今までアンタとかお前とか読んでいたけれど、そうもいかなくなった。
「あの」
「なんだ?」
「……か、」

「かずや、さん」
「おう」
当たり前のように返事が返ってくる。乳臭い、声変わり前はほほえましいが向ける相手はいろいろと複雑だった。
普段よりも丁寧に呼んでいるのがおかしい。おかしいが、自分のしでかしたことだからしようがない。
仁はひたすら別人だと思う事にしてかずやを、三島一八を呼んだ。


子供の頃から偉そうな子供だということはわかった。
まず朝起きたのだから顔を洗ったほうがいいと仁が言い、伸び上がり洗面台へ頭を突っ込むようにして顔を洗ったまではよかった。髪の毛を濡らし、足元のマッ トもびしょびしょに。
後ろから見ても、精一杯爪先立っているのは可愛げがあった。けれど顔を洗い終えて、後ろにおいてあるタオルには目もくれず、
「じん!」
覚えたばかりの名前を呼んで、じつと仁の顔を見つめてくる。ぼたりぼたりと雫が垂れて、仁が昨日掃除したばかりの床へしたたった。見えなかったのかと仁が 慌ててタオルを取って手渡すと、戸惑ったように仁とタオルとを交互に見やる。
「………はい」
しばらくにらみ合った末、仁は諦めてかずやの手からタオルを受け取り開くと、かずやを呼んだ。当たり前のようにかずやは仁が広げたタオルに包まれ顔をふい てもらう。

わかった事:どうやらある時期まで三島一八はかなり過保護に育てられたらしい。
(かわいいからかもしれない)
三島一八本人に対しては、仁としても言いたい事はいろいろある。いろいろある、が、それを差し引いても子供の頃の彼はかわいげがあった。
今となっては見る影も無い、あの鋭い目付きはまだくるくると好奇心の輝きに満ちている。今なら傷だらけの子犬を親に内緒で神社に匿うかもしれない。
タオルで耳まで拭いてしまう自分の気遣いの細やかさが仁にはくやしい。しかし身体はそうしてしまう。
悪人になりきれないところが仁の業の深さだった。
「寝癖が」
「む」
耳の横の髪の毛ひとふさが外へ向かってはねている。他はすべてが後ろへぴこりと毛流れを向かっているのに、それだけがさからっていた。
指摘するとかずやは濡れた手でそれを押し付けた。放す。直っていない。今はどうだか知らないが仁が触れた手触りは柔らかだった、けれど強情なところはその ままのようだった。

「………」
「……うん」

どうだ、という顔をしたかずやに仁はあいまいに頷いて見せた。


「あの、おじいさ、ええと、お父さんは好き、ですか」
「………」
かずやは露骨に嫌そうな顔をした。まだ崖から投げ落とされていないようだったが、あまり好きではないようだった。
「きらい、ですか」
「………べつに」
ふい、顔を背けたかずやの横顔からは今見るような憎悪はない。いや、今も憎悪とは違うかもしれない。平八に対しての憎悪が一回りして超越してしまったよう な、小ばかにしたような顔だけを仁は覚えている。
ただの反抗期の、子供の顔だった。
「それじゃ、李さんは」
「あいつよわっちいんだ。ひょろいし」
それは容易に想像がついた。李超狼も同様にかわいらしい子供だったろう。かずやと比べて線が細く、神経質な子供だったのではないかと仁は予想した。
しかし、かずやと三島一八のようにここまで大きな差異はないようにも思えるのだ。
「よわっちい」
「うん」

話しながらかずやは焼き海苔で飯をくるりと巻くと口へ放り込む。
箸使いはたどたどしいものの正しい。躾はされているようだった。そういえば箸を持つ手だけはきれいだったな、と彼が丼飯を食べるさまを仁は思い出した。
「じん、食べないのか」
「……ああ」
きちんと人を見ているのだなと仁は変なところで苦笑した。前は本当に普通の、少しあまやかされた子供だったのだろう。


(どうしてこうなったんだろう)
仁は思いかけて、それは自分もだと思い直した。
三島一八だけではない、自分も、風間仁も大きく歪んでしまった。
「かずやさん」
「おう」
「………おかわり、食べますか」
「うん」
(それでも、俺のゆがみはこの人のせいだ)



すべて三島一八が悪いのだ。すべて。自分がこんな身体になったのも。母が死なねばならなかったのも。憎し無べきは三島。
仁は改めて思いなおす。表情が暗く沈んで、かずやへ向ける顔はつるりと仮面のように硬質なものへ変わった。
かずやは仁の顔をちらりと見たが、何も言わずに仁が作った飯をたいらげて、
「ごちそうさまでした」
あっさりとそう言った。三島一八がフンだの味が悪いだの言うのと違い、素直な言葉は仁を戸惑わせる。

(見なければよかった)
ただの子供すぎて、殺せなくなってしまった。仁はひどく後悔した。