人間を模した玩具を人形と呼ぶ。
それなら、人間を模した悪魔は一体なんだろう。
俺も、彼も。


一八との同居をはじめてからしばらく経つと、仁にも余裕が生まれてきた。
掃除や洗濯に関しては仁以上に一八の性格や生活を知り尽くしている李の協力によって、問題なく執り行われるようになった。
仁も清潔好きな性質なので積極的に洗濯や掃除に参加したため、部屋は清潔にいまのところ保たれている。悪魔と化した仁と一八が一戦交えるまでは、の条件付 でだが。

衣食住のうち、衣と住が正常になった次は、食の問題がある。問題といっても、一八は主に外で食事を済ませ、家では時折李が淹れる紅茶やコーヒーを飲んでい る姿をたまに見せる程度。仁は他人の台所に踏み込むことに躊躇しており、三島高専時代に覚えたラーメンやマクドナルドで済ませ、後は李がたまに差し入れる 食事でつないでいた。
が、それもいつまでも出来る話でもない。第一金がかかる。
有数の資産家である一八と違い、家から持ってきていた貯金を食いつぶすようにして生活していた仁は、財布の残りが五千円であることをきっかけに自炊をする 事を思いつく。炊事は母と暮らしていた時に横で母が支度をするのを見ていた、できない事はなかろうと踏んだ。
「勝手に入るのも悪いからな…許可は取っておくか」
その許可の取り先はどちらだろう、仁は一瞬考え込んだ。人の台所に踏み込むのは、手洗いや風呂よりもはるか深くまで人の本質を暴く事になる。
もともとこのマンションは一八の部屋ではあるが、彼が台所を使ったところを見た事はない。お湯一滴たりとも沸かした様子は見覚えがなかった。
けして多いとは言えない紅茶やコーヒーの際にも李がすべてを行い、それも湯を沸かして持参した紅茶を淹れるだけ。
「李さんに頼むとするか」
「私に何か用か、風間仁」
背後から突然かかった声に仁は本気で驚いた、そして同時に、
(やっぱり)
とも思う。李超狼、仁が三島一八の認知を得たとすれば彼は義理の叔父にあたる。逆に仁も三島一八をただしく父親と認めたわけでもないので、なかなかややこ しい人間関係ではあったが。
ともかくその李超狼はある意味仁が一八よりも苦手とする人物だった。食えない、というよりは食われそうだといつもその発言に冷や汗をかく。
その独特の物言いにいつもそれが真実なのかそれともウソなのか振り回されて、弄ばれる。
真実を語ろうとしない一八よりも、雄弁にまるで真実のような嘘を微笑みとともに与えてくる李のほうがよほど面倒だと仁は思っていた。
そしてその李は仁が最も驚いたり、戸惑ったりするだろうここぞ、というタイミングに現れる。決まって背後から。
わかってはいても驚くし、声も上げてしまう。
「……李さん」
ここが日本で、それもただのマンションの一室であるとはとても思えない正装にして盛装のタキシード姿の李はその年齢を忘れた美貌もあいまって現実味が薄 い。
「私に何か用か、風間仁」
くすぐったいような微笑を返しながら李は繰り返す。
「…あ、その、俺…自炊をしようと思って」
「自炊?」
李の細い眉がひそめられた。思案顔で目を伏せてから、すぐに人形のようにきれいな笑みを見せた。
「それはいい、このキッチンを使うといい…一八は二三度自炊して諦めたようだから」
「諦めた?」
「ああ」
表面的な美しさを信用してはならない、仁は一八と同居してから学んでいる。言葉にいくつもの裏がある。きれいな薔薇には棘がある。
薔薇のような男だと以前に誰かが仁に言った、それは一八自身だった。仁は一八が口にしたその詩的な表現に驚いたがどうやら悪口のようなものらしい。

「低価格で庶民に優しい食料品店がマンションを出てから徒歩五分ほどである」
ご丁寧にも李は説明してくれた、これは何が何でも仁に料理をさせたいらしい。仁はますますうたぐる、そして、庶民に優しいは余計だと内心唸った。
「そうだ、一八にも食べさせてやるといい…親子の絆が深まるかもしれない」
李を無視し、冷蔵庫の中身を確かめようとしていた仁は聞き捨てならない台詞に振り返る、俺はそんな事望んじゃいないとどなろうと口を開いて。
しかしそこに既に李はいなかった。
仁の横をすり抜けなければマンションの部屋からは出られない、だのに李はそこにいなかった。
銀色の頭髪ひとすじすら、そこにいない。
仁を笑うように冷蔵庫がぶんぶんとうなりを上げて振動した。



