「お前はいい子だな、風間仁。素直で、可愛げがある」

お前に似ずと言外に言って、李はいかにも困ったようにしている仁の横へ腰を下ろした。迷惑なのだろうが、迷惑とは言えない、気遣いのある子供だった。
「どこか行きたいところはないか、私が案内しよう……どこがいい?ディズニーランドでも、風俗でも、どこでも連れて行ってあげよう」
年齢絶賛不詳中の美貌を近づけ、落差はなはだしい誘いを口にしながら李が微笑む。仁はなぜだかかあっと顔を赤らめて背けた。
シミ一つ無い肌や、透けるほど色素の薄い頭髪や睫、わずかに赤い唇は作り物めいているようで、なのに毒気がある。
人の悪意や欲望などに晒され慣れていない仁にとって、この綺麗な叔父上は危険すぎるように思われた。

「いや、俺は……」
「どうした、子供は遠慮などするものじゃない」
目をきらりと輝かせて、李は身を乗り出した。
それと同時に仁の太ももへ李の手のひらが置かれる、それは自然な動きだったが、その手のひらの驚くほどの冷たさと一緒にジーンズの布地越しに染み込んでき た例の毒気に仁は急いで膝を閉じた。クリーム色をした上質の革製ソファはすわり心地がいい、しかしもともと部屋の主が一人で使うためのもので、二人が並ん で座るには窮屈すぎる。隣へ滑り込んできた李はたちまち仁に密着して、仁をたじろがせた。
つれない仁の反応に肩をすくめて李は笑い、にこりと唇の端を吊り上げて、
「……かわいい子だ」
仁は首筋から二の腕にかけてザッと鳥肌を立てて小さく身震いした。仁は訓練も欠かさないし身体も鍛えている、腕に覚えが無いわけでもない。それでも本能的 ななにか、たとえばカエルがヘビに睨まれた時のようななにかを李に感じていた。
声も出せないで顔を青くしている仁をおかしそうに李は眺めている、心なしか先ほどよりも身を乗り出して、今にも仁の顎をその白い鋭い指先でもってつかまえ そうなほど。
動く事もできずただ震えるカエルへ口を開けてみせるヘビ、その一方的な捕食の場へ、
「……朝っぱらからいい加減にしろ、女郎蜘蛛め。童貞食いはよそでやれ」
つかの間の眠りを遮られた獅子が不機嫌に唸りを上げた。獅子は家の主でもある、彼の怒りは真っ当だった。
わずかな睡眠欲に身を任せてソファへ横たわり、レム睡眠を取ろうとしたところを妨げられたその不快感は激しい。
一八は不機嫌にそう言い捨てるとソファへ身体を起こして胡坐をかいた。同じくクリーム色の革製、しかし大きさは仁の座るものの三倍近い大型のソファへ。
一瞬の眠りとはいえまぶたは少しむくんで、そして目付きは火を噴きそうに燃えている。ゆっくりと腕を組む。

「……どう……」
一八が口を閉ざして二人を睨んで、ようやく仁にも発言権が生まれた。まず言いたいのは童貞の部分だ、男としてそこは譲れない。
しかし、内股ぎりぎりにまで入り込んでいた白い指が仁の反応を鈍らせ、今まさに獲物を目の前から掻っ攫われたそのヘビが先に噛み付いた。
「女郎蜘蛛とは酷い言い草だな、それも童貞食いとは」
仁の膝から李が手を外した。一八はフンと鼻を鳴らして喉をそらす。横目で虫を見るように見下げた、これは癖のようで仁は幾度か見ている動作だった。
「事実だろうが」
ヘビの、というには卑猥すぎる舌なめずりをしてみせた。寝起きということもあり、一八の不用意な言葉はたちまち李につかまえられる。
「お前のように?」
うふふふ、女のように細く笑って李は一八ではなく仁を見た。仁が今のやりとりを理解するまでにしばらくかかったようだったが、
「………お前は最低だ」
普段するように、あんたや貴方ではなくお前と呼んだのは仁にとってのせめてもの軽蔑だった。一八は腕組みをしたまま、もう一度鼻を鳴らした。
反論は無い。
「……いやらしい、最低だ」
最低、繰り返した。
「処女か貴様は」
しかし面倒くさそうに吐き捨てた言葉をいとも簡単に叩き返され、仁はますます怒りを覚えた。
「どうなんだ!」
「どう?」
一八の特徴的な眉がひそめられた。不快、という顔ではない、むしろ、不可解という顔をしている。時折こうして仁は一八とのかみ合わなさを感じるのだが、そ の原因が彼の不遜さからきているのか、それとも御曹子という彼の世慣れなさの表れなのか、それはわからないでいた。
「私とお前の性的な事を仁は聞きたいのだよ、一八」
「……ふん、童貞め」
「俺は童貞じゃない」
思わず仁は子供のように言い募った。
そしてすぐ、これじゃムキになってるみたいじゃないかと落ち込む。一八や李と接しているといつもペースを乱されて、子供のような発言を繰り返してしまう。 もちろん一八は共に認めてはいないものの親子だし、李とて外見はどうあれ五十近いのだから当たり前なのだが、仁はそう簡単に認めたくない。


