「ふむ、……風間仁」
いちいちフルネームで呼ばれるとカチンと来る。特にこの人は何か悪意がありそうな気がしてなおさらだ。
あいつ、三島一八は俺を風間準の子だとは認識してる、というか風間準の子としてか認識していないからか俺を必ず風間仁と呼ぶ。単に仁と呼ぶことは将来来る んだろうか。親子みたいに。そしてその時が来たら俺は普通に返事が出来るんだろうか。しなきゃいけないんだろうか。
「はい」
そして俺は李さんに丁寧語で話してしまう。
年上の人は目上の人だから、礼儀はつくさないといけない。たとえ見た目がものすごく若くても、この人はあいつと一つしか違わないと言う事は四十八歳なん だ。四十八歳といえばいい大人もいい大人で、たとえば子供がいたら大学生か社会人ぐらいの立派な歳だ。
見えないけれど。
「風間仁、おまえは父親というものを知らないだろう」
「はい、まあ」
知らないというのが正しい。血は確かにあいつと俺が繋がっているとうるさいぐらいに言うけれど、知らない。俺は母さんしか知らない。


「………李、」
そして俺と李さんが話しているテーブルに、普通にあいつもついているのだった。それなのにこんな話題を切り出す李さんの面の皮の厚さときたらたいしたもの だと思う。あいつは李さんの淹れたコーヒーをのうのうと飲みながらスポーツ新聞なんか読んでいる。李さんが用意した文句無く美味しいスコーンや綺麗な ティーセットが作り出す英国風な雰囲気をぶち壊しにするような無粋さだ。財閥頭首をやったり、会社の幹部になったりするのだからこういうのは英字新聞とか 経済紙を読んだりするのが普通じゃないのか。さほど面白くもなさそうにスポーツ新聞の、それこそ風俗レポや人妻不倫体験みたいないやらしい記事まで全部読 む。不潔だ、いやらしい、人前でこんな記事を読むなんて最低だ。尊敬できない大人だ。

そんな最低な三島一八は(別に負けじと呼んでいるわけじゃない)俺をチラッと見てから、李さんを低い声で咎めた。
なんだ、父親らしい事をしていない後ろめたさがあるのか。偉そうに咎めたりして。
後悔もしてるのか、母さんを死なせて、俺をずっとずっと放っておいて。
それなら、それなら、
「カップが空いている」
「ああ」

やっぱり最低だ。李さんは何かおかしそうに笑って、

「そうだ、風間仁。私の子供になるか」
「下らん事を言うな」
「あぁ!?」

俺はいろいろと驚いてしまった。まず、李さんが俺に子供になれといった事。とんでもなく突拍子が無くって裏で何を考えてるかわかったもんじゃない、危ない 提案。危ない人だ、いきなりこんな事言い出したりするのも怪しい。何があるんだろう。
そして、三島一八がいきなり口を出した事に驚いた。ついさっき知らない顔をしてた三島一八がどうして俺が李さんの子供になるならないで口を出す?
それはやっぱりそうなんだろうか。少しは思ってるんだろうか。俺をじゃなくて、母さんをでも、もしかしたらそうなのか?本当に?

「フッ…一八、どうした。私が『父親を知らないかわいそうな』風間仁に父というものを教えてやろうと提案したのが気に食わないか」

父親を知らないかわいそうな、をやけに気持ちを込めて李さんは言った。その顔は恐ろしく楽しそうで、俺や三島一八と比べても悪魔といって十分な悪さ。普通 にしていればとてもとてもきれいなんだろう顔をいやみったらしくゆがめて三島一八を見てる。
見てるというのじゃぬるい、穴が開きそうに見つめてる。三島一八がどんな顔をするのか見逃したりしないように、瞬きもしないような顔で見てる。真っ白い顔 は彫刻みたいに冷たくてきれいだ、でもどこか卑しいような気がした。
俺をもう見ていない、三島一八を、三島一八だけを見てる。