夏も七時を越えれば夕焼けがわずかのほの明るさを残して群青に沈む。
網戸を開け放ち風を入れながら、母の煮物には程遠いものの、仁は自分がこしらえたひじきの煮物に満足を覚えつつ一人食事を摂っていた。
二度もスーパーマーケットまでの道のりを汗だくになりながら往復しただけの苦労は報われたと思いつつほお張る。李の趣味だろうか食器棚に洋食器しかないの には閉口したものの、鍋も炊飯器もオーブンも主要な調理器具は揃っており、ぴんぴんによく切れる包丁に助けられながら大根の味噌汁とひじき煮、それから シーチキンの炊き込みご飯を見事に作り上げた。
テーブルに一人ついた仁はテレビを眺めながら、出来栄えを自賛する。
(少ししょっぱいか…)
ひじき煮に醤油を少しずつ少しずつ足しては味見をしているうちに舌がなまってしまい、最終的にはずいぶんとしょっぱいものになってしまった。
飯のおかずとしてなら食べられない事も無い、そう自分をごまかしたとたん奥歯がガリッと石を噛んだ。水で戻したまま使ったために、石を取り除き損ねてい た。
また、シーチキンは油をきらなかったためと、研ぐ際に力を入れすぎたために米がくだけてべたついてしまっている。
しかしそれで食欲が無くなる訳ではなく、次回への課題として食べ終え、反射的に手を合わせていた。

セーブルの小鉢におさまった残りのひじき煮、それから鍋に残った味噌汁、小型のボウルによそった炊き込みご飯。それぞれ軽い一人前はある。
残ってしまった、それとも残したそれらを仁は腕組みをして見下ろしていた。

(残して、捨てるのも勿体無い)
結論付けた仁はトレイに食器を載せた。一八が食べるかどうかは考えないようにしながら。

「……捨てるのも勿体無いから」
もう一度呟いて、それでも仁はいつもより風呂を早く上がって、自室に戻らずテレビを見た。
夕立にしては遅すぎる夏の雨が激しく外で降り出して、仁を孤立させる。



深夜、雨に打たれた一八は濡れたのを厭う様子もなく帰宅した。
一度、仁が部屋ではなくソファにいるのを珍しく思ったのか視線がかち合った。仁はタイミングを見計らい、一八が首元からスカーフを抜いたのを見てソファか ら素早く立ち上がる。
仁が無言で差し出したトレイを見るなり、一八が腕をかたく組んだ。それを見るなり仁の鼓動がぎゅっと跳ね上がる。
「少し…いや、けっこうしょっぱいけど」
他に言い方を考えていたはずなのに、仁は言葉が出なかった。自分の口下手に呆れた。
「残して捨てるのも勿体無いし」
そう、勿体無いからだ。仁はようやく調子を取り戻す。一八が怖い顔で仁を睨みつけている真意はわからないが、仁は言葉を足した。
「調味料が全然無かったから、買った。二度もスーパーに行った。他は冷蔵庫に入れてある……どうして塩しかないんだ」
最後のその一言を耳にするなり、一八の顔が険しくなった。怒りというよりは、屈辱、羞恥、土足で踏み入られたような顔つきで一歩踏み出すなり、仁の手にあ るトレイを力任せになぎ払った。
食器が盛大に砕け、ひじき煮が飛び散り、炊き込みご飯のあぶらが床に滑る。
砕かれた仁は呆然と立ち尽くしている、余計な事をするなとか、鼻で笑われるとか、それぐらいは予想していたが何がここまで一八の気に障ったのかわからない でいた。
一八は普段見ないほどに蒼白になり、奥歯を頬の上からわかるほどごりごりと噛み締めた後、犬が唸るような聞き取りづらい声で、
「―――貴様には、味が――」
言いかけ、舌を噛み千切らんばかりに再び歯を食いしばるとすぐさま一八は背を向ける。
一度たりとも仁のほうを見ることなく、逃げるような足早さで一八はマンションを後にした。
その晩一八は帰らなかったし、仁も眠れず、そしてまた雨は止まなかった。




