何もかも持っているのは、何もかも失ったのと近しい。
誰が言ったか、それは正しいように思う。
李は自分の頬をつるりと撫ぜた。



空が青い、空が青い、
その青さは李の胸を悪くした。胸糞の悪くなるほどの能天気さ、底抜けの無垢は李の憎むべきところ。
春先のアスファルトは倒れた李の背中にあたたかく、そのまま眠れそうなほど。なまぬるい風の向こうで、腕組みをして李を見下ろす男がいた。
三島一八。
つい今しがた、李をさんざんに殴って地面へ引きずり倒した男。まだ息が整っていないのが肩の上下で李にわかった、それが李の心を慰める。自分を倒してすぐ に息が整うようでは立つ瀬が無い。
冷たく李を見下す一八の頬は赤く腫れ上がり、唇の端が切れていた。李はにやりと口角をゆがめて笑う。鮮やかな赤が一八の鼻から一筋垂れ、上唇にかかった。
「……チッ」
忌ま忌ましげに一八は親指の腹で鼻を擦った。ためらい無い指が赤い尾を引いて、頬まで筋を作る。
一八の顔を殴るのが好きだ、李はうっとりとそれを見守る。顔にさほどこだわりのない一八は顔を打たれてもさほど怯む様子はない、ただ打たれた自分の不甲斐 なさに腹を立てるだけだ。
逆に一八も李の顔を殴るのが好きだと公言してはばからない。

「見られた顔になったな」
いかにも愉快そうに一八は李のすぐ側まで来て、くっくと笑いながらそう言った。一八が誰かを殴り倒した後、その場にとどまることは少ない。
倒した相手に興味はないのだ。ただ愛しいのは相手を倒した自分だけ。
李超狼はそんな自己愛の局地にいるような一八が、その場にとどまって地面に這い蹲るのを見続ける数少ない男だった。
「うるさい」
短く李は不機嫌そうに聞こえるよう答えた。血だらけの口から真っ赤な唾を吐いて、上半身を起こす。一八は倒れた李に追撃を加えるようなことはしなかった。 既に勝敗は決している。
「ふふん」
一八は上機嫌だった。腰をかがめ、李の顎を掴んで上を向かせる。目を細めて自分が傷つけた李の顔面をつぶさに眺めていく。ありえない事だが鼻歌でも歌い出 しそうなほど満足しているようで、李が顔を背けようとすればするほど顎を掴む指に力を込める。角度を変えては李の顔を調べた。
何かに固執する一八は珍しい。
もっとも、それは三島においては珍しい事ではない。平八への復讐が筆頭に挙げられるが、義理とはいえ李は弟にあたる。
じゅうぶんに一八の執着の対象であった。
顎を掴んだまま、一八が口を開いた。

「化け物め。どんな悪魔と手を組んだ」
声は歌うように太く低い。そこに貶める響きはなかった、むしろ賞賛に近い。李は一八の手を強く振り払った。満足していたのかやすやすとその手は離れてい く。
「おまえと一緒にしては困る」
眩暈がまだ残る、李はそれを頭を軽く振って追い払う。立ち上がるにはまだ時間が必要なようだった、素早く把握を済ませて李は顔だけを一八に向けて上げる。 真っ赤に血塗れた歯を見せて笑って答えた。
「ふん」
短く鼻を鳴らしただけで、一八は言葉を切った。
李はこのまま会話が終わるだろうと予測をつけていたのだが、それに反して一八は再び口を開く。よほど機嫌がよいのだろう。
「貴様の顔を殴るのは気分がいいな」
「根性曲がり」
「貴様ほどじゃない、……ふん、女々しく大事にしているその綺麗な面を殴るのが楽しいだけだ」
「………」
「いつまでもその顔でいろ、殴る楽しみが減るのはつまらん」

一八は真面目とも冗談とも、なんとも言えない顔つきで酷く勝手な事を言うとその場を立ち去った。足早に、断ち切るように、肩で風を切って、ただの一度も振 り向かなかった。
春の、うす黄色いような強い風が離れゆく二人の間を渡っていく。ほこり臭い風に生乾きの血が突っ張り李の顔が歪。むもう一度真っ赤な唾を吐いた。鏡がある わけではないにせよ、左目の視界が狭いので、瞼が内出血を起こしていると容易に知れた。



むかしむかしの事だった。
「いついつまでも、私は美しくあろう」
ひそかな誓いを李は立てた。
一八が悪魔と交わって、それから老いを忘れた時のことだった。
別に李は、自分の顔に固執しているわけではない。ただ、固執していると表明し大事にすればするほど、一八の執着が強まるからそうしているに過ぎなかった。
美しい顔、自然の摂理を曲げてまで李が何より大事にする美しい顔を踏みにじる時の一八の顔だけが昔のままで、李の胸をくすぐる。
李が大切にしていたものを無邪気に取り上げ壊して、弱虫めと笑った、義兄弟の一八の顔だった。李が怒ったり悲しんだりすればするほどからかい囃し立てる一 八の、ありふれた子供の顔だ。

(こう言えば一八はきっと怒るだろう、…いや、今はどうだろうか?)
ふくみ笑いで李は肩を揺らした。地面に垂れた血は既に赤黒い、胸糞の悪くなるような空の青さと比べてなんとも心地がよいように思われた。

一八は結局、寂しく昔にしがみついているのだ。それが李の出した結論だった。
寂しいから、戦い反抗する。誰かに追従しない。
誰かに従ってしまえば、自分の存在意義を疑いそうになるのかもしれなかった。
あれほど憎み、手向かっても敵わなかった存在である平八の老い衰えが一八をますます孤独へ歩ませる。
一八は悪魔と交わり時を止めたのに、平八をはじめ誰もが彼を置いて老いていく。
死があるかどうかもわからないのだ。

そして、誰も彼もが死んでいき、変わり、忘れていく中で李の美貌だけが変わらない。
先ほどの言葉は、そんな一八の吐露した真実かもしれなかった。
すべては李の勝手な想像に過ぎない。そうあってほしいと自分に都合よく歪めた自負も李にはあった。
それでも、一八の最も側にあった李の考えなのだからすべてがすべて間違いであるということは無いだろう。


「いついつまでも、私は美しくあろう」


私ぐらいはお前に付き合ってやってもいい、


もう一度李は呟いた。そろそろ立ち上がって動いても障りは無いだろう。
空に雲が出て、李の好むうす曇へと様変わりしている。