私の名前は李超狼だ。
しばらくの沈黙の後、銀髪の悪魔は笑った。


別にどうでもいいが、と言い訳がましい前置きをしてから仁は尋ねた。
「あいつが憎いんじゃなかったのか」
李はティーポットへ湯を最後まで注ぎ終えてから、前髪を揺らして顔を上げる。
「……一八が?」
「他に誰が居るんだ」
わかっているくせに、わざわざ聞き返す。三島一八を父と認めるとするならばであるが、李は仁にとって義理の叔父にあたった。
その叔父は酷く根性がねじくれていて、きれいな顔に似合わぬ毒を吐く。
「貴様のようにか?……フ、一緒にされては困る」
歳相応よりは落ち着きのある仁だったが、李と対峙するたびに子供の部分を暴かれる。
恐ろしいほどに加齢を忘れた美しい顔をしておいて、その実は老獪にして悪辣だ。
だから仁は李が少し、苦手だった。
誰より一八の近くにいて、誰より一八を理解しているような男が苦手で、そして理解し難かった。


事前の情報であれば、李超狼は三島平八に実子一八のライバルとして養子となり、以来一八を倒すことだけを目標に闘っているとあった。
戦いの前に声を荒げて一八を罵ったり、子供のように口争ったりしている様を実際仁も見た事がある。
だから噂通りにいがみ合って、三島の実権を争っている関係なのだと仁は思っていた。だが、一八と同居した仁は数数の、とても憎みあっているとは思えないよ うな李と一八を見てしまっている。
あれは新しい燕尾服を一八が仕立てた時のことだった。届いた服一式に一八が袖を通して確かめ、当然のように李がボタンを填め、肩山を正す。
忠僕と主人そのもののような、流れる規律正しい空気。仁はぼんやりとその様を見ていた。仁からすれば悪趣味としかいいようのない紫の燕尾服。ああ、あれは 自分が宿した悪魔の色を模しているんだな、などと思いながら一八の何を考えているかわからない横顔と、常に甘い毒を含んだような李の微笑を交互に眺め渡 す。
と、一八が視線で自分の足元の不自由を李へ訴えた。李は軽く頷くと、その場に膝をついてしゃがみ、膝を立てる。李が立てたその太ももへ一八が足をすっと乗 せた。その間、無言である。仁は天気予報を見たかった、明日が雨なら今から洗濯物を干そうと思っていた、二人が何か異様に濃密な現代日本にそぐわない雰囲 気をかもし出している向こうのテレビへ用があった。だがどいてくれとは口に出来ず、ただ見る結果になった。

仁の目の前で、一八の裾をたちまち上げては下ろし、革靴を履いてちょうどよい丈になるように李が手早く調節を済ませる。李の白い指先へ銀色がきらめいた。
模造真珠の飾りがついた待ち針だ、仁は一瞬なにかぞわりとした。針は凶器だ。待ち針が一八の足の甲、青い静脈やせり出したくるぶし、荒れた踵、それらへ今 にも突き立てられて赤い血を流すのではないかと予感した。しかし、仁の何か甘美とも思える予感はまるで的外れに外れ、針は大人しく裾を横様へ留めている。 次いで白いしつけ糸を通した針で李は仁をおいてけぼりに仮止めにとりかかっていた。
一八はおいてけぼりどころか、仁の存在すら認識していないように見える。ただ視線だけは李の銀色の頭髪が窓から差し込む陽光にしろがね色に輝いているのを 見下ろしているようだったが、頭の中で何を考えているかはとても仁には想像がつかない。


プツン、そんな微かな音は常人には聞こえるわけが無い。けれど仁の耳にはたしかに聞こえて、はたりと我に返った。食い入るように一八の素足を見ていた自分 に気づいて、仁は違和感程度の嫌悪を覚える。
真っ白な糸切り歯が李の血色の薄い唇からこぼれて、それがしつけ糸を切ったのだ。
プツンと糸が断たれる瞬間、それまでずっと伏せられていた李の瞼がひらめき、仁を眼差しで射抜く。
大事なものをそうするように李の手のひらが一八の踵のまるみを丁寧につつみ、床へと下ろす。かわりにもう一方の足をうやうやしく膝へと上げた。


「………」

仁は背を向けた。太陽が隠れて、部屋が急に沈む。




そして、仁は聞いてみたのだ。
何か一八に対して、憎しみだけではない感情があるのではないかと。
「あいつが憎いんじゃなかったのか」
仁はわざわざ、憎い、の部分に力を入れて問うた。
「……一八が?」
小首を傾げ、余裕と小憎らしさの同居する目さばきで李は受け流す。
「他に誰が居るんだ」
あしらわれる事が不快だと、仁は少し苛立ちを混ぜて言葉を叩いた。李は肩をゆらしてふふふと笑う。
歪みにより生まれた美というものは確かにある、李の表情がそれだ。清らな感情によっては到底生まれようの無い、その汚濁が白い顔に彩りを添えている。
美蝶アレキサンドリアトリバネアゲハ、その幻想的な美しさは幼虫より食す毒草により作り上げられたもの。似た美しさ。
「貴様のようにか?……フ、一緒にされては困る」
「なんだと」


李は前髪をはらりとかきあげた。ふんぷんたる毒気が部屋に満ちた。稲妻のように烈しい目の輝きが恍惚となって、仁を退かせる。
「生を、道を、行き先を、全てをあれのために作られたのが私だ。名前すら本来私のものじゃない。全てはあれのためだけに…愛しい怨敵、ただの子供のわがま まと一緒にされては困る。フ、フフ…」


李超狼は、李超狼と呼ばれ、そうなった、そしてこれからもそうあるだろう美貌の男は人差し指を立てた。針でらしくもなく突いたのか、紅いひきつれた跡があ る。
仁の目の前で血の滲んだ指が、薄い唇に含まれていった。


日が沈む。