お前の魂の代価なのだから、願い事の一つでも叶えてやろう。
悪魔は仁へ囁いた。





唐突に身のうちの悪魔は形を成さぬまま、声だけで仁へ語りかけた。
夜明けも間近なベッドの上、自分をほそぼそと呼ぶ声に仁は意識だけを弱火に熾す。
冬の明け方ともなれば寒い、布団の中で軽く寝返りを打った。眠りが一番浅く、仁が無防備になる時間を見計らって最近は悪魔が頭をもたげるのだ。
『おい、お前の願いをかなえてやろう』
(いきなりなんだ…)
気だるく仁は応じた。一度身のうちに入れてしまったのだから、無視しようもない。体の中で暴れられて意識をもっていかれでもすれば大惨事になる。
仁の声に、悪魔が低く笑う。悪魔がどんな姿をしているのか、仁は知らない。
だがとにかく悪魔というぐらいなのだから邪悪なのだろう、
(あの人のように)
そう、彼の父親である三島一八のように。
三島一八は邪悪だと、仁は信じていた。母親は一八のせいで命を奪われ、敬愛していた祖父と敵対し戦いばかりを引き起こす。
その一八と暮らすようになっていくらかの違和感を感じている。
(わがままだ)
わかったこと、三島一八は大変なわがままで、自己中心的な性格をしている。
わがまま、そんな幼稚な言葉では語りつくせない程一八が壊したものの規模は大きい。ついてまわる憎しみや、悲しみも言い尽くせない。
だが、そんな一八をカリスマとする人がいるのも確かだった。あの傲慢さ、人を人とも思わないような物言い、そうしたものを覆してしまうような何かあらがい がたい強引な魅力がある男なのである。
たとえば李超狼を仁は筆頭にあげた。彼こそ一八の最も近しい被害者といえばそうである。一八のために李の人生は道を大きく違え、歪められた。
しかし今現在その歪みすら李は愛でているように仁には見える。隙あらば一八の寝首をかこうとしているが、本気とも冗談ともつかぬ悪趣味な戯れに李は怜悧な 口元を笑みほころばせていた。

『おい、願いを言え』
(……それなら俺から離れろ)
『それは無理だ』
(だろうな)
悪魔にも機嫌があるのか。何時までたっても何も言おうとしない仁に焦れたようで再びに問うた。仁は仁でとりあえず、駄目だといわれるだろうと思いながらも 要求してみる。あたりまえに却下された。
『命をくれるというなら、かなりの事ができるぞ』
(それはいらない)
『じゃあ何ぐらいなら出せるんだ』

面倒になって、仁は欠伸をした。布団から出ている肩が冷えてしまっている、分厚い布団を耳もとまでかぶりなおした。
新しい布団はまだ幾分身体に寄り添わず、仁の体との間に無駄な隙間が出来て寒さが忍び込む。陽が昇る直前が一番寒い、四時半といったところだった。
現在仁の古い布団は、一八が使っている。ここにいたるまで少々面倒ごとがあった。
同居を始めてわかったことだが、一八は案外庶民くさいところがある。今現在二人が暮らすマンションの家具が頑丈で高価なものでまとめられているのはすべて 李の手配であるもので、一八自身はなければないで構わないという大雑把さだった。仁が料理を作り、それがたとえば焼きそばの肉が魚肉ソーセージだったとし ても文句無く食べる。ただし自分ではやらない、もちろん片付けも、礼も無いが。
以前李が用意した一八のベッドを真ん中から真っ二つに壊してしまった。加害者である仁はどうしたものか酷く狼狽したが、被害者である一八は事後仁を数発気 が済むまで殴った後、仁の布団を持ってきて畳へ敷くように命じただけで特に問題も無くそこで寝ている。そうして仁は新しい布団を買った。


『ごちゃごちゃ言っているな、おい、あいつをどうにかしたいのか』
(この間、しただろう)
『した』
この間、つまりベッドを破壊した時である。どうにかしてしまった仁が得たものと言えば、壊滅寸前の部屋とベッドと、腰のだるさ、不機嫌という言葉では表し きれない超絶不機嫌な父親(未認知)であった。
仁が悪魔に飲み込まれている間に、気持ちのいいこと楽しい事全てが過ぎ去ってしまっていて、後には大きすぎるツケのみが残されていた。

