何もかもを得ているのに、どうしてそんなに飢えた顔をしているのか。




気に入る気に入らないを別にして、三島一八という男は世間一般が羨む対象になるだろう。
世がなよなよとした軟弱な、女のようにやわらかな顔立ちを好む傾向にあって、一八の顔立ちは一際目を惹く。
まず三島の男とひと目でわかるような眉、仁王のような怒り眉。かっきりとした二重の眦も切れ上がって、今にも見栄を切れそうな歌舞伎顔である。
鼻芯は細くとも筋がびしりと通り、唇は無駄な言葉を漏らすまいとするように結ばれている。その結びようも取り付く島も無いような厳しさの、いわゆるへの字 に結ばれているのだが、これがひとたび笑うと、
にやり、
とたんに口角がぐっとつりあがって、いかにも鋭く悪い笑みの形を作るのだ。笑っていなくとも口角だけはきゅっと締りがある。
頬に走った傷はさらに悪さを膨らませる。堅気ではない、親しみやすさなど微塵も無い、悪い。
一八は一見して悪い男である。本人もわかっているのだろう、悪さを隠すこともしない。
『悪さ』
悪さは時として何か抗いがたい魅力を生む、悪女といって醜女を思い浮かべる者は少ないだろう。人は何か悪を美と結びつけるふしがある。
特に一八の悪は紫色に輝きを帯びて、幾人もの人間を惹きつけた。力の無いものはその輝きに蛾のようにその身を焼かれ、力あるものはその側にいて一八のため に力を尽くすことを許された。一八が選ぶ訳ではない、自然に淘汰されていくのだ。
数多くの人間に取り囲まれ、持ち上げられ、
誰もが一八を神のように崇拝し、一八はそれを当たり前に受け入れる。
数多くの誰かの悲しみを積み上げた城の、金色の玉座に座るのが似合いの男だった。
その城には誰も居ない。
その城に入りたいと熱望するものが居たとしても、誰も玉座までたどり着けないのだ。
並び立てない男、それが三島一八である。
それを誰より一八自身がわかっていた。




神の託宣にしては、厳かさのない声が李を厳しく打った。
「出て行け、俺は今機嫌が悪い」
「ご機嫌斜めだな、義兄上」
李は暗闇に笑った。白い顔より更に白い粒の揃った歯が唇より覗く。
火口に落ちてからだろうか、義兄である三島一八はどこか変わったように李は思う。
(ずいぶんとお優しくなられたものだ)
優しくなった。
ものは言いようである、以前の一八であれば無言で李を殴り倒していただろう。
真っ暗な部屋は狭い。一八は普段そこで四人家族が暮らせそうなほど広い部屋で眠る。
が、
「またこうして布団を被って、枕を濡らしているのか?」
李は腕を組むとドアにもたれかかり、廊下にともる灯りを暗い部屋へと注ぐ。すると今まで見えなかった一八の姿は輪郭だけを暗闇に浮かび上がらせた。
狭い部屋である。一八が普段使う部屋と比べてではなく、一般的に見ても少し大きめのクロゼットや物置といったところだ。
そこには寝返りを一度打つのが精一杯といったパイプベッドがひとつあるきり。窓すらない。
いや、意図的に窓を無くし、部屋を狭くしている。
「……死にたいのか貴様、いいから出て行け」
一八の声が低く唸る。けれどそれは李にとっては猫が毛を逆立てている程度、そよ風のように受け流せた。一八、この男が本当に恐ろしい時はこんなものではな い。ただ死が静かに滑り寄ってくる。だが、それは一八が一八でない時に限定されると李は思っていた。
ベッドに腰をかけた一八は、らしくなく背中を丸めている。李は優しく微笑み、上下共に生え揃った長い睫にたっぷりの哀れみを込めてその姿を見やった。
二度だ。
これで二度、一八は暴力ではなく言葉でもって李を動かそうとした。
李は腕組みを解き、胸を押さえた。生来体温が低く、心拍も乱れる事の少ない李の胸は高鳴っている。
一八は李と同じように自分の胸を押さえた。必死に世間が望む一八の顔、一八自身がそうありたいと思う顔を保とうとしている。
「……英雄と呼ばれても、一人が怖いか」
更に怒らせる気で李は口を開いた。
三島一八という男、世間で言われるほど複雑ではないと李は常々思っている。それを誰かに教えてやった事はないが。
(そんな勿体無い事を誰がするものか)
そして一八の本音を聞きだすには怒らせるのが一番手っ取り早いのをよくわかっている。
「……何の話だ」
(ほら、お前はこんなにも優しくなった)
子供の頃であれば、聞きたくない事言いたくない事あればうるさいうるさいと声を荒げたものだった。
(あれはあれで可愛げがあった。…イライラするほどに)
大人になってからは、無言で、自分の主張は行動だけで通すようになった。
そして、今だ。火口に落ちて不可能以外の何者でもない、悪魔的な復活を遂げた今。

