そんなところで父親面しないで欲しい。





夏だからと言えば当たり前だが、とにかく暑い終業式の日だ。俺は汗を拭って講堂に吹き込む風に救いを求めていた。
(夏休みか…)
そんな当たり前の、学生らしい事が俺に出来るとは思わなかった。
というか、俺は学生だという事を忘れていた。普通にコンビニでおにぎりと緑茶を買ったり、アルバイトの面接のために履歴書を書いたりするごく普通の。
俺は普通だ。
(普通でないのはあの家だけだ)
母さんの遺言で俺はあの人と暮らしているけれど、あの人達は世間と大きくかけ離れているから。
湯水のように金を人を使い、誰かを泣かせてもまるで悪びれた風も無い。たとえ目の前に空腹で死に掛けている人があっても、満腹だからと贅沢な料理を泥へ放 り投げるような。
(俺はあんな人のようにはならない)
何度と無く俺は自分に言い聞かせる。あんな、人を人とも思わないような。母さんの息子である俺ですら興味の対象になっているとは言いがたい、薄情で冷徹な 人とは。俺は母さんのように優しい強い人でありたい。

終業式は久しく忘れていた退屈を欠伸とともにそれなりに楽しんだ。休学してたために机に詰め込まれていたプリントをまとめてゴミ箱へ突っ込んで、暁雨から ノートを借りた。暁雨は何か力になれることがあればと強く明るく言ってくれた。押し付けがましさを装ってはいるけれど、本当は人一倍に気を使っているのが わかる。わかってしまうのは暁雨の本意じゃないだろうから、俺はただああ、ありがとう、と頷いた。
クラスの誰もが俺を少し遠巻きにしていた、無理も無い、テストと最低限ぐらいしか居なかった。もっとよそよそしくなるかと思ったけれど、案外俺の周りはい い奴が多かったらしくて、夏どこかへ誘ってくれる奴すらいた。戸惑ってしまうぐらいに懐かしい感覚だった。
「二学期はちゃんと来いよ、修学旅行今年から海外だぜ」
今度は戸惑わずに頷けたと思う。
体育祭、文化祭、
そうだ、忘れてたけど学校って楽しいところだったんだな。
(二学期はもっとたくさん行こう)
そのために俺は誰とも争いたくない。


帰り道俺は一人になった。俺と居るところを偶然にでもあの人や、銀色の髪をした叔父さんには見られたくない。
暑いのは慣れているはずなのにめまいがする、東京はどうしてか悪意のある暑さだと思う。膝に手をついて、地面を見下ろした。
足元で誰かが落とした赤いアイスがアスファルトにぐずぐず溶けて、蟻がたかっていた。赤い液体に俺は弱い。つまりは血だ、血が怖い。でも本当は、血が怖い だけじゃなくて、人に血を流させるのを楽しいと思う俺の中の悪魔が怖い。
(あの人のようにはなれない)
それでもいいとあの人は言った。
誰も貴様に、俺のようになれなどとは言っていない――
三島一八、母さんが抱き締めた人は冷たく俺にそう言った。鼻で笑うようだったが、俺はそれでも何か救われた気持ちになった。
初めて俺を俺として、つまり悪魔の付属物ではなく風間仁として認められたような気持ちになったのを覚えている。

(変わってるけど)
変わっている。お嬢様とはものすごくかけ離れているけれど、別次元で世間知らずなあの人。
俺を殺して悪魔を手に入れるのは諦めたのかな。それとも、準備が出来るまで泳がせておくだけなのか。
(それでもいい)

俺は俺なのだとあの人が言う通り、俺は俺であるために戦えるだけの力があるんだから。
その力は悪魔の力なんかじゃない、母さんの力と、それから俺が身につけたもの。
(もっとあの人が俺を好きになったらいい)
そして俺を惜しんだらいい。
悪魔よりも俺を大事にすればいい。
母さんの面影を俺に思い出して泣けばいい。
守りきれなかった事を悔やめばいい。
愛していたんだろうから。そうじゃないと言うだろうけれど暮らして見てわかる、好きでもない女を孕ますような不器用な人じゃない。