『そうだ、お前の魂であいつを殺してやろうか』
(………)
まさしくの悪魔のささやきである。世界のためを思えば自分が人柱となるべきなんだろうか。自己犠牲的で後ろ向きな考えの目立つ節がある仁は一瞬考えた。
しかし、最近仁は殺せば終わりという考えでは何も解決はしないと母親譲りの前向きさがようやくの遅咲きを見せ始めたところ。

(わかりあわなきゃいけない)
『あれとか』
(もっと、話をしたい)
『……』
悪魔は少し考えたようだった、悪魔も悪魔なりに住み着いた仁をたてているのかもしれない。仁にはわからない迷惑な話ではある。

(あの人の横暴がもっとなくなって、俺の言う事を少しは聞いて、俺の方を見てくれて、復讐や世界征服だとかを忘れて素直に話を聞いてくれたら…)
『そうか、あれがお前に対して従順になり、抵抗するだけの力を奪えばいいんだな』
(ん?)
『簡単な事だ、命を寄越さないのだから長くはできんがな』

(……ん?)







寝坊もいいところだ、大寝坊。仁は残念な目覚めを覚えた。明け方に悪魔と何か会話をしたようだったが内容はまるで覚えていない、ただ何かだらだらと話した せいで二度寝が大幅に予定を膨らませてしまった。カーテンの隙間から部屋へ差し込んでくる日差しの具合から、おそらく十時を回っている様子。
(しまった、洗濯物…)
仁一人ならばさほど洗濯物は出ない。しかし一八はタオルをあればあるだけ使うし、服は暑ければ脱ぎ散らかす。李がいなければ着替えもしない。
必要にかられればもちろん自分でやるのだろうが、李に仁がいるのだからその必要はないと思っているようだった。
また李という男は惜しみなくタオルを使う男だった。一八の布団のシーツは毎日新しいものへ取り替えられるし、タオルは髪の毛を拭くもの、からだを拭くも の、顔を拭くものと分けて新しいものを使う。洗濯をするのは仁であることをわかっていてこの仕打ち、嫌がらせかと一度仁は聞いてみたいと思っていた。
風呂場へ山となった洗濯物を思い出し、仁はかけ布団をはねて起き上がろうとした。
が、体がやけに重たく感じられる。湿った布団を二枚重ねでかけていた時のような。何気なく仁は自分の胸元へ視線をやった。
「………」

子供。

身体に覚えのまったくない、眠る子供の姿があった。
仁の胸の上へ行儀よく丸くおさまって、子供が眠っている。安らかに寝息を立てている。仁は首を軽く振った。
覚えはまったく無かった。
が、この家にはもう一人、それこそ身に覚えのたくさんありそうな、あったらあったで仁が激怒するだろう男がいる。考えようによっては仁ももしかしたらその うちの一人なのかもしれなかった。そのうち、が、何なのかつとめて仁は考えずにいる。子供を起こさぬように大声を上げたりしないあたり、心根のやさしい男 であった。
とりあえず顔を覗き込む。年のころはせいぜい五、六歳。仁の胸に収まってしまうほど小さな子供だった。幼い肩は丸みがまだ残っていて、手も小さい。眉が強 く、ちょんと尖らせた唇の薄くあどけない顔をしているが負けん気の強そうな、
「……眉………?」
眉。
仁の身体に覚えは無いが、見覚えのある眉の子供。まさかまさかの気持ちを押し殺しながら、仁はおそるおそる腕を持ち上げて子供の後頭部へ宛がった。
(あ、やわらかい……)

子供の後頭部にはたとえるなら真っ黒なひよこの尾羽のような、ぴこりとした癖があった。
やわらかいがその一筋は主張を覆すことなく、ぴこりぴこりと仁の手を押し返す。



「か、み、一八……さん」

仁に逆らう力は無いだろう。
なんのしがらみもなく。
無垢な。
たしかに、悪魔は仁の願いをかなえたのだ。

子供が薄目を開ける。