そんな仁の心中知らず、李は細い手首にはまった華奢なつくりの時計をちらりと見て、
「今日の昼だが例のホテルに予約をしてある、行って来るといい」
「あ?」
一八も仁も初耳だった。李はきざな仕草でちっちと指を振って、滑らかに述べた。
「私にも仕事があるのですよ、義兄上。車でホテルまでは私がお送りし、食事が終わったら電話を入れてくれれば代わりの迎えをよこします」
このように丁寧すぎるほど丁寧な物言いは一八の嫌うところで、その通りに一八は、
「俺は行かん。飯ぐらい自分でなんとかする」
再びソファへ寝転がった。仁も首を横へ振る、とても一八と二人で食事をする気にはなれない。
一八の返答に李はいかにも残念そうに眉をひそめ、仁が首を振ったのを見ていなかったのか、
「それじゃ仁、私と行こう。せっかくの予約が勿体無いから」
親指を立てて仁を促した。笑っても目尻に鳥の足跡のような皺のできない叔父上の誘いに、仁は全力で断った。
「いや、俺はいい、俺もいい」
別に仁へ助け舟を出したわけではなかっただろうが、一八が口を挟む。
「李、貴様そんなに暇なら飯を用意していけ」
「用意ぐらいできるんだろう、お・に・い・さ・ま」
今日の一八は李に対してどうも分が悪い。星を弾くような、日本人が最も不得手とするウインクでそう言われてしまうとどうしようもない。
が、やはり一八は自己中心的だった。
「それならそいつを連れて行け」
仁さえ居なければ自分はまた眠れるのだ、そう考えた一八はさっさと言を翻した。その身勝手さに仁は絶句した、李は慣れているのか苦笑すら見せずに仁の肩へ するりと腕を回して、
「私と遊ぼうか、なに、『どれだけ遅くなってもいい』と、一八は言っているのだから……なんなら泊ったっていい」
ふ、
李は仁の耳へ吐息をふきかけた。手のひらと違って、熱く湿っている。鳥肌どころか思考まで凍結されかかる、しかし獣の本能は叫んだ。
「あんたとは行かないっ!」
それがどれだけ子供じみていようと、それを恥じる気にはなれなかった。それは残念、と李はまったく残念がってはいないようで首を傾げ、さっと立ち上がっ た。室内でもきっちり正装している李の姿は高級マンション内であっても話題の的であるが、今やユニコーンの清らかなあのスタイルへ変じている。今の今ま で、李が隣に座っている時までは正装していたはずなのに、腰を上げて仁の前に立つほんの一秒かそこらの間に着替えは済んでいた。
魔法のようだった、銀髪の悪魔ならそれも驚くべきことでもない。
「……一八さん」
「な、なんだ」
思わず一八がたじろいだ。それだけ仁の目が据わっていて、また燃えんばかりの気配に前髪を揺らめかしていたのに気を取られたのだ。
仁の丁寧語がまた迫力をかさ増ししている。
「ご飯に行きましょう、俺と」
休日の午前の陽光が仁の背後に後輪を作り、悪魔をしのぐ何かが光臨した。



李とだけは嫌だ絶対に嫌だ、そんな仁の全身の叫びが異様な気迫をあたえまた、一八を頷かせる。もしかすればただの気まぐれかもしれない、けれど仁は嬉し かった。こうして自分が正直に願い、それを一八が受け入れる事が出来たのが未来を明るくするように思われた。
(そうだ、俺はもっとあの人といろいろ話すべきなんだ、遠慮なんかせずに)
そして一八が頷いた時には李がクロゼットのドアを開けて満足そうに待ち構えている。
「さあ、一八、着替えを手伝おう」
「ああ」
一度頷いたからには一八は往生際の悪い真似はしなかった。取ろうとしていた睡眠をあっさりと捨ててシャツを脱ぎ捨てる。脱ぐまでが一八の仕事で、後は李に 全て任せればいいのだ。
戦地に挑むような思いで顔を洗いながら、仁は突如現れた危機感に顔を上げた。濡れた髪を振り乱しながら、着替えをしているだろう見えない二人へ向かい、
「あの趣味の悪い紫の燕尾服は止めて下さい!!」
遠慮も配慮も無く怒鳴った。先ほど得た教訓を活かした結果がこれだ。




紫色に膨れ上がった殺気が、頭を濡らしている仁の背後に迫っている。