俺はあの人が思っている以上にきっとあの人を好きになりたい。
優しくしたい。母さんの言うとおり、優しくされた事の無いひとだから。

(………顔赤い)
パン屋のガラスに映った俺の顔はものすごく赤い。恥ずかしい。俺はいつからこんな詩的になったんだろう。暁雨に昔、平気で恥ずかしい事を言うといわれた事 があったけど、これがそうなんだろうか。それならものすごく恥ずかしい。
小走りで帰った。





あの人にしては小作りなマンション(それでも俺から見ればとても大きい)のドアを開けると冷たい空気が這い出てくる。
(……これだから…)
薄着をして、窓を開けて風を通せば汗をかいても苦しいほどじゃないのに。この冷えようは設定温度がすごく低いんだろう。
俺以外誰も注意をしない。李さんは、汗をかくのは美しくないとか言ってあの人の味方だ。味方というよりは利害が一致しただけ。
「ただい……」
『ねえ仁、ただいまを言っておかえりが返ってくるっていいものよ』
昔母さんがそう言うから。だから俺はこの家でも必ずただいまを言う。あの人が帰ってきたらおかえりを言う。
初めてただいまを言った日。あの人の事だからきっと無視するだろうと思っていたら、あの人はしばらく黙った後で、
『…そうか』
と言ったんだった。

と、また俺は詩的な物思いに耽るところだった。危なかった。いつまでも玄関を開けていたら冷気が逃げる。
俺は戸惑いながら靴を脱ぐ。なんだろう、何があったんだろう、なんだろう、なんだろう、なんだろう、
(いつでも闘えるようにしないと、呼吸を、整えて…)

玄関先、靴を脱ぐ上がりかまちすぐのところで一八さんと、それから李さんが待ち構えていた。

「おかえり、風間仁」
「……帰ったか」

(俺が帰ってくるのを察知して?それとも、張っていた?なんで?)

二人して出迎えるなんて正気の沙汰じゃない。それも、
紫の燕尾服。
黒の燕尾服。
これからベガスのカジノでも行くのかってくらいに正装だ。一応李さんが黒だからプラマイでいえばプラスプラスぐらいの被害で収まっている。
空気がおかしい。ひんやりしていて緊迫している。
一八さんが俺へ向けて右手を差し出した。……え?
「え?」
「何をしている、貴様」
え?
え?
おぼれる俺としては掴みたくない藁を掴まざるを得ない。李さんは華奢な肩(けど腕は太い)を優雅にすくめてから、
「一八、風間仁はわかっていないようだ」
この人俺をいちいちフルネームで呼ぶのはどうしてなんだろう。わざわざ風間の、つまり母さんの血縁だと言いたいんだろうか。三島じゃないんだっていう嫌が らせみたいなものだろうか。
「……そうか。貴様、俺に出すものがあるだろう」
「………」

一八さんは手を引っ込めて、腕を組んだ。俺が何か渡して当然なものを渡さないみたいな雰囲気に困る。
お金とか…?住まわせてもらっている(不本意だけど)から、家賃とか?いや、でももう大分経つし…
「ヒントだ、風間仁」
呼び方はシャクに触るけどありがたい。
「……夏休みに入る前の通過儀礼だ」
………わからない。

「……もういい」
一八さんは俺に背を向けた。李さんがにやりと笑う。冷房のもっともっと効いたリビングへ歩き出す。
なんだか俺が悪い事をしたようで、俺はとにかく鞄を開けて、かき回して、母さんにしていたように、
「はい!!」
体操着を床へこぼしながら、それを差し出した。
「………ふん、わかっているならとっとと出せ」
一八さんは俺の手から通知表を奪うと今度こそ背を向けた。
どこか満足そうに。







「ほう、一八、仁の奴数学が苦手だな」
「数学……それなら、どうだったか?」
「ちょっと待て、えー…数学は、ぱちきだな」
「…ぱちきだったな」
「ふ、私は一度としてぱちかれたことは無かったな」
「その代わり社会が駄目で滝壺から落とされていたろうが」
「ともあれ、ぱちきと、それから熱湯風呂、これで決まりだ」

三島流教育は受け継がれていく。仁はその会話を耳にすることなく自分の部屋で布団を広げていた。干したばかりの布団ははやいうちから広げないと熱くて眠れ ないものだから。

(夏…どこかへ行くか)
夏が始まる。