。
自らこそが三島の正当な支配者だと常々主張しながらも、三島しか自分の拠り所が無いという孤独を一八は否定したい。
誰もが一八を三島と呼んで、それは一八自身が望んだ事だとしても、消息を絶って二十年経ってみれば残っていたのは本体である三島だけ。一八が不在でも三
島は滅びはしなかった、平八をはじめとする代替で十分機能を果たしていた。
「カズヤ」
ポールは一八を呼んだ、そして探していた。探していたのはただの一八で、もう数十年も昔に道場で出会ったきりの一八だった。一八は忌ま忌ましげに口を尖ら
せた。
「……人に聞くような事か」
『……なあ、もしかしてオレってお前の事好きなのか?』
文学の似合わない、ひたすら真っ青に青い目。ぼさぼさと手入れのされていない眉の奥で一八に尋ねた青い目。とどめとばかりにらしくなさをまた一つ呟いた。
「………そんなもの、俺も聞きたい」
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