「……わかってたんだろう」
丁寧さ、礼儀正しさを放り出した仁は頬を引きつらせながら李を見下ろして睨む。李はソファにかけたまま足を組み替え、何も知らないような顔をして仁を見上 げている。
「何がだ、風間仁」
李の語尾に噛み付くように仁は声を太く荒げ言を急いた、傷つけられた胸が痛む。傷ついてしまった胸が悔しい、仁は父親によく似た眉を険しく張った。
「こうなる事をだ!」
「………昨夜はよく眠れたか?」
「俺の」
俺の質問に答えろ、仁が全てを言い切る前に李はひとつ瞬きをした。
出来の悪い子にはお菓子をあげないよ、と次の仁の言葉でこの会話を打ち切るかどうかのような意地の悪い笑みを口元に膨らませている。仁を試しているのだ。 わかっていたが、仁は怯む。
良くも悪くも仁は健全で、李はそうではなかった。
「寝ていない」
「しかし調子は悪くないようだな」
「それがどうした」
李は手を組んだ。ピアノでも弾かせれば踊り出しそうな長く節の目立たない白い指。爪は磨かれている。祈りのように組んだ手の向こうから楽しげに仁を笑っ た。

「あれも、あまり眠らない。必要としないそうだ」
「……」
「人間が必要とするようなものは、不要なのだろう」
「………」



さる事柄のため、外出を一八が控えていた時の事だ。
自炊をしてみればどうだと半ば冗談で李がすすめたところ、どうして俺がと怒るかと思いきや、それも暇つぶしに悪くないと一八は頷いて李に食材調達を命じ た。
数日して李は、おにいさま僕にも手料理とやらをふるまってくださいな、そんなからかい文句をひとつふたつ浮かべながら部屋を訪ねると、一八は珍しく部屋で 眠っているようだった。
つまらないと戻りかけたところ、室内から顔を背けたくなるような悪臭が漂って李の鼻を刺す。
首をかしげながら踏み込むと李が買い揃えてやった調味料という調味料が滅茶苦茶にゴミ箱へ叩き込まれており、割れた瓶や混ざった液体に蝿がわんわん涌いて いた。
驚く李がテーブルを見ると、白い皿に目玉焼きがひとつ。二口ほどかじってあった。そこにも蝿が涌いている。
塩の瓶が皿のすぐ側に置いてあり、李は近づいてそれを手に取った。何に対してかはわからないが足音や気配をひそめながら。
ほんの数日前に買ったはずの塩の瓶は底に一センチほど残っているかどうかといったところで、ほとんどが使われてなくなっていた。皿へ視線を移すと見てわか るほど、解けきらない塩が乾いた目玉焼きの表面を覆いつくしている。よくよく目を凝らせば、手荒に塩を振ったのか黒いテーブルに白い結晶が散らばってい た。

李はそのまま部屋を後にし、後日自炊の様子はどうだと電話越しに尋ねたところ、
「悪くはない…が、そろそろ飽きた。カタをつけておけ」
一瞬の間がややあった後、一八はこう答えた。李は電話を置いてからしばらく発作のような笑いが止まらず、その晩はひどく高ぶった。




「お前はまだ人なのだよ、風間仁」
「何を言いたい」
仁にはわからない。が、何か気づきかけている。李は唇が切れそうなほど左右に口角を吊り上げて笑った。
「あれ程には失っていないし、代わりにあれ程には手に入れていない」
眠りを必要としない体。
老いを忘れた体。
病の恐れの無い体。

それらを手に入れる代わりに、失ってはいない。

「それでも人と会い必要とあらば食事を共にし、酒を交わす……問われればヴィネガーがどうのと言うだろう」
李の肩が震えた。笑いが腹の底からこみ上げてくるのを押さえきれない、あの日のように。
「必死に人真似をするあれが、愚かで滑稽で、――」
語尾は吐息にまぎれるような囁きで、誰の耳にも入らない。

何かを悟った仁は途中からただ酷くうろたえたようで、酷く悲しい顔で口を閉ざした。


仁はその日から、毎日自炊を続けている。
ただそれは口福を求めてでも食費を考えてでもなく、ただの訓練と化した。