「まだ子供の時のようにさみしいさみしいと泣いているんだろう」
ひそやかにだが声を立てて李は笑った。肩を揺らして笑ったために前髪が一筋はらりと額へかかる。
「俺を怒らせに来たのか、貴様の遊びに付き合っている暇は」
(そう、遊びに来たんだ)
「そんな事はない。一八、入るぞ」
「貴様の顔など見たくない」
李は部屋へと踏み込んだ。いつ一八が攻撃してきてもおかしくないのだ、勘を鋭く尖らせて一八の座るベッドへと近づいていく。
「私はお前の義理の弟だ、その義兄上を心配して、こうしてお慰めにあがったまでさ」
「言葉遊びなどつまらん真似はよせ、いいからとっとと…」
「とっとと?」

李は一八の横へと腰を下ろした。乱暴に強い腕が李の首を締め付け、体ごとぶつかってくる。



甦った一八のおかしな噂を聞いたのはいつだったろうか。
あれほど尊大な男が、二月に一度ほど小さな部屋にこもって眠るという。おかしな噂だった。噂といっても知っているのはほんの二人、そのうちの一人は李で、 発見者にはきつく口止めを言い渡してある。つまり今現在は噂にもなっていない。
元々はクロゼットだった部屋で、収納されていた服をすべて廊下へ放り出し、そこへ無理やり毛布を持ち込んで眠っていたのだという。
三島の男らしく豪胆に身体を大の字にして眠る一八を李は知っていた、だがそれとは裏腹に身体を丸め、子供のように小さくなって眠る一八の事を聞いた李は腹 の底から笑いが止まらなかった。
それから、一八があの部屋へ入ると李はそこを狙って訪れた。
毎度毎度一八は不機嫌に何をしにきた、と尋ねる。李は何かのらりくらりとかわすか、怒らせるか、ともかく言葉を交わして近寄り、
(抱き締めて、犬か猫の子供にしてやるように)
抱いてやるのだ。時折一八が気まぐれを起こした時のような、蛇の共食いのような絡み合いはしない。ただ抱き締めて、親子のするようなキスの一つでもしてや るだけ。
すると一八は途端に何も言わずただこんこんと眠る。
翌朝、そして何も覚えていないのだ。何一つ。

「それでもお前は覚えているんだ」

一八はすべての痛みに耐えているように、険しい顔をして眠っている。李はその眉間に深く刻まれた皺へ指先をふれさせる、自分も覚えてはいないが母のような 優しさを真似た仕草でなぜてやると、険しさがやわらぐ。かみ締めていた唇がほどけて、均一な呼吸が滑り出てきた。

(お前がこうして私を許すのは、ただ私だけが心底お前のために存在しているからだろう)
自分は何一つ持っていないと、一八は常に思っているのかもしれないと李はある時そう思った。
「誰より恵まれているくせに」
昔から李は一八を羨んでいた。自分の命そのもの丸ごと買い取られ、一八に投げ与えられたようなものだ。
「私しか居ないのだろう」
李は一八の前髪を払った。歳相応とはとても思えない若い額、閉ざされた瞼には力がみなぎっている。
光源がなにひとつなくとも、一八の表情から何から李には手に取るようにわかる。見えているわけではない、ただ、わかるのだ。
それぐらいには李は一八を見て生きてきた。一八しか見てこなかったと言ってもいい。
(その私すら、義父上に与えられたのだ)
さぞや悔しかろう。そう思うと李はめまいを覚えるほどに高ぶった。性的にも、それ以上にも。膝を叩いて高笑いをしたかった。


何もかもを手に入れているはずの一八がこうして部屋で子供のように、まったく子供のように、
(そうともこの部屋は仕置き部屋だ)
昔悪さをして叩き込まれた、あの窓の無い部屋だ。李にも経験がある。夜は酷く冷えて、二人纏めて放り込まれた時にはどちらからともなくお互いの身体を寄せ 合った。
一八は罰を受けている。李はただそう思った。
(そうだ、一八はここで罰を受けている)
そして罰を重ねて与えているのは、他でもない李自身だ。それは李にとって身悶えするほど素敵な事実だった。
ただ一人こうして一八が縋り付いている相手が自分だと思うと一八が哀れで惨めで仕方が無い。あれほど自分を見下している男が。

誰より憎んでいるはずの父から与えられた男に、こうしてすがるようにして眠るのが許せないに違いが無い。
だからだろう、一八は翌朝何も覚えては居ないのだ。

(それが何より苦しかろう)
李は呪いの代わりに、一八の頬をそっと撫でる。李がこうして優しく慈しむようにして一八に触れれば触れるほど、一八は弱い自分を責めずには居られないとわ かっていてそうしている。
たとえ忘れているといっても、身体は覚えている。だからさっきも、

『いいからとっとと、』
そう言った。直後自分でも不可解そうな顔をしていたが。
李は優しく優しく、甘ったるい蜜のような毒を積み上げていく。致死量にはまだ届かない。
致死量に達したら、いつか一八が壊れたら、その時は自分が哀れみをもって優しく抱いてやろう、今日のようにキスをしてやってもいいと思っている。
李しかいなくなった一八が、自分の顔色を伺って機嫌を損ねないように媚びるかもしれない、李は身震いをした。
ぞくぞくと指先まで楽しい想像に震えている。
「ああ、これではいけない」
我慢した方が、ご馳走はよほど美味しいと李は誰に言われるでもなくわかっている。


「……おやすみ」

本物の悪魔よりよほど悪魔らしく、李は微笑んで一八の額に唇を落とした。