「貴様死にたいのか。………コーヒーだ」
その三島一八とは言えば、この期に及んでまだコーヒーだとか言い出す。三島一八も相当だ。意地っ張りとかいう次元でもない。
暗に父親である三島一八を責めている李さんには腹を立てて、でも当の自分には腹を立てたくない。そんなところなのか。
既にカップにはさっき李さんが注いだばかりのおかわりが入っていた、のにそれをグッと一息に無理に飲み干してコーヒーだと怒っている。何が何でもこの話題 に対して怒っているという姿勢をとりたくないのか。
熱いだろうな。馬鹿みたいだ。
「ふふふ、どうだ風間仁。喜んで私の子になるがいい」
李さんは俺へ話を振ってきた、考えるまでも無く喜んでなれるわけがない。
「いや、俺は…」
俺は冷たくなっていた紅茶を飲み干す。だいたい俺も李さんにすすめられるがまま、三島一八と同じテーブルで紅茶なんか飲んだのがいけなかった。
母さんのためにも理解しなきゃいけないのもわかるけど、いくらなんでも近すぎた。
「だいたい貴様に父親が出来るのか」
フンと鼻を鳴らして三島一八が言った。よく言う、その口で、その口が。俺はついまじまじと三島一八の顔を見てしまった。
認めたくないが俺の原型なんだろうという顔、眉、でも俺はこんなに人を人とも思わないような顔はしてない。
「貴様よりかは上手にできるだろうな」
案の定そのまま李さんに痛いところを突かれた。予想通りだ。
予想通りじゃなかったのは三島一八の厚かましさで、
「俺が貴様より劣る事があるはずもない」
どうどうと、全く俺のことを見もしないで言いやがった。言った。俺を目の前にして。こいつ。
「フフフ、どの口がそんな事を言う。ほら、仁がお前を見ているぞ」
初めて李さんが俺を仁と呼んだ。親子みたいに。
顔が熱くなった気がした。そんなわけは無い、きっと違う気のせいだ。
ちらりと三島一八が俺を見た。いたのかと言うように正面から見ておいて悪びれもしない。
「……李の息子になりたいとは、貴様がそれほど悪趣味だったとはな」
「賢明だ、それに素直でかわいげがある。一八、お前とは違うのだよ」
「だから駄目だと言ってるんだ」

頭がくらくらする。こいつらは俺を何だと思ってるんだ、俺を、俺を、

「俺をダシにして絡むのは止めろ」

それだけ言うと頭の中が熱くなってしまってもう何も言えない。口が上手くないのは昔からだけど、肝心なときに何も出てこない。
俺は立ち上がった。外に行こう、東京の風は臭くて気持ちがよくないけどこんなところに居るよりかは数倍ましだ。
それが一番平和だろう。
けど俺が思った以上に三島一八も李さんも馬鹿だった。
「構って欲しいのなら正直に言え」
「寂しい思いをさせてしまったな、一八、これが貴様のしてきた事だ」
怖いもの知らず、李さんはそうだ。この人は人との会話をギャンブルみたいに楽しんでる。怒らせるのもまるでかまわないみたいだ。特に相手が三島一八だとい かに感情を引き出させてやろうかって、そんな事ばっかり考えてるんじゃないのか。
「何」
三島一八が目を剥いた。何を馬鹿な、って顔で腕を組んだ。腕を組むのはかたくなさの証だって学校で習った。
こいつは本当に、本当に、
「何を馬鹿な、俺とこいつは何の関係も無い」
あ。
「それなら私が貰おう、くれ」
「やらん」
あ、
あ、
「関係ないと言っただろう」
「関係はない。だが、貴様にやるのは気に食わない」
李さんが唇を舐めた、グラビアアイドルよりもずっといやらしい顔だ。ぞくぞくして見える、すごく悪い顔だ。
でもそれ以上に俺がもう、もう、
俺は誰のものでもないし、三島一八も、李さんも、本当は俺が欲しいわけじゃないのに、兄弟のくせに、血なんか繋がってないのに、俺なんかどうでもいいくせ に、ただ俺をダシにして、俺を、俺が、
「………うおおおおおおおおおお!!!!」
頭が熱くなって、歯が疼いて、それから爪の先が痺れる。覚えのある感覚だった、俺は悪魔になる。またなってしまう。
いつも罪悪感と無力感でいっぱいにされるこの瞬間だったけれど、今日ばかりはどうにでもなれすべて壊して構わない、そんな気持ちになった。初めてだった。
なにもかも壊れてしまえ。



そして気づいたら、部屋が半壊していた。後悔はほんの少しで済んで、俺はほっとする。
俺は悪くなかった、さんざん俺の意思を無視して好き勝手をしたあいつらがいけない。それだけだ。元凶の一人はさっさと部屋から逃げたらしい、逃げたか、そ れとも片付けの邪魔になるからと追い出されたか。どっちでもいいことだった。せいぜい骨の一つでも多く折れていたらいい。
すると今の今までてきぱき部屋を片付けていた元凶のかたわれ、李さんがいつの間にか俺のすぐ後ろにいて、怪しい笑い声を立てた。李さんは見える部分では特 に怪我は無い。よかった、と反射的に思ってしまう俺に俺はがっかりした。どこまで甘いんだ。
甘いからつけこまれる。それを何時までたっても学習できない俺が、それでも実は母さんのおかげのような気がして実はそこまで嫌いにもなれない。
「………なんだ」
「……呆れるほどに独占欲が強いのだ、子供のようだったろう?……風間仁」
やっぱりこの人に俺はあまり近寄っちゃいけない。
「私の子になれば、もっと面白い事になる。気が向いたらいつでも言いたまえ」


この人はもしかしたら、三島一八で遊ぶためだけに生きているのかもしれない。
絶対に気を許さないようにしないといけない。気を引き締める。