お前さえいなければ、
お前さえいなければ、

「俺がいなければ…どうした?」
腕組みをして、俺を見下ろす。
唇を端を持ち上げて嘲笑う。見飽きた顔だ。
俺は暗闇に一人いて、その笑い顔をただ見上げている。
気づけば俺は膝をガキのように抱えていて、惨めな気持ちに押しつぶされそうだ。

「お前さえいなければ」
「だから、俺がいなければどうだというんだ」
苛立ちは見えず、胸の悪くなるような笑顔はそのままだ。
明るく笑うことなんかあるんだろうか。いつだって何か含んだような、不純物だらけの歪な笑いしか俺は見た事が無い。
いつか李さんと何か話していた時、一度だけ見た事がある。少し悲しいような笑顔を。

俺に向けるのはいつだってこんな笑い顔や、凶器のような拳ばかりだ。
だけどそれ以上に、まるで俺なんかいなくてもどうだっていいような無関心。
好きじゃない、憎い、俺だって大嫌いだ、なのに俺なんかいなくてもどうだっていいような顔をされると傷つく。
傷ついた俺に気づいて、さらに傷つく。救い様が無い。

そうだ。俺はこの人に見て欲しい。

「黙るばかりじゃわからんぞ」
ふふん、勝ち誇ったようにあの人は笑う。暗闇の中で俺に見えるのはあの人だけだ。
こちらを見ろ。俺を見ろ。まずはそのスタートラインに立ちたい。その上で俺を理解させたい。
母さんの愛した世界を守りたい。

「俺がいなければどうだというんだ」
「泣く人が少なくなる。無駄に死ぬ人も、憎しみも」
そうだ、
あんた達一族のくだらない争いでどれだけの人が悲しんだと思っている。母さんだってそうだ。あんたと関わったばかりに死んだんだ、俺を残して。
そうだ、
「お前さえいなければ、世界は平和だ」
そうだとも。そうであるとも。
世界は美しいままだ。

三島一八はひどくつまらぬものを聞いたという顔で、
「それは貴様のいない世界だな」
とだけ、言った。
その瞬間俺の暗闇でほのかに光っていた、唯一の人影は掻き消えた。







酷い夢見に、仁は目覚めた。優しく眠りに引き入れておいて酷い仕打ちに、仁は逃げるように覚醒する。
寝巻きが背中へへばりつくほど寝汗をかいている。
「………は…」
喉がカラカラに渇いて苦しい、熱っぽい、仁はとにかく水を求めて起き上がる。ベッドから降りてフローリングにペタリペタリと湿った足音が明け方の部屋へ響 いた。キッチンに向かおうとし、部屋を出た短い廊下の突き当たりのリビングの窓辺に人影がある。
「………あ」
紙を擦り合わせたような声が滑り出る。
リビングからテラスへ続く大きな窓には明け方の空が薄紫から濃紺へのグラデーションに染まっている。薄紫の端がやんわりと朱鷺色にまるく明るみを帯び始め ていて、まもなく日の出かという空だ。
未明よりよほど明るみのある空に一つ輝く金色がある。金星がきわきわと輝いている。
そのすぐ下。三島一八は金星を頭上にいただいて、窓際に蹲っていた。正確に言えば三島一八ではない、裸の背中には翼が大きく広がり、肌は紫色に変じてい る。

デビル因子。仁も犯されている、忌むべき遺伝子のその本体は座って空を見上げている。

金星、明けの明星は東の空でただひたすらに輝き続けている。何かに抗うように輝いていた。
それを食い入るように悪魔は見上げている。

が、しばらくして東の空を朱く焼きながら圧倒的な光が姿を現すと、飲み込まれるように明けの明星は見えなくなった。
それを見届けると、悪魔は忌ま忌ましげに翼を一振りして人へと戻る。人へ戻った三島一八はそのまま振り返り、立ち尽くす仁を見つけた。
真っ直ぐに仁を見据えると、しばし考える素振りを見せた後、

「何も変わりはせん。だが、在るからには俺はやりたいようにやるだけだ」

そう言って仁の側をすり抜けて行った。
仁はただ、立ち尽くす。



明けの明星はもう見えない。
また次の明け方にはただ孤高に輝き東を統べて、太陽に灼かれる。

地上で何があろうがお構いなしだ。繰り返すだけ。
たとえ誰が居ようが、居まいが。